★三年ほど前だろうか、アメリカ大陸ではミツバチが行方不明になっている、というニュースがときどき見られるようになった。農薬やストレスなどさまざまな原因が噂されたが、現在でもこれといった原因を特定できていないらしい。 

 40年以上も前、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』(青樹簗一・訳、新潮社)で農薬や殺虫剤で花粉媒介者(蜂や昆虫など)が消滅し、生態系に重大な影響を及ぼすだろうことを警告していたが、ローワン・ジェイコブセンの新作『ハチはなぜ大量死したのか』(中里京子・訳、文藝春秋、原題は『実りなき秋』)は、「蜂群崩壊症候群」といわれるミツバチ行方不明現象を取材しながら、人間と他の生物との共生の問題を深く考察していて、示唆に富んだ一冊だった。

 当初、農薬や遺伝子組み換え作物がミツバチの毒になった、とか、携帯電話の電磁波がミツバチの帰巣本能を狂わせた、といった理由が挙げられていたらしいが、養蜂家の地道な観察の結果、ひとつには、次のような原因が考えられるらしい。

 アメリカの養蜂家は巣箱をトラックに乗せてアメリカ大陸を何百キロも移動する。特にアーモンド畑では野性の受粉昆虫がいなくなって(原因は後で書くが)養蜂家のミツバチの受粉作業に頼りきりになってしまい、年々受粉価格が値上がりし、養蜂家はアーモンド畑をトラックで転々として、受粉料と蜂蜜で生計をたてるようになった。

 とうぜんミツバチは、その移動距離の長さと、アーモンドの花粉と蜜を採取するだけの単純作業でストレスを受けたのではないか、と考えられている。

 その話を読んでいたら、これは人間社会の派遣労働者や契約労働者のパターンに似ているのでは、とついおもってしまった。

 派遣労働者や契約労働者は、会社の命じるままにあちこちの現場に足を運び、ほとんどが単純作業に従事している。

 ミツバチは家畜化され、産業の道具にされ、化学薬品付けの農地を彷徨っている。アメリカの農場が現代的な経済システムのなかに吸収されてしまっている。経済と同じように無限の成長を遂げる仕組みのなかに組み入れられている。

 アーモンド畑でアーモンドを効率的に生産するために、それまで野性の受粉昆虫が生息していた農地にまでアーモンドの木を植えてしまった。おかげで、受粉は養蜂家が何百キロという距離を運んできたミツバチに依存しなければならなくなった。ミツバチたちは新しい土地でとまどいながらもアーモンドの花粉と花蜜をせっせと集める。人間だって毎日同じおかずを食べつづけろ、と言われたらおかしくなってしまうだろう。人間が嫌なことはミツバチだって嫌だろうに。

 ミツバチは単一作物、すなわち、工業化された農業システムの中に組み込まれてしまったのだ。

 自分の飼っていたミツバチのコロニーが壊滅したある養蜂家はその現象を、「ストレスが促進する衰退現象」「ミツバチの自己免疫欠乏症」と感じたという。

 派遣労働者や契約労働者全体がそうではないにしろ、昨年末のような企業の経済の調整弁的な役割を見せつけられると、ふと、ミツバチの悲劇に似ていはしないかとおもった。

 自動車工業の社宅付き高賃金の新聞広告で地元を離れ、単純作業に従事していた人たちがなんの保証もなく放り出される。「そういう契約だから」と。

 人としてのあり方よりも契約の方が優先される社会になってしまっている。

 

 ジェイコブセンは「地元に立脚した農業が世界規模の農業に取って代わらない限り、常に新たな寄生虫、新たなウイルス、新たな謎の壊滅が襲ってくる。これはミツバチの問題じゃない。環境が劣化しているのだ。今、求められているのは多様性である。多様な生息地。多様な生計手段。多様な動植物。そして多様な遺伝子」と結んでいる。

 ジェイコブセンが指摘するまでもなく、近年、地球環境保全への関心が高まると同時に、生物多様性という概念が使われだした。

 生物種の多様性。同一種での遺伝子レベルの多様性。多くの生物によって構成される生態系の多様性、などを確保しなければ地球環境は劣化していくだけだ、と国際条約も結ばれ各国が協力して地球環境の保全を唱えているが、各国の思惑が優先したりして、生息地の破壊や外来種の侵入など、なかなかうまくいっていないのが現状だ。

 この本でジェイコブセンの言っている多様な遺伝子というのはこういうことだ。

 野生の女王蜂が10匹から36匹ぐらいの雄蜂と交尾し多様な精子を蓄えるのに反して、養蜂家が飼っている女王蜂は有益な特性を持った雄蜂と交尾するだけだ。

 15匹の雄蜂と交尾した女王蜂と1匹の雄蜂と交尾した女王蜂をくらべたら前者の女王蜂の巣のほうが、食料も多く蓄え、病気にもかかりにくかったという結果が出ているそうだ。

 

 いま、作物の生産性向上とか、害虫対策などで、遺伝子組み換え作物が出回っているし、つい先日(3月12日)体細胞クローン牛や豚は食べても安全、という報告が食品安全委員会の作業部会が出したと新聞に載っていたが、人間は神になろうとしているのだろうか。

 その新聞には「安全だとしても、流通させるかどうか幅広く意見を聞きながら判断するから、すぐに食卓に出る話ではない」という作業部会の座長の言葉は載っていたが、次のような話は載っていなかった。

 欧米とも体細胞クローン牛の出荷は自粛しているが、米農務省はその子孫については禁止していない(クローン牛の子どもはOKなのだ)。流通にあたっても米食品医薬品局は体細胞クローンの表示は必要ない、と言っているし、日本の厚労省も食品衛生法上は表記不要という立場を取っているから、消費者には判断する基準がまったくない。

 

 この本の解説のなかで福岡伸一(この人の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)という本も示唆に富んだ一冊だった)が狂牛病に触れている。

 「乳牛は、文字通り、搾取されるために間断なく妊娠され続けられる。そして子牛たちは、生まれるとすぐ隔離される。ミルクは商品となり、母牛の乳房を吸うという幸福な体験を覚えた子牛を母牛から分離するのが困難になる前に。子牛たちには、できるだけ早く、できるだけ安く、次の乳牛に仕立て上げるために、安価な飼料が求められた。それは死体だった。病死した動物。(略)草食動物である牛を、正しく草食動物として育てていれば羊の病気が種の壁を乗り越えて、牛やヒトに伝達されることはけっしてなかった」

 この人にしては妙にあたりまえのことを言っていて、この人にはもっと新規な視点での解説が読みたかった、という不満がすこし残った。

 

 ジェイコブセンはこの本の中でミツバチのサプリメントに触れている。(これにはちょっとびっくりした)

 トラックで運ばれたミツバチは一種類の花の受粉を仕事にする。その結果タンパク質の欠乏がおき、栄養失調にかかる。かつては、コーンシロップを与えてテコ入れをしていたらしいが、最近はミツバチ用タンパク質サプリメントが売りに出されているという。ミツバチにサプリメント──笑える話ではあるが、笑うところではない。

 人間の欲望は奇手奇策を平然と思いつくものだ。

 

★沖縄の祖国復帰の見返りに、本来アメリカが支払うべき土地の復元費用を日本が肩代わりした、とされる1971年の「沖縄返還協定」について、沖縄の我部政明琉球大教授が、アメリカの情報公開法でアメリカ側外交文書を入手し、その事実を指摘しているのも関わらず、日本側は「文書を保有していない」と認めていない問題について、ジャーナリストや作家らが情報を開示しなかったのは不当だと、3月16日、東京地裁に提訴した、と新聞の片隅に載っていた。

 

 この事件は当時の外務省の女性職員が毎日新聞の西山記者に密約に関する機密文書を見せた、と女性職員と新聞記者が逮捕されたいわく付きの事例だ。

 報道の自由だ、とか、いや、国家公務員法違反、だとか、あのころは相当話題になったものだが、両者が不倫の仲で、西山記者は情報を入手するために男女の仲を利用した、として有罪判決が出た。(その西山記者も今回の提訴に加わっている)

 事の真相は、当時、アメリカはドル危機で、議会に沖縄返還では一銭も使わないと約束していた背景があったそうで、交渉が難航したあげく、沖縄が戻ってくるならと当時の佐藤首相が四百万ドルの肩代わりを認めたそうだ。

 アメリカは何年か経てば情報公開をしてくるが、日本政府はなかなか情報公開をやらない。都合の悪いことは隠そうとする。まるで、根性のない悪ガキのやり方だ。

 

 豊下楢彦の『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)を読んでいると、情報公開するアメリカと情報を公開しない日本政府(外務省や宮内庁)の違いが浮き彫りにされている。

 ぼくは昭和天皇にはなんの興味もないのだが、この本を読んでいると、敗戦直後の昭和天皇の権力のあり方にびっくりしてしまった。

 米軍の沖縄駐留に関しては、昭和天皇の「二十五年から五十年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与のもとで継続されることを望む」という発言がマッカーサーの政治顧問シーボルトの覚え書きにまとめられている。

 日米安保条約締結のときも、国連中心主義を考えていたマッカーサーや、基地提供を外交カードに使おうと画策した吉田首相をおさえて、米軍駐留による日本防衛を画策したという。

 独立後の日本に外国軍が駐留するということを憲法上どういう理論でクリアすればいいのか、と日米間の関係者が模索していた、その頭越しにである。

 昭和天皇はソ連をはじめとする共産主義の侵略に恐怖を抱いていた。朝鮮戦争で南が負けたら次は日本が侵略される、とか、北海道にソ連軍が侵攻しないかと本気で心配していたという証言が数々ある。

 それは、昭和天皇にとって日本防衛と天皇制の防衛は同義であったからだ。共産主義に日本が占領されると皇室が消滅する、と、そのことだけを怖れていた。

 だから、沖縄をはじめ日本国内に米軍が駐留することは、天皇体制を維持する上で不可欠な要素だったのだ。

 そのためには日本に不利益な条件でも米軍駐留を認める不平等条約での締結を急いだ。新憲法では政治的発言を封ぜられているにもかかわらず、である。

 

 新憲法において第9条の挿入に熱意をかけたマッカーサーは、日本が完全な軍備を持たないことが日本のための最大安全保障であり、これこそが日本の生きる唯一の道であり、国連中心主義のもと、世界の平和に対する心を導いていくべきだ、と昭和天皇に第9条の精神≠説いたが、昭和天皇は、日本の安全保障を図るためには、「アングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアチブを執ることを要する」と、米軍による日本防衛の保障を求め、マッカーサーの頭越しに米国務省のダレスと交渉をおこなった。

 とにもかくにも、昭和天皇は共産主義が日本に侵攻することによって天皇制が喪失することを極端に怖れていた、という記述があちこちにある。

 というわけで、昭和天皇は(『木戸日記』の記述)伊勢と熱田の三種の神器をどう守ればいいのかということも真剣に苦慮していた。三種の神器は「皇統二千六百年」の象徴であり、それを失うことは皇室と国体の消滅を意味するものと昭和天皇は考えていたのだ。

 敗戦後、急に民主主義だとか、象徴天皇だとかを押しつけられても昭和天皇は戦前の教育から逃れ得なかった、ということだろう。

 筆者の豊下楢彦も、新憲法についての昭和天皇の認識はどうだったのか、と疑問を呈している。

 

 ぼくは昭和天皇については好悪強い思いをもっているわけではない。というか、生前、一度も会ったことがなかったので好悪をつけることもできない、と言ったらいいだろう。でも、次のような発言を聞くとその存在に違和感を抱いてしまう。

 1952年、マッカーサーの後任のリッジウェイとの会見時に、朝鮮戦争にソ連が介入してくることを心配し、「共産側が仮に大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?」と質問している。

 「使用されないだろうと確認したとも考えられるが」と豊下は前置きしながらも、その前後の経緯から、「原子兵器を使用する覚悟があるか否かを問いただした」とみなし、「被爆国としての琴線≠ノ触れる問題での大胆な発言」に驚いている。

 ついでにぼくも驚いてしまった。

 

昨年、高岡力詩集『新型』をいただいた。『詩と思想』の

現代詩の新鋭叢書≠フ一冊だそうだが、ぼくは『詩と思想』は読んだことがないので、はじめて読ませていただく方だが、おもしろい一冊だった。1964年生まれだそうだから45歳、奥さんと子どもさんがいるようだ。

 この世の中、かけがえのない日常がある。生きている人すべてにかけがえのない日常がある。かけがえのない日常はどこまでいってもかけがえのない日常で、そのかけがえのなさから逸脱することや逃避することをためらってしまう。ためらわれた日常はすこし増長して、せいいっぱい清潔で秩序だった装いをこなしはじめる。それが世間を渡っていくに都合のよいコスプレだからだ。

 というわけで、いまや、世間はコスプレ一色といっても過言ではない。

 コスプレの世界は誰もが知っているように虚構に充ちている。というか、虚構こそが唯一の現実である。いつのまにか、かけがえのない現実からかけがえのなさが失われているのに気づけない日常で世間は混雑している。

 その混雑している世間を泳ぎ切れる人もいれば、途中でリタイヤして水底に沈んでいく者や、アップアップで陸にたどりつく者もいる。

 陸にたどりついたからといってラッキーなのではない。命あっての物種、という言葉が虚しいほど混雑している世間に喉頸を差し出すだけなのだから。

 では、どう世間を渡っていけばいいのか、それを考えているうちにほとんどの人は死んでしまう。死ぬことはなかったとしても、誰にも見せることのできない老体を自我のうちに抱えて立ちすくんでいるだけのへたれ(、、、)ジジイになっていることはまちがいない。もうとっくにコスプレなど似合わないへたれ(、、、)ジジイに。

 集中から「厚ぼったい夜の空を」を転載する。

  針金で組んだ骨格は馬のものに似せたのだが

  その上に粘土を張り付けていくのだが

  子が象さんがいいと言いだしたので

  針金をコイル状にねじ曲げて馬のような骨格にはめ込んだのだが

  耳もだよパパ そうだ 耳だった

  と針金を折り込んで 編み編みにして

  もはや馬のものとは言えない骨格に はめ込んでみたのだが

  これで象なのだろうか?

  粘土を張り付けていくのだが 立つのだろうか

  立たないとしても 臀部に重りを付ければすむのだろうか

  バタバタと走っていき バタバタと帰ってくる子が

  白くて羽のある象がいい と言いだしたので

  厚ぼったい夜の空を月に向かって飛ぶ像かい

  そんなもん止めよう と説いたのだが

  聞かぬ子なので バタバタした バタバタすると妻がやってきて

  羽ぐらい と言い出すので

  羽ぐらい とはなんだ と思ったが

  編み編みにして 耳よりも長い骨格のようなものを作った

  これに粘土を張り付けていくのだが

  重みに羽は耐えれるのだろうか

  きっと ぼっきっと

  象の羽を支えるのには二本の柱が必要だろう

  割り箸を折り 冒険だなあー こんなことでいいのだろうか

  切っちゃったよ うーんといたい

  そおして 張り付けていくのだが

  厚ぼったい夜の空を月に向かって飛ぶ象かい これっ…

  笑うな……子は もう 居ない

  テレビゲームをやってい……る

  ねえー おい

  粘土を張り付けていくのだが

  もはや象のものとは言えない 奇妙な

  奇妙な骨格に 粘土を張り付けていくのだが

 

 高岡さんの軽妙な語りを聞いていると、高岡さんは、かけがえのない日常を一度、フェイクしてしまうことで、コスプレの日常から、嘔吐と腐臭に充ちた日常の現実感を取り戻そうとしているようにおもえる。

 ホントウノコトヲイオウカ、とむかし、詩人(、、)と呼ばれる人が言ったが、ホントウノコトってどういう意味だろう。ホントウノコトがあるからには、ホントウデナイコトも当然あるのだが、それは誰にとってホントウノコトでホントウデナイコトなんだろう。

 その詩人(、、)は、ホントウノコトとは、自分は詩人のふりをしているが詩人ではない、と至極あたりまえのことを言って個人的な決意を語っているのだが、吉本隆明は「詩とはなにか」のなかでこう書いている。

 「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのこと(、、、)を、かくという行為で口に出すことである」と。(傍点ダイケ)

 この世間、常にホントウノコトを求めて右往左往しているようだ。

 世間をまともに見ることをなんとなく恥ずかしくおもっているぼくなんか、ホントウノコトでなくても全世界を凍らせることはないだろうか、と、つい、おもってしまうのだが、世間を凍らすほどのことなら、それはもう、ホントウノコトであってもホントウノコトデナクてもいいような気がしている。それに、そんな詩、ぼくには一生かかっても書けやしないだろう。

 高岡さんの詩から遠く離れてしまった。

 高岡さんはいま自分が渡っている世間を一度フェイクすることで、全世界でなくても、高岡さんの渡っている世間ぐらいは灼熱の地獄に落とせることに成功するかもしれないとおもって「粘土を張り付けていくのだが/もはや象のものとは言えない 奇妙な/奇妙な骨格に 粘土を張り付けていく」のだ。

 象になるか、馬になるか、鳥になるか、忘れられない女になるか、それとも、粘土の逆襲があるのか、その先は高岡さんの問題ではなく、読者であるぼくの問題で、高岡さんにかき乱された世間というコスプレをフェイクするのもしないのも、読者の勇気ひとつである。

 

  隅っこにいる俺を

  隅っこから 二人して

  視ている俺の妻子よ おとうさんは なにをしているのでしょう

  パパ・・ と子が云った

  あんた・・ と妻が云った

  おれは立ち上がり 紐を 探したが

  そうだ 君たちも 仲間に入りなさい

  三人で正座をしようじゃないか

  眼をつぶり 息を殺そう

  そして とうさんが なにをしていたのかを

  一緒に考えてくれないだろうか

  そうね と妻が云った

  いいよ と子が云った         (「部屋」部分)

 

  わたしのだと おもうけれど 動かすと

  はるか遠くの指が動く

  とても 手と手が入り組んでいて

  おまけに 通常の数値とは違った

  手 足 首の異常な長さだ

  隣で絡んでいる男の人は もう どうなっても と

  弱音をはく いわゆる

  知恵の輪のニンゲン版で

  一つづつ根気よく解いてゆけば

  いつか 各々 お家へ帰れる      (「昼時」部分)

 

 いつだって、なにごとにも、正解はない。高岡さんは、試行錯誤な日常を家族や世間と畳んでいる。世間を一度フェイクにしてしまえ、と。その先に見えてくるものが良くも悪くも現実だ、と。

 高岡さんの詩を読んでいると、高岡さんはコスプレな世間のなかで、世間のマチエールを探している、と告白しているようにおもえる。だから、ぼくは高岡さんの詩にひかれてしまうのだ。

 吉本だって、全世界を凍らせる野望を抱いているかとおもえば、別のところで、

 「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ」(「廃人の歌」)

 と、自虐的な告白をしている。全世界を凍らせるということは世間的には妄想であり、それを口にしている吉本は、世間からは廃人と呼ばれてしまう。真実を求めることということは世間と対峙することであり、それにはなみなみならぬ覚悟がいることだ、と吉本は自虐的に告白しているが、吉本にとって真実とはなんだろう。

 吉本と心中をする覚悟のなかったぼくには、吉本の求めている真実が鮮明に見えてはいないのだが、まあ、そんなに真実が分かってしまえば、この世の中楽しくないだろうことはうすうすわかる。

 それでも、吉本は言う。

 「ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる

  ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる

  ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおされる

  もたれあうことをきらった反抗がたおれる」

                 (「ちいさな群への挨拶」)

(引用は「現代詩文庫・吉本隆明詩集」思潮社・一九六八年版)