11月14日、土佐山田美術館へ、物部村出身の小原義也さんが主宰する『現代美術グループCAT展』(出展者13名)を見に行く。
 小原さんの『WORK06No.10』とか、大貫博さんの『創造 2006』、菅沼稔さSんの『Penetration.88』、野見山由美子さんの『気』、和田喜代さんの『天と地と4,1』など目を見張る作品が並べられていた。

 ここでは、菅沼さんの「朱」にこめられた思いを紹介したい。
 赤の濃淡である。展示されていた作品は右の部分に紺色が描かれていた。高さ2.5メートル、幅5メートルぐらいの大きさの絵だ。
 この重層的な朱の遠近は宇宙好きのぼくには、光速で後退していく星雲をおもわせたが、そんな単純なものではなく、これは、この世の幸も不幸も一手に引き受けなければならない表現者である菅沼さんの、重層化し、悲鳴をあげはじめた心筋、ではないだろうか、とおもった。
  表現者は世界の根拠の謎を引き受けなければならないが、ひとりで解き明かすには自分の心筋だけでは心許ない。だから、すこしだけだが、観客の心筋と共鳴させてもらえないだろうか。世界は私ひとりのものではないのだから。(しかし、私ひとりのものでしかない、かもしれない。私の世界と、私以外の世界はどう繫がってるんだろう)
 菅沼さんの心筋は赤くいらだち、整然さを無視して左右にずれようとしている。
 観客はこの前でどういうポーズをすればいいのだろう、どういうしたり顔をすればいいのだろう、あるいは、どういうやり過ごし方をすればいいのだろう。菅沼さんの心筋に共鳴するのか、知らぬ顔をするのか、それとも、第三の方法があるのか。できれば、世界の構造と対峙することなく世界の根拠を解き明かしたいが、そんな虫のいい話が転がっているというのだろうか。
 世界の根拠、などという絵空事を思念してしまったときから、菅沼さんの心筋は悲鳴をあげつづけている。
 そうはいっても、この絵は、見る人に不安と焦燥を与えながらも、「朱」全体には奇妙な安定感がある。この安定感はなんだろう、と考えていたが、よくわからない。なんとか分かりたい、と立ちつくしていたが、とうとう分からなかった。
 『Penetration』とは光が膜を通って透過する、とか、通過する、という意味だそうで、展覧会から帰ったのち、菅沼さんのHPを覗くと次のように書かれていた。
 「ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所(1936年に設立された現在のドイツ国内では最大の強制収容所跡)を訪れた時の強烈な記憶を紡いでいます。
 収容所は、ドクメンタを凌駕するぐらいすごいもので「絵を描く根拠とか、ものを作る根拠とはいったい何なんだろう」と、それまでにも思わなかったわけではありませんが、すごく意識させられました。それで日本に戻ってきてから、もう少し原理的なものというか、即物的に、事物そのものの本質や根源を見きわめイメージを立ち上げるには・・・そういうものをもう少し自分なりに、考えてみたいなと思い。それで『Penetration』という言葉をタイトルにつけたんです。」
 (文中の「ドクメンタ」とはドイツのカッセルという街で5年に一度開かれる現代美術展のこと)

 HPを読んで、菅沼さんの「朱」にはそういう思いが隠されていたのか、と納得した。
 負の遺産を前に菅沼さんの心と肉体を光が透過する。その瞬間、世界の根拠のしっぽが菅沼さんの視界を横切る。その奇妙な、あるいは、清冽な姿に、菅沼さんの心筋が反応しはじめる。一瞬の世界の根拠は、だから、菅沼さんの「絵を描く根拠」を重層的に光らせはじめる。
 菅沼さんの絵はその瞬間を切り取ったものだ。世界の根拠を追尾している心筋の逞しくも危うい姿だ。
 もしかしたら、ぼくが会場で感じた安定感は、この「朱」が菅沼さんの肉体と精神を透過した光の重層であり、菅沼さんの心筋運動に一度取り込まれてしまっているがためなのかもしれない、とおもうが、どうだろう。






 ひさしぶりに美術感想を書く。
 土佐山田美術館での「アート・スコール展」。
 ここしばらく、どの展覧会に行っても、もうひとつ、もうふたつだった。
 こんなことを言っては「ダイケは不遜だ」と叩かれそうな気がするが、個人的な意見表明を表現と錯覚したり、自己模倣に近い安易さが散見された。(こんなことを言えば自分に跳ね返ってくることは承知である)
 「アート・スコール展」での安井勝宏(1969年生)さんの抽象画3点はもう何年も前からシリーズとして発表されている。
 「精神や時間的な広がりをも表現できれば」というのが安井さんの願いで、だから、繰りかえし制作されているのだと思うが、シリーズものは難しい。同じテーマをつきつめている、と言えば作者の精神性が前面に出てくるが、ときとして、自己模倣に陥る危険性がある。
 自己模倣と呼ばれないためには、1ミリ先、2ミリ先の自分を見据えているかどうかにかかっている、とおもう。
 3点あったうち、この「蓬莱」と名付けられた作品にひかれた。今までは、赤や青や緑を基調としていた作品が多かったが、今回は燃えるようなオレンジである。
 安井さんの今までのこのシリーズでは、安定した配色と構図が特長で、形と色へのこだわりが優先していたようにおもうが、今回のオレンジ色はそれらの整合性、安定性、楽観性を踏み外していた。
 ぼくはこういう思いっきりの良さが伝わってくる絵が好きだ。
 タイトルは「蓬莱」で、それは中国の伝説の土地で、仙人が住む不老不死の土地、のことだが、「だから、なんなんだ」とおもい、安井さんにメールすると、やはり「蓬莱山」のことで、「精神的自由の尊さや、不可視なものの存在への畏敬をダイレクトに色と形でアプローチを試みた」そうだ。
 燃えるようなオレンジが安井さんの不可視なものの存在へのアプローチの表出と位置づけられるかもしれないが、「蓬莱」というタイトルには違和感を持っている。だからといってこの絵の精神性や技術性が阻害されることはないのだが。
 現代詩が、一行の言葉で生命を得ると同じように、この絵のオレンジ色のように、絵画も目を見張るような色彩によって単純な構図が生命を呼びさまされることがある。






 清野(せいの)浩二(1961年生)さんの「水面(みなも)に見えるアングルⅠ」は立方体が描かれた2点。
 清野さんは初見の作家で、パンフレットを読むと、「自分自身と様々な環境との関わりをテーマに制作を続けている」そうで、この2点も、その意図にそったものだろう。
 水中におかれた立方体。閉ざされもせず、開かれもせず、時間の経過とともに立方体は喪失してゆく。点が線になり、線が幅を持ち、水中で、清野さんの立方体はその形を喪失していく。
 水辺にまつわる物語は、残酷という唯一の美しさを携えて、時間を寛容している。
 清野さんはこれ以外に石膏や木材などで“水辺”にまつわる題材の立体作品も発表していて、作者の姿勢が鮮明に受けとれる作品群だった。
 作者の姿勢が鮮明に受けとれる、と書いていながら誤読のような感想を書いてしまうことになるのだが、この2点の前に立ったとき、あっ、これは10次元空間だ、とおもった。
 また、ダイケが小賢しいことを言っている――と鼻先で笑われるかもしれないが、ぼくらが生きているこの宇宙は点の塊ではなくて、「ひも」という形状が最小形態である、らしい。(ぼくは見たことがないが、この理論が宇宙を説明する最新の方法だそうだ)
 この「ひも」自体は1次元であるが、その「ひも」は10次元の時空にしか住むことができない、そうである。それは清野さんの立方体が水中にしか住めない、ということに似ている。
 10次元なんて、どう想像すればいいのだろう。宇宙の規模は人間の想像力を拒否しているようにさえおもわれる。
 その10次元の「ひも」が振動している様をぼくたちの住んでいる3次元から見た図、というのがあって、その図に清野さんの立方体が酷似しているのだ。
 「ひも」は一種の幾何学的なエネルギー状態でそれが動いたり震動したりすると素粒子になるのだが、清野さんの立方体はなんになるのだろう。
 なんにもならずに、水中でこの世界の崩壊を見届けるだけなのだろうか。