12月2日。喫茶オッド・アイで、オーナーの齊藤友彦さんと、詩を書いている近藤弘文さんと(このふたりはぼくの半分の年齢の人たちだが、いつも、いろんなことを教えてもらっている)、出たばかりの現代詩手帖12月号(近藤さんの詩が掲載されていたから)を前に4時間半ばかり、ああじゃないこうじゃない、と話していたとき、急に近藤さんが「なぜ今、『私は貝になりたい』なんだろう?」と言いはじめた。

 不意を突かれたぼくはちょっとあたふたして、最近話題になっている田母神とかいう自衛隊の偉い人が、日本は侵略国家ではなかった、とか発言したことや、自虐的な歴史観を見直そう、とか、東京裁判は勝者の論理だ、といったふうな風潮が吹いてきている社会を背景にしているんじゃないのか、と言ってしまったが、自信がなかったので、映画を見に行った。

 で、どうということのない映画だったので、あらためて近藤さんに言う言葉が見あたらなかった。

 先日、NHKの番組で、自衛隊の特集のような番組をやっていて、その中で、タイへ研修に行ったという自衛隊員が、タイの軍人は、国王のために働いているというモチベーションがあるが自分たちにはそういうモチベーションがない、と語っていたのを聞いて、ああ、嫌な発言だな、とおもった。

 

 フロイトを持ち出すまでもなく、人間は他者に承認されたいという欲望を持っている。

 人間の欲望が他者の承認を求める欲望であるということを最初に言ったのはヘーゲルだし、あのラカンの「人間の欲望、それは他者の欲望である」という有名な言に繫がっている。

 価値ある人間でありたいという自己価値への欲望とともに生きているのが人間である。

 自衛隊を世間がどう見ているのか、あるいは、自衛隊員が自分の職業をどう捉えているのか、寡聞にしてぼくは知らないが、先の自衛隊の偉い人の発言は、国を守るというモチベーションがシビリアンコントロールで削がれている、という危機感のあらわれではないだろうか。自衛隊の役目は災害出動ではなく、「護国」である、と。そのことを世間に認知、承認されたい、と。それが自衛隊の欲望である、と。

 至極もっともな主張である。それを、シビリアンコントロールのもとに抑圧していると、自衛隊はいつか神経症にかかり、暴走してしまうだろう。フロイトも言っているように、人間の主体は「理性」ではなく「無意識」なのだから。

 「無用の用」的にいつか、日本が侵略されたとき「大用」を為すことがあるのだろうか。

 たしかに自衛隊が自らの欲望を満たすときがあったとしたら、それは日本が外国から侵略を受け、殺し合いがはじまったときである。自衛隊の存在とは実に切ないものだとおもう。

 そんな切ない存在はいらない、とずうっとおもっているのだが、じゃ、外国の軍隊が侵略してきたらどうするのか、とむかし詰問されたことがあった。

 いまも、その声にはうまく答えられないのだが、侵略されたら、自分の手である程度は防御するだろう。でも、すぐに殺されるだろう。なにしろ闘う訓練などしたことがないのだから。

 でも、まあ、それでいいのかもしれない、となんの根拠もなく、ずっとおもってはいるのだが、こんな考えはだれにも支持されないだろうから、黙っているしかない。

 

 先の田母神という人だけではなく、最近は太平洋戦争についての歴史修正主義が跋扈している。虐殺はなかった、とか、従軍慰安婦は彼女らの自己選択だった、とか、朝鮮半島での創氏改名は彼らの要請だった、とか。

 ドイツでも、あのテオドール・アドルノの有名な「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言説がある一方で、ユダヤ人絶滅政策をボルシェビキによる階級殺戮を持ち出して帳消しにしようという動きがあるらしい。ドイツでも日本でも、「ナショナル・アイデンティティが傷ついている」と憤慨しているグループがあるらしい。

 そんななか、ユルゲン・ハーバーマス(哲学者)は、彼ら歴史修正主義者は、歴史記述が有する啓蒙的効果を恐れ、広範囲に力を持つ歴史解釈の多元主義を拒否している、と言って、任意に再構成された前史というサーチライトによって現在を照らし出し、そこで選び出されたもののなかから特に都合のよい歴史像を選択できるという考えから出発している、と歴史修正主義者たちを批判しているが、そのことは現在の日本の状況にもすっかりあてはまるのではないか、とおもっている。

 

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 12月22日、県立美術館ホールで若松孝二の『実録・連合赤軍あさま山荘への道程(み ち)』を見てくる。

 1971年から1972年にかけて連合赤軍(赤軍派と京浜安保闘争というグループが合併したもの)が冬の山岳ベースで12人の同志を私刑したり、山荘に立てこもって警官隊と銃撃戦を交わした事件の映画化。

 若松は「実録物」が好きだが、今回のは、あさま山荘で逮捕されて、今はレバノンに逃亡中の坂東國男から聞いた話をもとにしている、とどこかで若松が語っていたから堂々と「実録」と付けたのだろうし、映画のオープニングで、多少のフィクションはあるが殆どは事実だ、というキャプションがある。

 彼らの支援者若松ならではの一作と言っていいだろうし、俺でなければ誰が描けるんだ、という強烈な自負心のこめられた一作だった。

 それにしても3時間10分は長かった。

 若松の映画とはもう45年ぐらいの付き合いだが、初期は暴力やセックス描写を媒介に「個人」が「世間」に異議申し立てをおこなうような作品が多かったが、足立正生と組むようになってからは、国家権力との闘争に力を入れはじめた、というか、もともとそういう体質を持っていたのだろう。

 今度の映画は「革命にすべてを賭けたかった」がうたい文句だが、ぼくは共産主義も革命も馴染めないので、黙っているしかない。実際、この映画を見ていて、山岳ベースでのやりとりを聞いていると、どこに「革命」があるのかよく理解できなかった。

 それでも、山岳ベースで自己崩壊していく彼らとは同世代である。あの渦中に身を置いていたら、もしかしたら、ぼくが彼らだった可能性もないではない。(渦中に身を置かなかったことがラッキーだったのか、アンラッキーだったのか、いまではどうでもいいことではある)

 なにしろ、その当時、中国では文化大革命、チェコではプラハの春、パリでは五月革命、と、なにやら世界中が共産主義を中心に廻っていたような時代だったのだ。

 アメリカという資本主義の大国ではキング牧師が暗殺され、黒人の公民権さえ確立していなかった時代である。

 日本はそのアメリカの核の傘のもと、ベトナム戦争へ間接的に参戦していた。原子力空母エンタープライズが佐世保に入港しようとしたときは市民までが警官隊の前に立ちはだかった。世界の動向に個人が積極的にかかわろうとしていた時代である。この映画は、そういう時代を背景にしている。

 3時間10分のこの映画は3部に分けられる。

 

 1部は当時の学生運動をニュースフィルムで紹介するのだが、この1部が一番おもしろかった。(というか、ニュースフィルムが懐かしかった。これだけでもよかった)

 もともと若松の映像の特長は、奥行きがない、ということだ、とぼくはおもっているのだが、2部3部の奥行きのない映像は1部の奥行きのないニュースフィルムに負けていたような気がした。

 ニュースフィルムに、山岳ベースでリンチされる遠山美枝子とレバノンに脱出して国際闘争を開始する重信房子の女同士の友情がはめ込まれるのだが、一時期、若松プロでアルバイトをしていたという遠山美枝子に若松は深い思い入れがあるらしく、坂井真紀をキャスチングし、永田洋子をヒール役に徹しさせてしまう。見事というしかない。

 この1部ではあの宮台真司先生がチラッと顔を出していた。

 

 2部は山岳ベースでの革命訓練の様子が描かれるのだが、ここではリーダーの森恒夫と永田洋子のふたりが、兵士たちに、自己批判を要求し、総括が仕切れていないという理由で12人を殺すのだが(29人中の12名である)、それはどうみても「理想の名のもとに人間はいかに誤りを犯すか」というような類のものではなく、ただただ森と永田の資質的な問題のような気がしながら見ていた。

 若松の思い入れの強い遠山美枝子はヒール役の永田洋子に目の敵にされ、森からも、「化粧するということは女性性を売り物にしており、共産化ができていない」と批判され、自分の顔を自分で殴る自己批判を求められ、美しいといわれた顔が化け物のような顔になり、挙げ句の果てに死んでいくのだが、森は常に「女性性否定」を口に出し、共産化されていない、と批判をする。

 おもしろいエピソードは、金子みちよ(彼女は妊娠していた)が永田洋子の「森さんのどこが好き」という挑発に「目がかわいい」と言ってしまうシーンだ。女性性を否定しつづけている森に、「目がかわいい」などと反撃の一言を発する。そんな発言を許すわけにはいかない森は金子みちよを総括の名のもとに殺してしまうのだが、「革命闘士」が最高幹部にむかって「目がかわいい」と言ってしまえるのは、反革命的であると同時に、実に革命的ではないか、と、つい、おもってしまった。

 

 この2部のキーワードは「女性性」である。

 ことあるごとに森と永田は、「女性性を武器にして、共産化ができていない」と総括を求めて私刑を実行するのだが、そのふたりは山岳ベースを降りてホテルで性的な関係を結び、永田は、当時恋人だった坂口弘に「私は森さんと結婚する。それが革命にとって一番いい」と言ったりするのだが、どうやら森や永田が言っていた「女性性からの脱却」はマルクス的フェミニズム(資本主義が女性を抑圧する原因とする考え)を踏まえているのではなく、ただたんに「詭弁」でしかなかったような気がする。

 この映画では、「共産化」も「革命」も「女性性」も思想的な背景を削ぎ落とされている、とおもいながら見てしまったが、若松の真意はどうだったのだろう。やはり、森や永田に「革命」をすこしでも見ていたのだろうか。

 

 キーワードのもうひとつは、永田洋子の「無意識」である。

 山岳ベースでの永田洋子の行動だが、何冊かの本を読む限り、永田洋子は女性に対してある特殊な感情、コンプレックスを持っていたようだ。遠山美枝子のような「美しい」といわれる女性には特に。

 この映画でも、女性たちのちょっとした仕草に敏感に反応している永田洋子が描かれている。(若松の偏見も多少ははいっているだろうが)

 フロイトは有名なエディプスコンプレックスの女性版として、3〜7歳頃の女児は自分にペニスがないことを知り、男児とくらべて劣っていると感じ、ペニスを持ちたいという願望とともに父親(異性)への愛情が起こる、ことを指摘している。同時に、ペニスを持たない母親(同性)がその父親(異性)を受け入れていることを知り、母親(同性)に対して強い対抗意識を燃やし、敵であるという認識を抱く、と言っている。

 母親と同一化した自我と、母親を敵視する自我の二つの位相の間で、自我ははげしく葛藤する。

 ユングはその症状を「エレクトラコンプレックス」と名づけた。

 ペニスがないことが認められず、ペニスのある男のような態度に出ることがあるが、それは、物事に対して積極的で、自分から進んで指導的立場に立つような女性に特長的だという。

 永田洋子を知らないぼくが勝手なことを言うようだが、その文脈で読んでいけば、永田洋子の女性性に対するヒステリックな敵愾心の一端を理解できる。

 

 3部はいよいよ「あさま山荘事件」だ。

 人質になる管理人に奥貫薫をキャスティングした若松は自分の別荘を壊しながら撮影をしたという。(へえ、別荘が持てるほど若松は金持ちなんだ、とついつまらないことをおもってしまった)

 ここでも、彼らは自己批判や、「異議無し」を連発しながら、管理人に人道的姿勢を示す。

 自分たちはあなたに危害を加えない。自分たちの味方でなくてもいいから、警察の味方でもなく、管理人として存在していてほしい、と彼らは管理人を「人質」に取ったのではなく、「この場所」を借りているのだ、ということを強調する。まあ、そう主張しなければならないことは理解できないではない。

 しかし、管理人のほうが一枚上手で、裁判になっても証人として出廷を要請しない、という条件を彼らにつきつけ了承させる。

 思想的な言い分が個人的な要請にのみこまれたのだ。

 最後の最後、立てこもっている16歳の少年が、「おれたちは勇気がなかったんだ」と「連合赤軍全体」を批判しはじめ、そのことに誰も反論できないのだが、このエピソードは若松がその場にいた坂東國男から聞いたのか、それとも、数少ないフィクションなのか、それを知りたいとおもったが、「勇気がなかった」と感傷的な幕切れは、少々不満が残ったが、たぶん、どんな幕切れであれ、「異議無し」とはいかなかっただろう。

 この映画は当然、賛否両論あるだろうが、若松が「連合赤軍」を描くならこの方法しかなかっただろう──ということは若松の映画を45年も見つづけているぼくにはそれとなく了承できた。(「勇気がなかった」という終幕にはちょっとひっかかりはしたが)

 先にも書いたように若松の映像には奥行きがない。それは普通の映画なら欠点かもしれないが、若松の映画では長所になることもある。しょぼい画面を見せながらも、観客をむりやり納得させる力強さが若松の映像にはある。若松の映像は暴力的だ。身体的だ。

 

 ひるがえって、平成20年暮れ、内部保留金が何兆円もありながら、調節弁としての労働者の首切りに躍起となっている企業にたいして、「あの時代」ならもっと過激なアクションが起こっていたとおもう、きっと。正しい、正しくない、は誰にもわからないことだが、あの時代ならあちこちから「異議あり」「造反有理」と声があがったにちがいない。

 だが、2000年に日本で逮捕された重信房子が赤軍派最高幹部の名で「日本赤軍を解散する」と宣言している。時代は後戻りなんかできないのだ。

 それにしてもあの麻生とかいう人物は顔つきから、言っていることまで、すべてが嘘っぽい。小泉という人物も嘘っぽさがあったが、彼は自分の嘘っぽさを知っていて、それを身振り手振りや絶叫でカバーしているいじらしさがあったが、麻生という人は自分の存在の嘘っぽさに気づいていないらしい。やれやれという年の暮れである。


 

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 道浦母都子の第7歌集『花やすらい』(角川短歌叢書)を読む。短歌は苦手で、歌集を持っているのは寺山修司と、「孤立無援の思想を生きよ」というアジが好きだった福島泰樹と、この人のものぐらいだ。

 今度の歌集は、「平和な時間の中に突然と感じた自分への懐疑と時代に対する不安」が歌われているそうだ。いろいろ病気をしたり、自己懐疑に襲われた9年間だったらしい。

 60歳を過ぎると、青春期とはまた別な喪失感に襲われる。ほとんどは年の功でなだめすかして、やり過ごせるのだが、ときとして、自縛霊のように取り憑かれ、逃れられないハメに陥るときがある。そんなときはどうするか? 他人のことは知らないが、ぼくはただひたすら穴籠もりしている。誰にも会わず、誰とも話さず、ただ、鬱々としている自分を自分らしく扱ってやるだけだ。そして、なにかの拍子に立ち上がった自分を、どっこいしょ、と背負ってみる。背負えたらラッキーで、また何日か楽観面をかぶって生きていける。たぶん、死ぬまで、その繰り返しだろう、とおもっている。

 「まあ、いいか」と。

 

 夢に来て番傘さした母の言う「この世のことはこの世にて済む」

 二の腕の種痘の跡が起きあがり雨中を出掛くどこへ行くのか

 眠れ眠れ眠りの底のやわらかな音楽こそが死かもしれない

 自爆テロ十秒前のおののきが群肝に充つ草片(くさ びら)食めば

 

 ぼくより一歳年上の1947年生まれのこの人はやはり第一歌集の『無援の抒情』(岩波書店)だ。

 「無援」というのがいい。どこまでいっても、所詮は「無援」の一生なのだから。福島泰樹のように「孤立無援」ほどの覚悟はないとしても。

 

 この歌人の誕生の瞬間をノンフィクション作家・後藤正治は次のように書いている。(岩波版での解説「わが世代を歌う─道浦母都子小論」)

 

 「一九六九(昭和四十四)年一月十九日──。東大安田講堂に〝落城〟のときが迫っていた。神田・お茶の水から本郷に向けて〝奪還闘争〟が展開されたが、機動隊の壁に阻まれて蹴散らされた。催涙ガスの充満した路上に、冬の日が落ちようとしている。路地裏にちりぢりになった数千の学生たちが無量の想いを抱いて帰路に着いた。早稲田大学文学部演劇専修二年生の道浦母都子もその一人である。

 杉並区下井草にあった下宿まで、どのような経路で帰ったか、彼女は憶えていない。寝つかれぬまま、未明を迎えた。ノートにペンが走った。作品を書き残したいと思ったのではない。自己の体内を通してだれかがペンを動かしているような、瞬間のことだった。

 

 炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る

 

 葉書に書き写し、朝日新聞の「朝日歌壇」宛て、投函したのは数日後である。それが、その後の人生のレールを引く、遠い旅立ちの日であったことを、そのとき彼女は知らなかった。」

 

 遠い昔の話で、今の若い人には信じられない話だろうが、大学生が、あるいは市民が、傷つき、絶望しながらも、時代の暗部に「ノー」を突きつけていたころの話だ。(先の連合赤軍の話は、この後、自らが「暗部」に転落していく話だ)

 ぼくは「安田講堂陥落」は病室のTVで見ていた。国家権力はおとなげないなあ、と。

 その当時ぼくは高知の海沿いの病院で長い入院生活をおくっていた。入院生活というものはたいがいがつまらないもので、そのつまらなさに負けるように、夜になると病院を抜け出して繁華街で朝まで飲んでいた。そんなことしてると死んでしまうぞ、と医者に脅かされながらも。

 実際、入院する前よりも入院した後の症状が重くなったのだが、死ぬことはなにも怖くなかったし、なにをしても決して死ぬことなどない、という確信があった20歳だった。

 おかげで、入院生活は1年半近くかかってしまった。退院しても自宅療養の身だった。

 お前は体が弱いから役場に勤めたらいい、と祖母に言われて、当時住んでいた小さな町、土佐山田町の町役場の臨時職員になった。鬱々とした日々だった。

 だからといって、何をしたいのでもなく、何を望んでいるのでもなく、何を拒否しているのでもなく、何を憎んでいるのでもなかった。まだ21歳だったのに。

 臨時職員の期限が切れる3月31日、田宮高麿ら赤軍派学生9人が日航機よど号を乗っ取った。北朝鮮へ行け、と。

 その日は仕事もせずに、役場のTVをぼんやり眺めていた。

 「俺はどこへも行けないし、どこへ行く気もない、しかし、どこかへ行かなければ」──実体のない焦燥感だけがあったような気がする。遠い昔のことで、ほんとはもっとあっけらかんとした日々だったかもしれなかったが、記憶には限りなく暗いフィルターがかかっている。

 いつの頃からか、ぼくたちの世代は「団塊の世代」や「全共闘世代」と呼ばれるようになった。そういう呼称をうれしがって、手垢のついた武勇伝をひけらかす連中もいるが、ぼくはそういう人たちが嫌いだ。「団塊の世代」と一括りにされて納得している人たちが嫌いだ。

 

 『無援の抒情』をひさびさに開くと、あちこち鉛筆の跡があった。

 

 迫りくる楯怯えつつ怯えつつ確かめている私の実在

 「今日生きねば明日生きられぬ」という言葉想いて激しきジグザグにいる

 リーダーの飲み代に消えしこともある知りつつカンパの声はり上ぐる

 会議果て帰る夜道に石を蹴る石よりほかに触るるものなく

 リンチ受くる少女のかたえ通るときおし黙りおり啞者のごとくに

 火炎瓶も石も尽きしか静まりし塔に鋭き夜気迫りゆく

 釈放されて帰りしわれの頰を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ

 打たれたるわれより深く傷つきて父がどこかに出かけて行きぬ

 すでに選びしわが生くる道を知りたれば父よ幻の旗掲げたまえ

 立ち直れぬまで打ちのめされていく日々に読みつぐ隆明高橋和巳

 人知りてなお深まりし寂しさにわが鋭角の乳房抱きぬ

 精神の飢えなるものもつづまりは欲望にすぎぬと思い至りぬ

 生きていれば意志は後から従いくると思いぬ冬の橋渡りつつ

 

 後藤正治は「道浦母都子小論」で彼女の思春期をこう書いている。

 「市内に大きな同和地区があった。湿地帯が続き(略)シンナーを使う皮革工場ではよく火事が起きた。が、道路が極端に狭いその地区は、消防車が入らなくて大火となった。なぜなんだろう──。

 百人、道路を歩いていて、そのうち一人だけが小石にけつまづいて転んでしまう。そのひとりはきっと私だ──。

 豊かな感受性と行動力と孤独癖。学生運動に、さらに短歌へと傾注する素地は生来含有していたというべきであろう。」

 そして、

 「(道浦母都子は)いまも『全共闘歌人』という冠がついてまわる。それを否定するつもりも(いと)う気持ちもないが、自身のなかではもう『ワン・ノブ・ゼム』である。」

 と、閉じている。

 彼女の青春を思えばぼくの青春など語り残すものなどなにひとつ無い。孑のように漂っていたにすぎない。

 


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 1月25日、弘井正さんと「高知市文化プラザ・かるぽーと」へ出かける。『第4回美術作品コンクール応募作品展』。県内在住・出身で18歳から35歳までの画家たちの公募展。

 この日は最終日で、多摩美術大学美術学部准教授、椹木野衣(さわら ぎ の い)さんの講評と審査が公開された。

 展示されてある52点を一点一点、作者と討論しながら講評をしていく。この過程がとても楽しかった。時間の制限があるらしく係員が「では、そのへんで」と話を打ち切ろうとしても椹木さんと出品者の対話がつづくこともあって、いい光景だった。

 高知は高知大学に美術教育の養成科があるから、絵を描いている若い人の人口はとても多い。詩を書いている若い人なんか比べものにならないぐらい多い。ギャラリーもそんな若い人に安く場を提供して応援している所がたくさんあって、若い人も作品の発表を意欲的にしている。

 ときには、もうすこし自分に厳しい選択をしたらいいのに、とおもわない催し物がないではない。ギャラリーに足を踏み入れた瞬間「あっ、間違えた」とおもえるような催しもある。

 が、とにもかくにも、展示場所がたくさん確保されていて、年齢に関係なく発表でき、批評をうけられる土壌があるのはいいことだとおもう。ギャラリーが一部の画家の特権的な場でないことはいいことだ。




 この日の一等賞はぼくの中では上の絵、土方佐代香さんの「dyeing」だったが、椹木さんが選んだのは別の作品だった。

 椹木さんの講評を聞いていると、抽象は行き詰まっている、すこし突き抜けなければならない、と抽象には分が悪い言い方に終始して、具体に対して好意的な評が多かったようにおもった。当然、えっ? というような評もあっておもしろかった。違う意見を聞くのは楽しい。

 ぼくは具体よりも抽象が好きなのだが、抽象のどういうところが全体的に行き詰まっているのか、具体的な話を聞けなかったので残念だったが、今回の最優秀賞の作品の評は、「日本画の画材と線を用いながら、抽象的なタッチと具体的なイメージが不思議な調和を見せている」というもので、「抽象的な」というところにひっかかったが、まあ、抽象もいい、と言っているんだな、と勝手におもってしまったが、どうだろう。

 


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 わたくしごとだが、1月28日、長野恭二が死んだ。まだ60歳なのに。ここ何年も会うことはなかったが、もう会えなくなるとおもうと、むしょうにさみしい。

 師匠の麿赤兒、大駱駝艦、維新派などから弔花が届いて賑やかな葬儀だったが、むしょうにさみしかった。

 通夜の席で急に挨拶を頼まれて、そんなことは考えてもいなかったので少々困ったが、「いいこともあったし、悪いこともあったが、死んでしまえばすべて良し」と話したが、それでよかっただろうか。

 長野は死んで灰になった。

 


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 2月1日夜、NHK教育放送で辺見庸が1時間半語り倒していた。

 ガンの治療をしているだろうし、脳出血で右半身不自由なのに、この元気さはなんだろう。

 『しのびよる破局の中で』と題して、すべての関係性が貨幣的価値に置き換えられる現在にあって、人間が本来持つべき実存的、社会的諸権利が資本に奪われ、その「生」がむき出しにされている、と語り、いま、真に取り戻すべきものは、経済的な繁栄だろうか。奈落の底で人智は光るのか光らないのか、と問いかけていたが、ここ数年、辺見庸は過激に積極的に発言を繰り返している。そのことが、ぼくを励ましてくれている。

 ぼくたちはいま、彼が言うほどの、人類史上かつてない崩壊の時代に生きているのかどうか、この時代以外のことを知らないからなんとも言えないが(どの時代も価値観の崩壊はあったとはおもうのだが)、今まで築き上げてきた価値観や、道義、個々の内面が崩壊している時代を迎えていると断定する辺見庸の極論を聞いていると、そうなんだよなあ、と、ついおもってしまう。

 番組の最後、辺見庸はカミュの小説『ペスト』を引き、ペストに対抗できるのは唯一、医師リウーの誠実さだけだ、と語る。「誠実」という凡庸なことが、凡庸であるがゆえに、唯一の手段だと。「しのびよる破局」を救うのも、人間の「誠実さ」だけだ、と言わんばかりに、医師リウーの「誠実さ」を語っていた。

 警視庁の公安部にその発言のすべてを監視されつづけながらも、「永遠に単独者」でありつづけている辺見庸に、ぼくはいつも励まされる。

 辺見庸と言えば、大道寺将司の第2句集『鴉の目』(現代企画室)の序文を書いていた。

 1974年、学生運動が終焉を迎えたころ、天皇暗殺未遂や三菱重工業本社ビルへのテロで逮捕され、確定死刑囚である「東アジア反日武装戦線〝狼〟」の大道寺将司の行為に、当時新聞記者だった辺見庸は、自分は大道寺の行為に組みはしないだろうが、9・11事件についてフランスの思想家ジャン・ボードリヤールが言った「それを実行したのは彼らだが、望んだのは私たちのほうだ」という言葉を引き、獄中の大道寺に思いを馳せている。

 大道寺の俳句を幾つか。俳句の苦手なぼくにはそれらがいい俳句なのかどうか、よく分からないのだが。

 

 秋の日を映して暗き鴉の目

 一茎の秋の向日葵直立す

 まなうらの虹くずるるや鳥曇

 友が病む獄舎の冬の安けしを

 元日や仰臥漫録座右に置き