4月から毎週火曜日の夜、「高知市文化プラザ・かるぽーと」へ、『高知市民の大学・宇宙のしくみと天体』を聴きに通っている。7月までの4ヶ月間。講師は高知大学理学部の先生方など。宇宙や物理関係の講義は6?7年に1回開かれているのだが、今回はノーベル賞をもらった小林・益川理論の講義(「宇宙から反物質はなぜ消えたのか」)もあるというので前回よりも受講者が多くてびっくりした。100人を超えている。

 もっとも、そこで語られることは本を読んで知っていることが多いのだが、スライドを前に、人の声で物理の基礎を聞くのは楽しいものだ。(最近引きこもっていて、人の声に飢えている、と笑えないダイケの個人的な事情で)

 

 先日「超ひもと高次元宇宙」の講義があった。

 かつて、宇宙にあるすべての物質を作る最小の単位は、素粒子という()であると考えられてきた。

 (ギリシャの哲学者デモクリトスは「すべての物質はそれ以上分割不可能な小さな粒子(アトム)からできている」と言ったし、デカルトも「この宇宙は誕生してから粒子の運動を経て今ある宇宙になっている」と言っているではないか。)

 しかし、1970年頃から、それは()ではなくて、さらに小さな一次元のひも状のもの(、、、、、、、、、、)として考えなおしたほうがよいのではないか、と複数の研究者が考えはじめた。(その「弦理論」で南部陽一郎が昨年ノーベル物理学賞を受賞した)

 物質の最小単位は()ではなく、振動するひも(、、)(=弦)で、ひもの形や、その振動の仕方によっていろんな粒子が作られている、というのだ。

 そしてこのひもが存在するのは10次元か26次元の世界であるので、ぼくたちも10次元か26次元の世界に住んでいる、らしい。だが、現在ぼくたちが理解している4次元以上の次元(=余剰次元)は、量子レベルでとても小さく(、、、、、、)巻き込まれているので、それらの次元を意識しないで暮らせている、らしい。

 一枚の紙を一つの次元と考えると、その紙を筒のように小さく巻き込んでみる。すると巻き込まれた紙は線のように見える。それをはるか遠くから見ると、線すらないように見える。それが、次元が巻き込まれていることだ、という図解を見たことがあったが、ここらへんの想像力(そう ぞう ちから)は大変なものだ。

 こんな突拍子もない話、それに、まだ一切の証明がされていないこの振動する一次元のひも(、、、、、、、、、、)が多くの科学者になぜ支持されているかというと、この超弦理論が正しいとすると、時間、空間、物質、力のすべての成り立ちがひとつの理論で説明できるから、ということだ。(ひもには力の素であるボソンのひも(、、、、、、)と物質の素であるフェルミオンのひも(、、、、、、、、、)があるそうだ)

 

 そんな話しを聞いていると、「オッカムのカミソリ」と呼ばれる考え方のことを思いだした。(オッカムとは14世紀の哲学者、神学者)

 ある現象を説明するのに一番単純なやりかたが、 ほかの多くの複雑な説明よりも、正しい説明としての見込みがある、という考え方だ。物事は複雑さではなく単純さに真理がある、とでも言ったらいいのだろうか。ひとつの理論で宇宙のすべてが説明できればそれに越したことはないし、その数式は美しいだろうとおもう。E=mc2のように。

 そんなふうに、数学者にしろ、物理学者にしろ、数式を扱う人たちは数式の単純化と美しさを求めている傾向がある。

 

 それは詩の世界でも同じだろう、たぶん。

 なるだけ単純な言葉で表現できたらいい、そして、その言葉の配列が美しい形をしているといい──のだが、屋上屋を架すような書き方を楽しんでいるぼくには、なかなかそんな達成感は実感できない。 

 

   そよぐ梢の 葉は空に触れない 樹はただ喜びを風の

  中で振る さわさわ さわさわ 古い灰汁が洗い落とさ

  れ (まばゆ)い素裸が躍り出る

 

   それは樹自身なのか 首が痛いほど見上げている私

  樹であることに目覚めながら 樹の外へ激しく奪われて

  いく心

 

   そよぐ梢 そよぐ梢 人の言葉では それを憧れとい

  う

 

 岡野絵里子さんの詩集『発語』(思潮社)のなかの「憧れ」全篇である。3年前にいただいた詩集だが、いつか触れたいとおもっていた。

 ここには、私であることに目覚めながらも、私の外部である未知の存在に激しく揺さぶられている()が簡潔に描かれ、また、描かれていると同時に、揺さぶられた私の行く末が描かれることを待っている。

 必要最小限の言葉が美しく行列している一篇だ。こういう詩を目にするとぼくのグダグダな詩など言葉の無駄遣いだとおもってしまう。

 岡野さんのこの一冊は、存在と不在のあわいのなかで、他者のまなざしによって再生していく()の有り様が丹念に、かつ簡潔に描かれていて、描かれた私によって存在の希望が刻印される、という構造を持っている。

 次に引用するのは「永遠の一日」という詩の部分。この詩も言葉の行列が簡潔で、かつ美しい。

 

   山脈にかかる雲がほどける 祭壇から巨大な手で垂ら

  される水のヴェール それは花嫁のうなじを包む白い光

  だ 地上を遙か離れたものが 無垢の光を放つのはなぜ

  だろう 人はただ小さな傘をさして 無垢が街に降る音

  を聴きに行く 雨粒は地上に触れる直前に 翼をたた

  み そっと爪先を揃える

 

 『発語』と題するこの詩集はタイトル通り岡野さんの言葉の生成の現場に立ち会える詩が何篇かある。

 

   ざわめきを遠くに聴きながら 訪れを待つこの時間は

  よく知っている幾度もの夜と同じだ 明け方の紙に書き

  つけられ 慌しく送られて ほんの少しの友人に読まれ

  る詩の言葉 その発語を待つこと    (「発語」部分)

 

 岡野さんの「発語」は外部(の刺激や挑発)からやってくるのではなく、内部からやってくる。それも、自らの欲望や焦燥にかきたてられることなく、岡野さんの内部で「なにか確かなもの」が熟成するのを待ったのち、「発語」が訪れる。

 この静寂な待機時間は岡野さんの身体と言語を他者に委ねることに必要な時間だろう、きっと。

 岡野さんは《何ごとかを言わねばならない》のでもなく、《自発的に言語を表出した》のでもない。

 ただ、岡野さんの内部で熟成されたもの、それを記録するかのように「発語」がおこなわれる。それは、きわめて、受動的である素振りをしているが、岡野さんの内部で熟成されたものがそんなに受動的であるはずがないことは、岡野さんの読者ならだれもが知っていることである。

 熟成された言葉に、余分な装飾と謎めいた構文は必要ではない。

 (《 》内、吉本隆明『言語にとって美とはなにか T』(勁草書房))

 

 ひもの話に戻るのだが、このひもの両端はDブレーンという面に制限されているという。

 もともとDブレーンはひもの境界条件(ディリクレの面)だったのだが、現在では立場が逆転している。

 この面は透明で、最初はひもの両端が動いているのが分かるだけだったが、次第に、全体像が変わってきて、最初から面が存在していて、目に見えない平面からひもが出ているのだと思えるようになってくることで、「ディリクレの条件」だったDブレーンがダイナミックな存在であり、ひも理論の欠かせない構成要因になっていったという。

 Dブレーンの方程式もあるそうだが、まあ、興味のない人は聞きながしてください。下の図がその「ひもとDブレーン」です。竹内薫の『次元の秘密』(工学社)という本から拝借した。





 なお、ひもの大きさは10-35mという小数点以下0が34個も並ぶ想像すらできない極小の世界だ。

 

 この極小の世界に関してはエルヴィン・シュレーディンガーのおもしろい考察がある。(この人はオーストリアの理論物理学者で、ノーベル物理学賞を受賞していて、量子力学の父と呼ばれたほどの人だが、困ったことに、小児性愛者で、とりわけ幼女が大好きだったそうだ。犯罪として立件されたかどうかはぼくは知らない)

 『生命とは何か』(岩波新書、岡小天・鎮目恭夫・訳)の中で、われわれ自身の身体の大きさにくらべて、原子はなぜそんなに小さいのか? と考察している。

 たしかに原子とは10-10m(小数点以下0が9個も並ぶ)という小ささだが、「われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくならなければならないのか?」。

 シュレーディンガーはブラウン運動やねじり秤という複数の例えで説明しているが、その中の一つである「拡散」という現象で説明すると、こういうことだ。

 容器に水を充たして、その中に色のついた液を落とすと「拡散」という現象がはじまる。濃度の濃い方から濃度の薄い方に色が拡散していくのが見てとれる。時間が経てばまんべんなく色のついた液体が容器一杯に行き渡る。

 しかし、液が拡散しているある一瞬を取り出したとき、濃度の薄い方から濃い方へ逆行している粒子がある。水の粒子と液体の粒子はランダムに衝突しながら揺らいでいるのだから。 

 

 ここから理論になるのだが、このように例外的な動きをする粒子は平方根の法則(√nの法則)に従うそうだ。n個の粒子があれば√nだけ平均をはずれた動きをするそうだ。

 先の例でいうと液が薄い方から濃い方に流れる、という現象がみられる確率。

 このことは統計上の法則で一般的なもので、物理学や物理化学の法則は√n分の一程度の確率誤差率の幅をもってその範囲内で不正確なもの、だそうだ。

 その法則でいくと、n=100なら例外は約10、誤差率は10%、n=100万なら例外は1000となり、誤差率は0・1%に下がる。

 実際の生命体は100万どころか、その何億倍もの原子からできているから、原子の振る舞いの誤差は極端に小さくなって、考慮にいれなくてもいいほどである。

 これが原子が極端に小さな理由である、と同時に、生命体(人間の身体)が大きい理由である、とシュレーディンガーは次のように結論づける。

 「生物、および生物が営む生物学的な意味あいをもつあらゆる過程はきわめて『多くの原子から成る』構造をもっていなければならない。そして、偶然的な『一原子による』出来事が過大な役割を演じないように保障されなければならない、と。このことは本質的なことで、それ故にこそ、生物体は、そのすばらしく規則的な秩序整然とした働きを営むに必要な十分に厳密な物理法則を維持することができる」 

 この人間社会でも変わり者はいるもので、人が右向いているときにどうしても左向いてしまうものがいる。(恥ずかしながら、ぼくもそのうちのひとりだと自負している)

 その人数は平方根の法則でいくと、世界の人口を66億人とするなら8万人ぐらいである。8万人というと一見多い人数のようだが、66億人のうちの8万人である。パーセントで言うと、10-5%(小数点の後に0が4個つく)でしかない。想像もつかないほどの極小の人数だ。これぐらい極小なら、世間的には何の効力も発揮しないだろうから、排除されることもなく生きていられるのだろう。

 平方根の法則とは便利なものである。極小の存在を緩やかに寛容しているといえるだろう。ぼくにしてはありがたいことだ。ぼくのような、世間に背中を向けてすねている素振り(、、、)をしている人間がひっそりと生きていけるのはありがたいことだ。

 そう言いつつも、ぼくのような、社会的に、世間的に無意味な存在は社会や世間の緩衝材として必要ではないかと、ひっそりおもっているが、どうだろう。

 

 かつて、『無意味な存在』という題で、4年ほど前に、次のような文章を高知新聞に書いたことがある。

 

 「最近まで、生物が生命活動を営むための設計図となるDNA(デオキシリボ核酸)のほとんどは、なんの情報も持たない無意味な塩基の羅列でしかなく、意味のあるDNAはほんの2%程度でしかない、というのが定説だったか、最近、DNAの70%以上が何らかの役割をしている、という実験結果が出た。

 これは困ったぞ、とちいさくおもった。

 人間に限らず生物の身体の一つひとつは、これ以上は考えられない効率性や有効性や論理性を駆使して日夜奮闘している。

 言ってみれば、人間の部品の一つひとつはまったく無駄のない神業のような存在だ。

 ということは、ぼくらの身体には無意味さがない。そのことを「美しい」と言ったり「機能的」と言ったりする人もいるが、ぼくは「窮屈すぎないか」とおもっている。

 無意味で無駄な部品を抱え込んだ身体のほうが、危急のときに鷹揚な対応ができて、ダメージを回避することができるのではないだろうか。

 遊水地のような無駄さが、全体の崩壊を防ぐのではないだろうか、とおもったりしているが、現実の身体は無駄のない部品を無駄なく働かせることに疑問を持っていないようだ。

 ところが、ここ何十年も、設計図の元となるDNAの98%は何の情報も持たない無意味な存在である、と言われてきた。

 人間の身体もまんざらではないぞ、とおもわずにはいられなかった。

 精密な構造の中に無用の羅列を抱え込んでいる。人間の身体の懐の深さをすこしは感じていたのだが。

 最近の社会も人間の身体と同じような構造になっている。

 利益追求を優先して、効率や有効性、利潤を社会全体が旗印にしている観がある。

 それに参加しようとしない人たち、あるいは、参加できない人たちを「無意味で無駄な存在」として認めたがらない傾向がある。

 ぼくはそんな社会はつまらん、とおもっているのだが。

 (中略)

 DNAの70%以上が有効性を持っている、という実験結果が出て、すこし残念におもっている、が、それでもまだ30%近くのDNAが無意味な存在である。

 ぼくらの社会も、せめて30%ぐらいの無意味な存在を許容できる社会であってほしい、とおもう。

 だが、いつ、残りの30%も有効性を持っていて、人間のDNAの100%が有効な働きをしている、というおそろしい実験結果が出る日がくるかもしれない。」

 

 無意味といえば、ぼくらの身体もその重さに似合わず、空虚さに充たされている。

 先ほど、原子は小数点以下0が9個も並ぶ小ささ(10-10m)、と書いたが、すべての物質はその原子から成りたっている。ある本を読んでいると、地球とピンポン球の例えが出ていたが、それぐらいの小ささのようだ。

 原子の大きさ、については、いろいろ本を読んでいると、単に10-10mと書かれている本や、直径が10-10m、あるいは、半径が10-10m、と書かれている本があってややこしかったので、市民大学の講師である高知大学の岩崎正春先生にメールで問い合わせたら、

 ──原子の大きさについてですが、原子と周りの真空の間にははっきりした境界はありません。原子の外を回っている電子の確率波の雲がボヤとあるだけで、その雲の大体の半径を我々は「原子の半径」と言っているだけです。したがって、その半径は大まかな値ですので半径と言っても、直径と言っても大差ありません。また、ひもについても、ひもの長さはボヤっとかすんでいるのではっきりした値はありません。──

 という返事をいただいた。考えてみれば、ミクロな世界では半径であろうが直径であろうが、たいした誤差ではない。ここらへんはダイケの想像力の無さゆえの質問だった、と反省している。

 

 その原子は原子核と電子で成りたっているが、原子核の大きさは原子全体の約1万分の1という小ささで、かつ、原子の質量のほとんどがその原子核に集中している。(いろんな本を読んだが、電子の大きさについて触れているものがなかった)

 ということは、1万分の1の大きさの原子核が原子の重さのすべてを引き受けている。原子の中の1万分の9999の空間は重さすらない。そう、原子は1万分の9999の空虚に充たされているのだ。その原子で作られているぼくらの身体も1万分の9999の空虚さに充たされている。

 なんてことはない。ぼくらの身体は見かけ倒しでしかない。50キロあろうが、80キロあろうが、実際のところ、1万分の9999の空虚を元々持たされているのだから。

 

 ぼくらはときどき、理由もなく(ほんとうは理由はあるのだが、直視するにはつらすぎる)、心のまん中が空っぽになったり、生きていることすら虚しくなったり、心のどこにも力がはいらなくなったり、あげくのはてには、ウツや引きこもりになったりと厄介な空洞を抱えることがあるが、それは原子の1万分の9999が顕在化した結果ではないだろうか。

 そう考えると、すこしは楽になる。心の中のできごとの1万分の9999を原子の責任にできるのだから。

 若いころ、美しい女性に失恋して心の空洞がキュンとなったときがあったが、そんなとき、原子の空洞もキュンとなっていただろうか。

 

 話があちこちに飛んでしまった。ひもとDブレーンの話だった。安井さんの個展でそのDブレーンに再会した。(「安井勝宏作品展」於・アトリエ倫加)



 最近、安井さんは「flat-machine」というタイトルで連作を試みている。上の絵はその中のひとつ。

 立体ではなくフラットな機械をイメージしている、と安井さんは言っていた。目に見えない機械装置を具現化した世界だ、と。

 物事の始まりとか、終わりとか、生成とか、仕組みとかを、機械の形を借りて寓話的に探っているのだ、と。

 その目に見えないものを伝えるには三次元よりも二次元の方が伝えやすい、と。

 遠近法をつかって機械を機械らしく立体化してしまうと即物的になるので、次元をひとつ減らすことで即物性から逃れて、自分の中の何かを表現したかった、と。

 これらの絵に出合ったとき、Dブレーンに再会したような懐かしさを感じた。

 最近の安井さんの絵は、静かで、無口で、他者のまなざしを不用意に受けとることで彼自身の内面をふと吐露してしまっている、そんな感傷的な一面をずっと感じていた。

 だからつい「生命力を感じられない保守的な絵だな」と言わなくてもいいことを言ったりしたこともあったが(身近な人に毒づいてしまうのは悪い癖だといつも反省している)、今回は、生命が終わったあとの安らぎ、のような印象、否定的ではなく、肯定的な印象を受けた。(機械に生命があるかどうかはこの際聞かないでほしい)

 それは、この絵が青を基調としていることから受けた印象かもしれない。青は、欲動とは反対の印象を伴っているのだから。それに、もうすこし言えば、flat-machine」というタイトル書きにこだわって見ていたせいかもしれなかった。

 アクリル絵の具を使って、マチエール(肌質感)を大事にしたかった、と安井さんは言っていたが、アクリル絵の具の効果で、凹凸感やザラザラ感が強調され、machineといってもmachineの精巧さ精密さ単純さ緻密さ理性さ強固さなどが削がれ、machineという名の作者の精神性がクローズアップされる効果をあげているように感じたが、それは、好意的すぎる感想だろうか。

 個展から数日経ってぼくの事務所に安井さんが個展のときの写真を持ってきてくれた。そのとき安井さんと彼の絵について話した。ぼくの印象と安井さんの作画意図はだいぶ乖離していたが、その齟齬がおもしろかった。ぼくの想像していなかったところから発語してくる安井さんとの対話が楽しかった。

 

 このmachinemachineの整合性を失うことで、フラットな面として存在させられている。

 白紙のキャンバスに向かうとき、安井さんの感情と理性が絵の具を伝わってキャンバスに定着される。そこではまだ、flatmachineを志している安井さんの感情と理性が優先していたが、できあがった絵の前では、安井さんの感情はこの面によって制御され、安井さんの理性はこの面によって制限されはじめる。

 それは、絵でも詩でも同じだとおもう。できあがった作品によって作者は制御され制限される悦びが生まれるのだ。

 それは、最初、ひもの「ディリクレの条件」でしかなかったDブレーンがひも理論の欠かせない構成要因になってしまったと同じように、安井さんのflatmachine=フラットな面(Dブレーン)が安井さんの感情と理性を制御し制限することで安井さんは、このフラットな面上でひも(、、)になるのだ。

 ひも(、、)が振動することでこの世界のすべてが創造される。画家であれ、詩人であれ(ヴィヨンであれ)。

 

 ニュートンの時代、光や原子などは粒子の集まりからできている、と考えられていた。

 19世紀にはいって「干渉」や「回折」という実験をとおして、光は「粒子の性質」(1個2個と数えることができるもの)と共に「波の性質」(海の波が広がっていく様子とほぼ同じ)を合わせ持つということが立証された。

 20世紀にはいって、光や原子や電子など、この世界を構成している物質のすべては「粒子」と「波」の両方の性質を持ち合わせている、という実験結果が出た。そして、このふたつの性質を持ち合わせる物質を「量子」と呼ぶと決めた。

 この世界の物質のすべては「粒子性」と「波動性」を持ち合わせている──のである。

 世界は波のように揺らいでいる、のだ。

 

  希望はいつもどこかにある

  絶え間ない戦争や飢饉は世界各地に

  非業の無数の屍を曝し

 

  歪んだ文明は欺瞞の光の幻をひろげ

  その中に現れた(うつつ)の世界の不毛

 

  それでも季節の岸辺で

  無数の目が光っている

 

  羽化しようとする蝶の蛹

 

  石垣で孵化を待つトカゲの卵

 

  小川の日溜まりに浮く蛙の帯状の卵

 

  冬を越す木々の硬く閉じた芽

 

  若い女の月満ちた子宮の球形の胎動

 

  時間は降り積もり

  積み重なり 堆積していき

  記憶が生まれる

 

  鮮やかに生の形を伝えてくるものたちの背後

  遠くの地平に

  透明な陽炎になって揺らいでいるものがある

 

  未だ芽生えの形を持たない

  未生のものたち

 

  粒子であり波動であるものたち

 

  生の原初の存在であるものたち

 

  色彩を再生し取り戻す

  季節の予兆のように

 

  心象に投影される原初の風景の中で

 

  それぞれの諧調へと

  調和する運命を密かに

 

  予告しているものたちが

  確かにある

 

 引用したのは、池田實さんからいただいた『暁暗のトロイメライ』(思潮社)の中の詩「波動する生」の前半部分。

 

 この詩集には21篇の詩が収録されているのだが、

 「都市の死者たち」では死者が、言葉を失ったドッペルゲンガーとなって現れるが、彼らが永劫に繁栄の廃墟に封じ込められる世界が語られ、

 「蝶の曼荼羅」では、死後献体を契約している男が、蝶の群れを追いかけていた少年期の自分と、死にむかっている今の自分との位相差による至福と喪失の幻視が語られ、

 (位相差顕微鏡は物質を通過するとき時間が遅れて出てくる回折光のおかげで、明視野顕微鏡と呼ばれている一般的な顕微鏡では見えないものを見ることができる(ダイケ))。

 「群衆と個々の死」では、個人の死を許さず、群衆の一員として東京大空襲で死んだ母子の未生の存在に還る姿が語られ、

 「偽装する若い黒猫」では、匍匐前進しながら鳩を狙っていたが成果を得られることのなかった黒猫以上に、擬装や偽装のテクノロジーをシステム化し、そのシステムの外に出ることができなくなった人間の死が語られ、

 「黒い犬の影」では、背後に幻影の犬を連れて歩き、その犬たちの夥しい死を目にしてしまう男の、男と犬の鏡像関係が語られている。

 

 池田さんのこの一冊は、死の記憶と人の存在の危うさが釣り合っている世界、とでも言ったらいいのだろうか、あるいは、タイトルに表示されているように、暁の闇の中で死と生を夢想することだけが今ある世界を語ることでしかない、とでも言ったらいいのだろうか。

 あるいは、死の表層を往還させられながら、その実、死は思いもよらず、ぼくたち個人の深層に、社会やシステムとして、無自覚、と言っていいのか、自堕落に、と言っていいのか、そういうあり方で浸透していて、鏡像や幻視では垣間見ることはできるが、直接的にはその姿を見ることができない死が、社会やシステムを横断していることに気づいていない、ということがあぶり出されている、と言っていいのだろうか。

 そんな世界が描かれたあと、詩集の最後に置かれた「波動する生」は、粒子であり波動である私たちの世界の中で、生の原初の存在であるかもしれないものたちが、それぞれの諧調へと調和する運命を予告している、と死の介在する一即一切の世界からの離脱を試みている一篇で、ヒトの力の波動を希求している姿が、あるいは、その先に生じてくるだろう生物の再生の暗示が、語られている。

 しかし、池田さんの思考が、

 

  実在の周辺を浮遊する世界から

  宇宙の原初の揺らぎの量子の世界へ還って行く

 

  私は 今 その旅の途次にある    

                   (「旅の途次」部分)

 

 であるなら、人は生や死という観念から解き放たれ、粒子として観測したときは粒子に、波動として観測したときは波動として姿をあらわす量子の自在さに身を委ねることを最終の姿と位置づけているのだろうか。

 そうかもしれない、と心細くおもう。

 世界は不確定性原理に支配されて、量子はその存在位置と、その速度を同時に知られることはないのだし、世界は波のように揺らぎながら、世界のなにも決定することができない位相に、ただ、置かれているのだから。

 

 

 今号はここまで、とおもっていたが、なんとも気になるニュースをやっていたのでつい、書きつないでみる。

 今日(6月1日)から『改正薬事法』とかいうのが施行されて、「登録販売者」という資格を持った従業員が対面販売すれば、コンビニなんかでも医薬品の販売(限定的ではあるが)が可能になった、と、朝のワイドショーでやっていた。

 イオンなんかが力を入れていて、既存のドラッグストアを巻き込んで販売競争が行われ、値引き合戦になりはしないか、とか、コンビニで販売することで夜中でも薬の入手が可能になり便利になった、とか騒々しかった。安くて便利になる(、、、、、、、、)、ということはいつの時代でも錦の御旗みたいなものだ。

 一方で、対面販売を原則とする販売方法がとられるため、インターネットでの通信販売や郵送販売がダメになるそうだ。(現在議論中で、2年ぐらいは通信販売や郵送販売を認める、というようなことをアナウンサーが言っていたが)

 なにもかもインターネットでというのはどうか、と常々おもってはいるが、それはコンビニやドラッグストアがすぐ近くにあるぼくの言い分で、離島や、過疎地では店舗すらない。

 そんな話のつづきのなかで、千年以上つづく日本の伝統薬の存続が危機にさらされている、という話題があった。

 伝統薬というのは主に野草や木の皮などを原料に伝統的な製法などによって生成される薬のことで、「家伝薬」や「伝承薬」ともいわれ、日本各地に存在する家族経営の零細企業が独自の製法で処方し、その七割を電話販売に頼っている、という。

 全国の薬局薬店で販売すると流通コストやマージンが上乗せされ販売価格が高くなるから電話販売をしていると言っていたが、それ以上に、薬局薬店が、家族経営の零細企業で作った薬を常備することなどけっしてないだろうから、電話販売するしかないだろう、と推測する。

 

 ほんのその昔、ぼくらの祖先は、野草や樹木を知りつくして、そこから食料になるもの、医薬品になるもの、毒になるもの、を分別して暮らしてきた。

 『野性の思考』(大橋保夫・訳、みすず書房)の中でレヴィ=ストロースは次のように書いている。

 「コアウィラ・インディアンの知っていた食用植物は六十種、麻酔性、刺激性、または薬用の植物は二十八種を下らなかった。セミノール・インディアンのインフォーマントは、たった一人で植物の種・変種二百五十を識別している。ホピ・インディアンは三百五十種類の植物を、ナヴァホ・インディアンは五百種類の植物を知っているという調査結果が出ている」

 人は自然を知り、自然の力の助けをうけて、自然とともに生きてきた、などという手垢のついた駄文は書きたくないが、内山節も新刊の『「里」という思想』(新潮選書)の中で、文明について触れている。

 「自由や平等といった理念の実現が、ヨーロッパ的文明の世界化と結びつくという傾向が生まれた。文明の空間的普遍化を実現することと、近代的理念の普遍化が結びつき、非ヨーロッパ的文明の世界が自由や平等の実現していない世界としてみなされるようになったのである。しかもこの理念は、人間中心主義的な理念であったがために、自然と人間の間に成立する自由や、風土と人間の間に生まれる自由、各地の先住民たちがもっていたアニミズムやシャーマニズムと結びついた自由や平等、神話的世界を介在させた自由、平等、友愛などは、その視野からはずされた。あるいはそれらの文明は、野蛮な文明として、ときに自由の敵とさえみなされたのである。」

 まるで、レヴィ=ストロースの文章を読んでいるような書きっぷりだ。

 周知のように、レヴィ=ストロースは人間中心主義のサルトルを批判し、西欧中心主義の文明に対して、未開地の文明を押したてた。

 「樹木」とか、「動物」というような概念を表現する用語を持たない言語だとしても、かれらは、動植物の種や変種の名を詳細に書き出すための必要な言語はすべて持っている──と未開地の先住民の文明に光をあてたのだ。

 レヴィ=ストロースは実存主義はヒューマニズムだと言ったサルトルに猛然と立ち向かい、構造主義を打ちたてていく。現在の思想はこの構造主義をめぐって動いている。

 

 話を元に戻すと、ぼくには今度の薬事法の改正、特に「通信販売、郵送販売禁止」はとてもうさんくさく見えるのだ。

 国のやり方はいつもがこうだ。

 官僚、政治家、製薬会社、この三者の腐れ縁が全くない、とおもっている人は関係者以外だれもいないだろう。

 いま、医学界はES細胞やiPS細胞といった万能細胞の研究や、さまざまな最新医薬品を大々的に打ち上げ、科学技術の到達点を見せつけようとしているようにおもわれる。

 たぶん、多額の金が動き、研究の成果は多額の金を生むことになっているだろう。そこには当然「アニミズムやシャーマニズムと結びついた自由や平等、神話的世界を介在させた自由、平等、友愛など」は笑止千万で、人間中心主義を旗印に、(ヨーロッパ的)文明の力を見せつける段階に入っている。

 そこでは、千年の伝統のもと、自然の生命力を活用した「伝統薬」などというものは「野蛮な文明として、ときに自由の敵とさえみなされ」ている。というか、かれら(官僚、政治家、製薬会社)にとって、「伝統薬」の効能やその利用者などは、取るにたらない存在でしかないのだろう、きっと。

 昔ながらの腹痛薬、やけどの薬、頭痛の薬などは民間伝承であり、そんなものがなくなっても、科学的な医薬品でより高度な治療をしてやる、とおもっているのだろう。

 だから、この三者が手を組むことによって、「対面販売」という、一見、医療事故から国民を守っているという「国としての善意」の姿勢を打ち出して、政治献金や、多額の開発費(活発な経済活動)を出すことのない家族経営の伝統薬を締め出してしまっても、その数を考えれば(平方根の法則に従えば)たいしたことはない、という、いつもながらの、力の論理、少数者の切り捨て政策、とおもってしまうのだが。

 国民の健康のことを唯一におもっているのなら、他にもっとやることがあるだろうが、とおもってしまうのはぼくだけだろうか。

 いちいちは書かないが、病人は病院から追い出され、高価な薬漬けにされている。

 高価な注射や薬でなくてもいい、飲み慣れた、自分の体にあった薬を呑んで、それなりの寿命で死んでいけばいい。国に生命まで管理される謂われはない。

 ついでに、ダイケにしては甘ったれたことをいうと、患者は医者の専門的な知識に安心するのではない。生身(なまみ)な言葉に安心するのだ。