《序章》

日本詩論のみなもと

 

二つの「序」をめぐって

 

 紀貫之の有名な「古今和歌集仮名序」は、次のように始まっている。

 

 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

 

 これは広い意味で言えば、日本で最初の「詩論」のことばではないかと言われている。なぜならば、とにもかくにもここでは「ことば(言の葉)」というものを、「意識(人の心)」から切り離し、それと向き合うかたちで、つまりそれを対象化して見ようという態度が感じられるからである。心からことばが生まれ、それが「歌」につくりあげられる。このような一つの「発想」の道筋を、いわば「論じ」ようとしているのである。従ってここでの文脈に倣う限り、ことばというものは決して「自然な過程」として見られているわけではないのであり、そのことがまた、いわゆる詩論的展開の片鱗を垣間見させるということにもなるわけである。しかしながら、貫之はその少し後で、次のように言ってしまう。

 

 花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける。

 

 これは、鶯も蛙も、その他生きているものは全て人間と同じように歌をよむのだと言っているわけであるが、貫之はこれを決して「喩え」として言っているのではないようにみえる。彼は人間のことばも、鶯の囀りも、蛙の鳴き声も、全て同列のものとして扱っているのである。人間の、たとえば吐息と同じように、自然で自明なものとみなしているわけである。

 だが、ことばは決して自然のものではない。ことばが「非自然」であるからこそ、逆に私たちは自然というものの圧倒的な無言(非言語性)、圧倒的な現前に直面し、それを意識化することができるのである。鶯の囀りや蛙の鳴き声は、自然そのものである。だからこそ彼らはそれを自覚できないのだ。そして私たちの場合、もしそのような、ことばに対する自覚がなかったならば、ことばは自然に対して単なる「情緒の等価物」になるだけで終ってしまうだろう。貫之はまた次のようにも言っている。

 

 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。

 

 これは「この現世に生きている人間は、様々の出来事に関るものなので、その折々の心情を、見るものや聞くものに託して表現したのである」ということなのだが、ここにはことばというものが「自然(見るもの聞くもの)」への無意識な感情移入の流れの中へ溶けこまされ、そのことによってことばの非自然性というものが静かに忘却されていく様子がよく見えるのである。

 ことばが自らの非自然性を悟った時、それは自然というものの素顔、つまりその圧倒的な非言語性を映し出す瞬間を手に入れることができる。貫之はことばの非自然性に気づいていただろうか。もちろん気づくべくもなかったであろう。彼(ら)にとっては、ことばも自然も「情緒の霞」の中へ一つに溶けこんでしまって、決してその素顔を現すことはなかった。が、しかし逆に言えば、そのことが日本文学における和歌的な世界の展開を促進したと言える。ことばの非自然性を忘却し、それを無意識の情緒の中へ沈みこませることによって、和歌文学の内的基盤は固まったと言えるのである。そしてもっと広く言えば、日本文学の「文語性」もまた、このようなことばの非自然性の様々な忘却のかたちにおいて、以後連綿と続いていったかのように思われる。花鳥風月とは、まさにその合言葉だったのである。

 古今和歌集以後、六つの勅撰和歌集を経て成立した新古今和歌集も、このような情緒的無意識の、より複雑な深まりの具現だったと言える。たとえば「幽玄」とか「有心」とは、この花鳥風月という方法の極度の洗練であった。(そして以上のことは明治以後の近代詩における、島崎藤村らのいわゆる浪漫派から薄田泣菫や蒲原有明らの象徴主義への流れの中でも、ある程度は追展開されていることである。それはそれまで一千年以上にわたって和歌文学の内的基盤となり、日本語の自明性をつくりあげてきたこの情緒的無意識がいかに根強く私たち日本人の精神構造の中に染みついてきたかを示すものである)

 ところで、ことばと自然が、直接的に向き合うことから生ずるであろうパラドックス(ことばの非自然性の自覚によって、自然の直接性が瞬間的に開示されるということ)を情緒的無意識の媒介によって回避することに成功した和歌文学は、さらにそれを外部から補強する確実な「形式」を手に入れていた。五音七音の構成による、いわゆる音数律構造(五七五七七)がそれである。

 音数律という形式が、私たちの日本語になぜ心地よいリズム感を与えるのかということについては、色々な面から様々な研究がなされているであろうが、無知な私にはそれらの研究成果を踏まえて論ずることはできない。そこで以下に述べることは、全くの仮説的概略であることをお断りしておく。音数律について考える場合、まず語の意味を全く度外視して、「音」の連なりとして考えてみなければならない。私たちの日本語が「かな」文字を基本としていることは周知のことである。そして、かなは基本的には一文字が一音節から成っている。音数律構造は、このかなの一文字一音節を基礎として成立している。そこでこれらの語の単純なリズム感として、二つの要素を考えてみる。仮にそれを「完結感(安定感)」と「継続感(不安定感)」としてみる。その時「どちらかと言えば」一音節(以下一音とする)は完結感が強く、二音節(以下二音とする)は継続感が強いように思われる。

 例えば「あ」とか、「き」とか、「す」とかの一音は完結感が強く(すわりがよい)、「あい」とか「すみ」とか「てり」とかの二音は継続感が強い(すわりが悪い)。(この場合、語の意味を度外視していることを忘れやすいので、同じかなで、例えば「たた」とか「らら」というように考えた方がいいかもしれない。また、抑揚やアクセントなどについてはここでは考えない)た、た、た、……と一音ずつポーズをおいて発音する場合と、たた、たた、たた、……と二音ごとに区切る場合を考えてみると、一音の場合はすわりがよく、二音の場合は、次の音へと跳び移ろうとする浮揚感のようなものが、ポーズの中にある。つまり偶数音は次の一音をつかまえようとするような格好で終る。「たた」は「たたた」となっておちつき、「たたたた」は「たたたたた」となっておちつく。

 以上のことを発展させて考えてみると、どちらかと言えば、奇数音は完結感を、偶数音は継続感を表し「やすい」ということになる。そして、発音の際の息つぎなどを考えてみると、三音(たたた)では短すぎ、九音(たたたたたたたたた)では長すぎる。従ってその間の五音(たたたたた)、七音(たたたたたたた)が完結感のあるまとまりとして音数律の要素になっているのではないだろうか。次に五音だけを要素とするくりかえしや、七音だけを要素とするくりかえしによる歌が成立しなかったのは、おそらくそれでは単調で変化に乏しいからであろう。このようにして五音と七音を一つの単位(偶数単位であることに注意してほしい)としてそれを、五七、五七、五七、……とくりかえすことによって長歌が成立したのではないだろうか。興味深いことに音節の数だけでなく、それらでできた単位自体も偶数で推移するということである。そして長歌の末尾は……五七、七、となって、最後は一単位(奇数)で終る。このようにして全ての長歌が奇数単位数で終ることによって、すわりのよさを手に入れているのである。そしてこのことが、短歌にも言えることは、もはや明白であろう。短歌とは最短の長歌(五七五七七で単位数は五)であることによって、最も強い安定感を獲得しているのである。これがいかに強い安定感を持つかは、四六四六六(たたたた たたたたたた たたたた たたたたたた たたたたたた)の短歌を考えてみればすぐわかることである。そしてここから、さらに短い奇数単位数、三を切り取ってきたのが、発句(俳諧、俳句)である。(もちろんその成立の母胎は連歌ではあるが)

 音数律構造について長々と述べてしまったが、要するにそれは一文字一音節の「かな」の「並べ方」(手拍子をするような純粋なリズム感)の問題なのであって、そこに和語(大和ことば)の語意を関らせてはならない。語意としての完結感や継続感は、また別の問題である。(それはつまり「発語」の問題を論ずることになるわけであるが、そうなると吉本隆明などの「自己表出」「指示表出」論などを考慮しなければならなくなるが、それはここでは措く)例えば紀友則の有名な歌を引いてみよう。

 

 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ

 

 この歌の、たとえば最初の五音は、音数律としての完結感を持つが、語意として考えた場合、「ひさかた」という一語の方が、まとまりのあることは明らかであり、そこへ「の」という助詞がつくことによって、語意としての継続感が生まれるわけである。しかし音数律の「構造」はここでいったんまとまることを、いわば宿命のように強制する。それは一つのかたちの決まった容器なのであって、どのような語意もそこでは語意としての自由を、いったん背後に沈ませて、その秩序を甘受しなければならないのである。音数律構造に限らず、「定型」ということ一般の持つ栄光も悲惨も、このようなところにあると言えるだろう。定型というものの姿一般が、何か悲壮なものに見えるのも、このような矛盾が匂うからだと言えよう()

 さて論点がかなり脇道に入ってしまったようなので、もとへもどそう。

 前述したように、和歌文学は情緒的無意識の媒介によって、ことばの非自然性を忘却し、さらにそこへ音数律構造という「かたち」をはめこむことによって、強固な基盤を確立したわけであるが、この基盤がいかに強力なものであったかは、明治になって、いわゆる近代詩が成立してからも、なおも長きにわたって詩人たちの精神構造の全部、あるいは一部を支配し続けたことによってもわかるのである。

 貫之の古今和歌集の成立(九一四年)から、およそ九八〇年の歳月を経た、一八九七年に、近代詩の曙と言われている、島崎藤村の『若菜集』が出版されている。周知のことであるが、その『若菜集』を含む『藤村詩集』の「序」は次のように始まっている。

 

 遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。

 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の予言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。

 

 ここには、それまで一千年以上の長きにわたって連綿と続いてきた和歌文学の世界にかわって、全く新しい詩歌の時代がやってきたのだという、藤村の戦慄のようなものが感じられる。しかしここでの詩論的展開は、意外にも貫之の「仮名序」をさほど出ているものではないようにも思われる。たとえば、

 

  生命(いのち)は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。

 

 これは冒頭に引用した貫之の、「人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という立論のしかたと非常によく似ている。ただここでは「心」という曖昧なものではなく、「生命力」という、エネルギーが「新しいことば」を生み出し、それが「新しい人生観」を生み出していくという、より踏みこんだ観点が獲得されてはいる。ことばの力が「いのち」を新しくしてゆくのだという期待感がこめられているのである。しかし、そのことばが、自然(世界)に対してどのように発語されるかということについては、「青春のいのち」は「新しきうたびと」の「口唇にあふれ、感激の涙はかれらの?をつたひしなり」とか、「言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき」とかいうように、貫之の「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」という観点を大きく出ているものではない。つまりここでもことばは「鶯」や「蛙」のように、自然に口をついて出てくるものであるという観点に、大して疑問がもたれているわけではないのである。自然に口をついて出てくることば、それ自体をみつめようとする、もう一つのことば、無言を溜めこんで震えているもう一つの唇、そのような、冷めた目の発見はまだここにはない。

 が、しかし藤村の「序」が貫之の「序」と決定的に違う点は、たとえば「詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦闘の告白なる」などとあるように、詩というものが「静かなるところ」、つまり個人の孤独な精神を基盤として、発生するものであると述べている点である。詩とは自然(世界)に対して発せられた、極めて個人的なことば(自意識の格闘)であると述べているわけである。これに対し、貫之は「この歌、天地ひらけ初まりけるときよりいできにけり」と述べ、ことばを日本的な自然神を原理とする、神話の世界(言霊の世界)へ返してしまっている。貫之にとってことばはあくまで「自然」のものでしかありえなかったわけである。

 ことばが個人の自意識の産物となることによって、藤村はことばの非自然性への自覚に一歩近づいていたとは言えるだろう。これと比べると、『若菜集』より十五年ほど前の、一八八二年に出版された、外山、矢田部、井上の『新体詩抄』は、近代詩の起点と言われているが、ほとんど見るべきものはない。行わけの形式をとっているが、各行は五音、七音を基礎とする音数律構造に従っており、内容においても、いわゆる「花鳥風月」を素材としてはいないものの、応援歌、軍歌といったものにとどまっている。そして何といっても藤村詩と決定的に違うのは、そこには「個人」というものがないということである。個人よりも「国家的啓蒙」が書かせているのである。『若菜集』の作品群も全て「七五調」の音数律形式をとってはいるが、そこには「個人」(情緒的無意識にひっぱられた、多分に感傷的な個人ではあるが)のことばが、ある言い難いものをまさぐろうとする情熱(多分に受動的な情熱ではあるが)的な手つきの感じられる作品も散見されるのである。

 

  白壁

 

 たれかしるらん花ちかき

 高楼われはのぼりゆき

 みだれて熱きくるしみを

 うつしいでけり白壁に

 

 唾にしるせし文字なれば

 ひとしれずこそ乾きけれ

 あゝあゝ白き白壁に

 わがうれひありなみだあり

 

 この作品で「熱きくるしみ」(情熱)を「うつし」出そうとしている「白壁」は、詩人が秘かに熱い文字を書きつける、一枚の白い紙を連想させはしないだろうか。「ひとしれず」高楼に上った「われ」は言い難い思いを書きつけようとして、ことばを探す。「唾」はまさに透明なインクである。が、それは書きつけるはなから、すぐに乾いてしまう。詩人にとって、ことばというものは、書きつけるはなから、言い難いものの印象だけをふと残して、消え去ってしまうものなのだ。

 ここには、ことばというものに対する、ある種の「渇き」が感じられる。ことばが単なる情緒の等価物で終ってはいないのである。ことばが、ことばでは言い難いものをまさぐろうとする、パラドックスに直面しようとしているのである。詩人にとって、ことばを書きつける「紙」は、ことばを映し出すものであると同時に、ことばを拒絶するものによって、ことばをかき消してしまう「白い無言」でもある。それを藤村は「白き白壁」と表現しているのであろう。文字それ自体は記号にすぎない。そこに熱い唾で書かれた文字が激しく恋い慕う人の名であろうと、それは単に「名」であるにすぎない。大切なのはその「名」の骸を残して乾いていってしまった、名辞以前のその「もの」である。それは恋しい人の「現前」であり、絶対的な「無言」である。この作品は全体的な情緒性の背後に、そのような「無言」の匂いが少なからず漂っていると言えるのではないだろうか。

 藤村自身が、そのことに対して意識的であったかどうかは別として、たとえば彼の作品に散見される、このような無言(言い得ざるもの)への情熱について論ずること、それが近代日本の「詩論」というものの、真の意味での出発点となったはずである。そして北村透谷の登場は、まさにそのことを物語っていた。

 

                   

* 金田一春彦は、その著『日本語』(岩波新書)の中で「日本の詩歌の形式で、〈七五調〉とか、〈五七調〉とかいう音数律が発達しているが、これも、拍がみな同じ長さで単純だからにちがいない。ただし、四や六がえらばれず五とか七とか奇数が多くえらばれたのはなぜか。日本語の拍は、先にのべたように点のような存在なので、二拍ずつがひとまとまりになる傾向がある。そうすると二拍からなるものが長、一拍からなるものが短と意識され、そういう長と短の組合せで詩を作り出そうとするためであろう」と述べているがこれは簡潔にして的を射た指摘である。いわゆる音楽のリズムにおける四分の一拍子(タン)は、日本語の二拍(たた)にあたる。二拍ずつがひとまとまりになるのは、この四分の一拍子を「まねる」からであろう。四分の一拍子のリズムがタン、タン、タン、……と継続していくのに対して、日本語の音もそれをまねて、たた、たた、たた、……と継続していく。一方八分の一拍子(タ)のリズムは日本語の音で発音する場合、なめらかさを持たない。これは金田一の指摘するように、日本語の拍が「点のよう」だからである。たとえば「こんにちわ」を「こん、にち、わ」と発音する場合と「こ、ん、に、ち、わ」と発音する場合を比べてみればよい。従って日本語の一音節(一拍)は、発音構成の中では、継続感よりも断絶感を与えやすい。そのことが偶数拍のあとに一拍分をつけ加えることで完結感を引き出す原因なのであろう。音数律構造とは純粋に日本語の発音リズムの問題と考えるべきである。