5月17日、武内理能(たけうちみちのり)さん(1954年生)の『葉の記憶。実の思い出』をいの町の土佐和紙工芸村『ギャラリーぼたにか』へ見に行く。
 一見、鉛筆で描かれた細密画のようだが、特殊な加工をした写真だそうだ。
 武内さんから説明を受けたが、高知新聞の記事がうまくまとめていたので、その記事ををそのまま引用させてもらう。「白い紙の上に拾い集めてきた木の実やつるを配置し、ライトを一方向から当てて撮影。現像の温度を調整することで、粒子の粗さと細かさを共存させたネガをつくり、印画紙に時間をかけて焼き込んでいる。」
 率直な第一印象は「美しい」だった。
 上載は「トチの実とボダイジュの実」だそうだが、そこにあるのは表皮の美しさではなく、トチの実とボダイジュの実の精神性がとらえられている、といっていいだろう。奥行きのある質感がそれを物語っている。トチの実とボダイジュの実は自らの精神性を晒し出すことで観客の精神性を問いかけているのではないだろうか。(そんな抽象的なことを言われても困る、という人は困ってください)
 この美しさは、(物質は原子でできているが)目にすることのない原子はもしかしたらこんな姿で存在しているのではないか、と思わせる美しさといえるだろう。
 いままで見ることも、想像することもできなかった原子はこのような姿でぼくたちを形作っているのだ、と確信することができた。
 原子の配列は美しい──なぜかぼくはそのようにずっと思ってきた。
 宇宙という矛盾と混沌がこんなに美しいのは、宇宙を形作っている原子の配列が美しいからだ、とずっと思ってきた。
 原子の秩序性が宇宙の美しさを保証しているのだと思ってきた。
 それを証明することはできないし、妄想だと言われればそれまでだが、武内さんは物質の本質を原子の世界にまで分解して、精神的な美しさを垣間見せてくれている。このトチの実とボダイジュの実に「宇宙」が潜んでいない、とは誰も言えない。






 3月16日、高知市文化プラザかるぽーとへ安藤義孝さん(1949年生)の個展を見に行く。
 前回紹介させていただいた橋田嘉宏さんが「臓腑」なら、安藤さんは「細胞」だった。
 鞭毛をヒラヒラさせた細胞が壁面を占領していた。他にもミトコンドリアやゾウリムシを思わせるような鞭毛生物が、肉感はないが質感のある(などとややこしい表現だが、そんな感じなのだ)存在として表現されていた。
 タイトルは『oasis』。壁面を占領している細胞の数々がオアシスとは思えなかったが、ともかくオアシスである。
 じっと眺めていると、オアシスはともかく、鞭毛の作り方に二種類あることに目がとまった。鞭毛部分を彫ってあるのと、絵の具を重ねて塗ってあるのとの二種類。陰と陽、負と正、雌と雄。自然界の営みそのもの、と言っていいだろうか。
 こんな様式を作りはじめたのはまだ一年にも満たない、と安藤さんが見せてくれた過去の絵は、青を基調にした人間の体内を模した宇宙の広がりが閉じられた世界へ吸収されていくような絵だった。
 一転、ここにある鞭毛を広げた細胞は、行儀よく整然と並んでいる。まるで世界は理性と秩序が優先している、とでもいったふうに。世界は開かれてもいず、閉じられてもいず、世界という荒涼さを測る術を誰も持っていないのだ、とでも言うように。
 が、ぼくは思う。細胞がこんなに整然とおとなしくしているはずがない、と。細胞は鞭毛を頼りにぼくらの体内を巡り、ぼくらを生かしているのだから。ヒトの生がこんなふうに理路整然と提出されていいはずがない、と。細胞は鞭毛を頼りに、体内という混沌、宇宙という矛盾を生きているのだから、と。
 そのうち、これらの鞭毛が蠢きはじめ、細胞が細胞本来の動きを取り戻して、ある日、展示壁面から細胞の姿が見えなくなってしまうという奇跡がおこるだろう、きっと。
 いや、今だって、細胞と人体と宇宙と混沌に心ふるえている人たちは、一見、理路整然とした細胞が内包している暗黒と混沌と狂気の胞子を嗅ぎとることができるだろう。その人たちにだけは、作り物だと思われている鞭毛が、微かな動きを志しているのが鮮明に見えてくるに違いない。
 安藤さん自身、一個の細胞を見ていると、その細胞が振動しはじめるのを感じる、と話してくれた。それは安藤さんにとって細胞の一つひとつが、自身の心のふるえを象徴していて、安藤さんの体内の細胞の鞭毛のふるえが、壁面の鞭毛と共鳴するからだと思う。だから、この細胞の形は安藤さんにとって『oasis』なのかもしれない。
 この、閉じられたリングは「ひも理論」の「ひも」に似てはいないだろうか。「ひも理論」とはアインシュタインが夢見た「統一理論」の最有力候補として、粒子から宇宙全体を説明できるかもしれない、と期待されている理論で、点状だと考えきた原子や電子、粒子をリングのように閉じられたり、棒状に開かれている「ひも」と考える理論だ。「ひも」は10のマイナス35乗と想像することを拒否するかのような極小の存在だが、このひもが波うったり、形をゆがめたり回転したり、といろいろな動きをすることによって、それらの振動に対応する素粒子も無限にあらわれて、この世界はそれらの素粒子でつくられている、と、まあ、そんな理論だが、そんな話は別にしても、全宇宙の謎を解き明かすかも知れない「ひも」と壁面一面の細胞の形が酷似しているのは、ある面当然なことではある。