10月21日、国吉晶子さんの個展を見に行く。「フレームの中の出来事」と題した10点。

 ひさしぶりに見た国吉さんの絵はあいかわらず美しさ≠ェあった。

 今回は趣向があって、案内の葉書にこうあった。

 ──「樹木」をモチーフにした絵画作品に取り組んでいる。画面に不均衡に繋がっていく木と鳥を通して「枠」の中に潜む新世界を描いた。──

 

 今回は小品が多かったせいか、あるいは、フレームの中で枝と葉という具象を選択したせいなのか、その美しさ≠ェおとなしく感じられた。以前はキャンパスをはみでる美しさ=A作品の悲鳴と悦楽の声が、作者の愉楽と精神性の声が聞こえそうな美しさ≠感じたのだが、今回はその美しさ≠ェ声の出自を強調するのではなく、フォルムの美しさを主張しているかのようだった。

画廊に入った第一印象は、フォルムとして存在していることでみずからの存在が制限されてしまったのでは、とおもったが、(そのおもいは今も変わらないのだが)フレームの中の出来事、として制限することでフレームの外の出来事が、観客の想像力に責任転嫁されるという仕掛けがあるのではないか、とおもったが、いやいや、国吉さんはただたんに、フレームの中でみずからの在り方を精算しようと試みているだけなのかもしれない、と、いやいやそんなあやふやなことではなくて、フレームの中でしか表現できない色彩とフォルムを見極めようとギリギリの表現を試みているのかもしれない、といろんな事が頭の中をめぐっていたが、目の前の国吉さんには何ひとつ訊けなかった。絵は、現前の絵は、作者が、観客が、何かを語った瞬間、絵としての輝きを失ってしまうのだから。

 表現はどんどん変わっていく。ひと処にとどまる自分を恥じることで人は人になっていく。いや、ひと処にとどまる自分を慈しむことでも人は人になっていく。国吉さんの表現が、キャンバスという自己の制限をはみ出した抽象から、「出来事」と自己規制するフレームの中の具象に変わりつつある現場がこの個展だとしたら、国吉さんのフレームと出来事はどういう変化をしていくのだろうと、抽象好きのぼくとしてはすこし残念な思いを抱きながら、まあ、その先を見てみたい、とおもっている。

 

 しかし、あいもかわらず白≠フ美しさはみごとだった。枝のたおやかな存在感、葉っぱの屹立する孤独に拮抗するかのように空間が白く塗り込められている。この白の美しさが国吉さんの源源だろう。この白さにビックリして以来、国吉さんの絵にとらわれつづけている。