9月11日、高知市立自由民権記念館へ『クローンは故郷をめざす』(中嶋莞爾監督、2008年)を見にいく。中嶋莞爾がサンダンス・NHK国際映像作家賞を受賞した脚本をヴィム・ヴェンダースがプロデュースした作品だそうだ。

 この監督は高知出身で、何年か前、県立美術館がこの監督の『箱─The Box』という短編映画を上映したので、見にいったことがある。

 村人の記憶を蒐集しているという箱をめぐるシュールな装いの映画で、最後には、金属の種を植えると金属の樹木になる、というような話だったが、ぼくの思いをその映像に重ねることができなくてちょっときつい映画だったが、ぼくの思いは別にして、作者の思いは観客の前にしっかりと屹立していたような映像だった。

 今回のは初の劇場用映画とかで、前回のとはうって変わって「普通の」映画だった。

 宇宙飛行士「高原耕平」は宇宙ステーションでの仕事中、事故にあって死んでしまう。耕平は宇宙へ行く前に、もし死んだらクローンとして再生する契約を交わしていて、耕平はクローンとして再生する。

 なぜ、クローンかというと、宇宙へ行く前、母親が病気で死にかけていて、耕平には双子の弟ノボルがいたが、子どものころ、川で遊んで流されてしまった耕平を助けようとして水死してしまい、自分よりもノボルを愛していた母の哀しみを思いながら(事実かどうかは分からないにしても、子どものころ、兄弟に抱く感情は屈折している)成人してしまった耕平には自分まで死んだら病床の母は何を糧に生きていくのだろう、という思いがあった、とおもうのだが、母も耕平と同じ時間に死んでしまって、クローンの必要性などなかった、という現実が観客にはしめされる。

 耕平には妻がいるが、妻にはクローンの件は話していない。耕平にとって、「共に在る」のは母親と弟だけなのだ。事故死後、クローン化を知った妻は、クローン化に疑問を持って泣き叫ぶが、耕平の人生にとって「妻」はすでに登場人物ではないのだ。

 クローン化は失敗し、クローンの記憶は子どものころの記憶しか残っていない。この設定にも「共に在る」のは母親と弟だけであることがうかがわれる。

 子どものころの記憶しかないクローンの耕平は母と弟と暮らした故郷へ帰る旅に出る。途中、宇宙服を着た耕平かノボルか分からない男の死体(あるいは宇宙服だけ)を背負って。

 その後を、二体目のクローン(今度は死ぬ直前までの記憶がちゃんと再生された)が後を追い、故郷の村ですでに死んでいた一体目のクローンを埋葬する、と、まあ、こんなストーリーだが、あまりストーリーは関係ない。クローンも「耕平」かもしれないし「ノボル」かもしれない。

 ただ、クローンの肉体と、オリジナルの心がふたり(、、、)で、「自分」とは何ものなのかを知るために「過去の自分」を背負って「故郷」をめざすだけだ。「故郷」に何があるのか、何もないのか、それは観客の数だけ設定されているだろう、という、ヴェンダース好みのロード・ムービーであることには違いなかったが、その映像はどちらかというとタルコフスキーの映像を思いださせるものだった。

 映像もそうだが、ソ連からイタリアに亡命して、結局、ソ連には帰れなかったタルコフスキーの望郷の念が「故郷をめざす」というテーマに重なっていた。中嶋監督はタルコフスキーが好きなんだろうか?

 もっとも、タルコフスキーのようなめめしさはあまり感じなかったが、感傷的で情緒的で美しい映像だった。美術や音声、カメラのスタッフの力を感じた。

 また、主人公が宇宙飛行士である必然は感じられなかったが、小道具としての宇宙服がいい味を出していた。風と霧と草と水も美しかったが、それらに宇宙服が加わることで中嶋監督の独自性が表現されていた、と言ってもいいだろう。

 宇宙は永遠の生命と死、混沌と論理、普遍と変容、美と虚無、そんなものが一体化された存在である。宇宙シーンの特撮も金のかかってないわりには美しかった。

 もっとも、宇宙の特撮はキューブリックの瞑想的で審美的な特撮の後ではどんな特撮も子ども騙しのようなものだ。それに最近はCGとかが主流で、感情移入できないような平面的な映像がのさばっている。

 

 で、なぜ、クローンは弟(あるいは兄かもしれないが)を背負って、母と暮らした故郷をめざさなければならなかったのか。

 ひとつには、クローンの記憶が子どものころでとまっていたがため、クローンには「故郷」しかなかったともいえるし、監督も、そこらへんの郷愁を前面に押しだしているみたいだったが、ぼくは変なことを考えながら画面を追っていた。

 この三人家族には父親がいない。母親と双子の兄弟だけで暮らしている。子どもは小学低学年ぐらいだろうか。学校へ行っている気配もなく常に母親と行動している。

 人間は生まれるとすぐ、身体的な快感、不快感に左右され、乳房を含ませてくれる母親との関係に快楽を感じるようになる。そして「母親」に愛される自分、認められる自分を求めだす。

 そのように、人間は母親への欲望を持つことで最初の他者関係を築くが、父親からの去勢を怖れた子どもは母親への欲望を断念することになる。

 この家族になぜ父親がいないのか、なにも語られてはいない。ただ、母親と双子の兄弟の日々が描かれているだけである。去勢を迫ってくる「父親」に代わる存在も描かれていない。ただただ母親と双子の兄弟がいて、活発な兄と控えめな弟がいて、母親の愛情に包まれた日々があって、ある日、弟が水死する。兄は母親の喪失感を埋めたいがその方法が分からない。

 父親という存在を持たないままおとなになった兄はエディプス・コンプレックス期を体験しないままおとなになってしまった。その結果、エディプス・コンプレックス期を潜りぬけてきた者なら社会的な関心事にむけられるリビドーは兄の心深くに閉ざされたままになってしまった。

 だから兄は、クローンで母親と再会を願うといった負のリビドーにとらわれてしまう。とうぜん妻との関係(他者との正常な関係)がうまく結べるはずがない。兄は妻に内緒で「母」のためにクローンを承認する。

 クローンは自分のリビドーの源泉を探しに「故郷をめざす」のだ。(この映画では対象リビドーが自己リビドーよりも増幅されているようにおもう)

 そう、フロイトのエディプス・コンプレックス説がこの家族にはうまくあてはまってしまうことをスクリーンを追いつづけながら感じていた。

 

 その点では分かりやすい映画だったが、一方で、よく分からない映画でもあった。

 クローン化を実現した博士には、死んだ自分の孫をクローン化したという原点があるらしく、博士の孫の幻影が(クローンではない)登場したりするし、(耕平の母親が教えてくれた)グラス・ハープのような音色が響き渡り、クローンは死の世界と現世を?ぐ霊媒である、とか、魂が共鳴することでオリジナルとクローンは?がれている、とか、まあ、そんなセリフがかわされるし、監督はそこのところを言いたかったのだろうし、それがこの映画のテーマであっただろうが、うまく理解できなかった。

 それは前作『箱─The Box』におけるラストシーン、「金属の種から金属の枝葉が育つ」がよく理解できなかったことと同じかもしれない。

 それは中嶋監督の死生観が投影されているからだろう。その死生観がぼくと一致しなかっただけのことかもしれないし、ぼくが中嶋監督の懐を読み取れなかっただけのことかもしれない。

 もっとも、ぼくの視点が誤謬だらけだったとしても、この映画の後半部分の映像は楽しめた。少々感傷的で情緒的ではあったが、戦後すぐに生まれたぼくなどはこんな映像にクラッとくるものだ。

 だから、映像を楽しみながら観客は、それぞれの死生観を考える契機にすればいいのだろう、きっと。

 そういえばタルコフスキーも、神がどうだとか、世界が終焉するだとか、いろいろ騒ぎたててそのセリフは騒々しいが、映像の美しさがタルコフスキーの内面の豊かさを語っていた。タルコフスキーの誠実さを語っていた。

 この映画もそんな方法論を採っているみたいだった。

 

 それにしてもオリジナルとクローンでは何が違うのだろう。完全にコピーしたとしたら、肉体、遺伝子の配列は違わないだろうが、心というか、オリジナルの持っていた感性、心情まですっかりコピーできるものだろうか。

 「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトは心身二元論を唱え、肉体と心は別物だと言った。肉体と心が別物だったら完全なコピーは難しいかもしれないが、デカルトの考えは現在では支持されていないし、ノーベル物理学賞を受賞した利根川進は『精神と物質』(文藝春秋)という立花隆との対談のなかで、人間の心のなかで起こる現象、「かなしい」とか、「さみしい」とか、「人を愛している」とか、そういう感情は(近い将来)脳の中でどの物質とどの物質が働き合っているかで説明がつくようになる、と断言していて、もしそうなれば、人間の感情も完全にコピーできることになり、完璧なクローンが作りだせる、というところだろうか。

 

 で、クローンとして生きるということはどういうことなんだろう。クローンにクローンであることを教えなければ、自分はオリジナルだとおもって暮らすだろうが、クローンであることを教えたら、クローンの心のなかでどんな変化がおきるのだろう。クローンとしての葛藤がおきるのだろうか。この映画では、そこらへんは描かれていなくて、ただオリジナルの過去に引きずられてしまったような展開で終わってしまっていて、そんなことは観客が考えなければならない仕組みになっていた。

 まあ、そこまで徹底して描いたら映画にはならないだろう。映画でも小説でも詩でも、作者は半分ぐらいを具象化して、残りは観客や読者に委ねるしかないのだから。

 観客や読者の邪念が入りこむ余地を残している作品がいい、とこのごろ、そうおもっている。だから大島渚の旧作など見ていたら、ついイライラしてしまう。10代のころあんなに興奮したのに。

 

 それよりも、クローンの技術が蔓延した社会に暮らすということはどういうことだろう。自分の出自を常に疑いながら暮らしていかなければならないだろうか。それとも、出自など意味をなさない世界だろうか。

 もっともオリジナルとかクローンとか言い立てることは「差別」になってしまうのだろうか。クローンからクローンを作り出せば、オリジナルの存在は無視していいのだから。

 でも、無視されたオリジナルとは何だろう?

 というよりも、死生観の問題に収斂してしまうだけだろうか。あるいは、「生まれ変わり」とか「輪廻転生」といった死生観を持っている日本人にとってクローンは「永遠の生」になるのだろうか。

 生物学的に「自己」と「非自己」を決定しているのは「免疫」である、という楽しい話を満載している『免疫の意味論』(青土社)の著者、多田富雄はその本の中で、染色体にテロメアというものがあってそれが分裂するとき、一回ごとに短かくなっていくと書いてあった。(ヒトの体細胞を取り出して培養すると、細胞分裂のたびにテロメアが短かくなる。テロメアが一定長より短かくなると、細胞は不可逆的に増殖を止め、細胞老化と呼ばれる状態になる。(ウィキペディア))

 だから、かつては、クローンを作るとき、そのテロメアの長さがすでに短かくなっていて、例えば6歳の羊の体細胞でクローンを作ると、すでに6歳分カットされている(柴谷篤弘・森岡正博、対談「現代思想」97年6月)、はずだったが、人間の力というものはおそろしいものである。

 何年前か忘れたが、分裂の際に短かくなるテロメアを継ぎ足して長さを元に戻すテロメラーゼという酵素が発見された、ということをなにかの本で読んだ。これを利用すれば完全なクローンが作れることになるのだろうか。

 今朝(10月6日)の新聞に、このテロメア構造と酵素テロメラーゼの発見者が今年度のノーベル医学生理学賞を受賞した、と載っていた。記事によると、iPS細胞(人工多能性幹細胞)もテロメアが伸びていて、再生医療や老化予防などに期待される、らしいが、すでに人類は、生命と寄り添う存在ではなく、生命を技術として扱う存在になってしまったのだろうか。

 まあ、ぼくが生きているうちはまだ、クローンや不老が実現することはないだろうから、そんな時代を見なくてすむのは幸運と言える。

 ぼくのクローンなんて気持ちが悪い、というか、恥ずかしい。オリジナルのぼくでさえ、この世で生きてこうして文章を書いていることが恥ずかしい、とおもっているのに、クローンをつくって、この上に恥ずかしさを重ねようとは、おもわない。

 永遠に生きつづけたい、などともおもわない。というより、永遠に生きつづけるってことはどういうことなんだろう。真剣に考えたことがないのでうまくイメージできないのでなんともいえないが、今のところ人間はそれぞれの寿命がきたら、灰になる。灰になってどこか地面に散らばって人間や動物に踏まれて土に還る。それでいいのではないか、とおもっている。この地球、人間が一番、なんておもわないで、謙虚に退場していけばいいのだ。

 昔の映画には臓器移植のためにクローンを作るとか、ナチスの第三帝国を再建するためにクローンを作るとかいうものがあったが、この映画のようにクローンの死生観を考えさせる映画は初めてではないだろうか。

 

 今年度の芥川賞を受賞したという『終の住処』(磯?憲一郎著・新潮社)を読む。

 ここ何年も小説を買ったことはなかったが、高知新聞に清水哲男の書評が載っていたので、つい買ってしまった。

 最近の小説の傾向がどうなのかはよく知らないが、「大きな物語」で読者を恫喝するような小説ではなく、シニカルな個人主義が「欠如」とともに生きた記録、といった小説だった。

 「彼」も「妻」も結婚したときは30歳を過ぎていて、付き合ったときから「結婚」が前提にあった、という書き出しではじまる。

 新婚旅行中、妻は不機嫌だったが、その理由を尋ねると、「別にいまに限って怒っているわけではない」と宣言される。

 そういう女性と生活を共にすることを選んだ彼は、新婚旅行から帰った一日目、夜明け前に目を醒ました。そのとき、妻は一晩中起きていて、暗闇のなか、一晩中彼を睨みつけていたのではないか、という強迫観念に襲われ、夜明け前の外に飛び出す。

 夜が明けはじめるころ、近くの沼にたどり着いた彼は何かがはじまる気配を感じ、沼の湖面が小さな山のように盛りあがり、頭上にはヘリコプターがホバリングし、沼からは、沸騰したかと思われるような激しい水しぶきが沼の底から上がってきた。巨大な哺乳類か異常に成長した爬虫類がこの沼には棲んでいるとしか思えないと感じた彼は、「とうとつに、この空間を共有するすべての存在にとって既知のある事実が、彼だけには知らされていないような気がした。」

 すでに彼は、置き去りにされている自分を承認している出だしである。

 「別にいまに限って怒っているわけではない」と新婚旅行中ずっと不機嫌だった妻に不満を持ちながらも、「結婚」を前提に結婚した彼にとって、この世のあらゆることが「私」の理解と承認を得ることなく存在している、ということをあらかじめ了承してしまわなければこの先生きていけないというゆるやかな決意をしてしまった、と、この書き出しからは推測される。

 夫婦は手を取り合って一心同体で豊かな夫婦生活を、などという共生感覚は最初からスポイルされている。互いに依存して暮らしていく一生があってもいいし、そうでない一生があってもいい、ということは誰も知っていることだから。

 そういえばぼくも、40年も昔のことだが、二十歳そこそこだった今の奥さんと一緒に暮らすとき、「私のできることはするけど、基本的には他人だから」と言い渡されたことがあったことを、ふと思いだした。それから40年余、そこそこやってきたとぼくはおもっているが、61歳になった今でも「私にかまわんとって!」(高知の方言。「私にかまわないで」)と言われているから、そこそこやってきていなかったような気もしている。おまけに「終の住処」についてもまだその心構えができていない。どこでどうのたれ死にするやら、と心細い限りではある。

 まあ、それはそれとして、男女が一緒に暮らすに際して、夫婦の領域と個人の領域を宣言して、互いに了解して暮らしていくしかない、のは周知の事実だが、「彼」は妻の了解を得ることなく、自分だけの了解で生きていくことをゆるやかに決意させられている。共依存よりはましかもしれないが、自分だけの決意というのは辛いものがある、が、所詮人生とはそんなものかもしれない。夫婦手を取り合って生きてきた、ということは、「共に生きる」という幻想を「強制」させられたのではないか、という疑いに似ているから。

 

 だから、新婚生活ははじまったが「彼」はずっと不安である。妻に愛されていないとか、妻は浮気をしているのではないかとか、妻と結婚したときのゆるやかな決意など「不安」の前にはなんの役にもたたない日常がつづいていたが、ある日、妻から「別れようと思えば、私たちはいつだって別れられるのよ」と言われてたじろいでしまった彼は、「下らない太った女」と浮気をしてしまい、妻と別れようとするが、妻から妊娠したことを知らされ、彼らの生活はつづくことになる。(ゆるやかな決意の継続である)

 そのとき彼はこう思っている。「生きていくということはおそらく、生み出される実在しない記憶をそのまま受け入れることに外ならなかったのだ」

 もしかしたら、他者の記憶を生きろと言われても、生きてしまいかねない人生を彼はおくることになる。そういう魅力がこの小説にはある。

 

 娘が二歳のとき、遊園地のゴンドラに乗った翌日から、妻は夫と口をきかなくなり、その後十一年間、口をきかなかった。(この部分を清水哲男が紹介していたからつい買ってしまったのだが)

 この小説のいいところは、普通だったら耐えられないことを簡単に書いてしまうことだろう。そんなことが現実にあってもなくても、この夫婦は十一年間、口をきかないのだ。口をきかなくなった理由も判然としない。ただ口をきかないという事実だけがあり、彼らの人生は過ぎていく。

 そして十一年目、朝の通勤電車の中で、彼は居もしない子どもの笑い声を聞いた。

 「もう大丈夫だ、いっさいの心配は不要だ。こんな朝の通勤電車のなかにさえ祝福すべき子供がいたのだ、ならばここには猫やサルだっているかもしれない、馬だって姿が見えないだけで本当はいるかもしれない、そしてじっさいにそれらの動物がいたとしても、この世界にとって何ら問題はない」

 と、その夜、家に帰った彼は妻と娘に、家を建てることを宣言する。十一年間、口をきいていなかった妻もそれに応えて「そうね、もうそろそろ、そういう時期ね」ということで「終の住処」を建てることになる。

 ──という物語が展開されるのだが、夫婦は、あるいは家族は、共同して、愛し合って、豊かな人生を送るという世間的な楽しいこと、充実した人生がスポイルされているのに、この夫婦は、この家族は不幸ではない。彼は彼なりに、妻も妻なりに、それぞれの人生を生きてしまった、という肯定感すら感じさせる一冊だった。

 この小説にはもうひとひねりあって、「終の住処」を建てた後、彼は長いアメリカ出張を命じられる。その絶望的な仕事が終わり「終の住処」に帰ってくるのだが、娘がいない。妻の言うことには、「去年からアメリカへ行っているのよ」。

 どこまでいっても「私の思い」から遠ざかっていく家族である。だからといって、「他の何か」を彼らは求めているのではない。ここ、この場所で営まれた人生をただ「良し」とするほかない。

 

 この小説全般にわたって、「彼」には何も知らされることはない。妻の機嫌の悪い理由も、いつ別れてもいい、という妻の根拠も、十一年間、口をきかなくなった理由も、そして、最後の最後、娘はいつからアメリカに行き、その目的は何なのか、自分もアメリカにいたのになぜ知らせなかったのか。

 この孤立感、疎外感、孤独感、無力感、それらを決定的な「事件」にすることなく、彼は、自分と家族の存在を耐えている。その耐え方が凄いとおもってしまう。その耐え方が姿を変えてよそへ転移せず、自分の中で処分してしまうことも凄いなあ、とおもってしまう。ぼくなど、あっというまに逃げてしまうだろう、きっと。

 世間一般の幸福感からはズレてしまっているかもしれないが、彼らは幸福感なしの幸福な存在を生きたのでは、とおもわれる。失意や喪失もまた幸福のバリエーションだ、と言わんばかりに。

 また、妻と娘の事情は何も書かれていないのだが、妻と娘にもそれなりの事情があり、それぞれの存在を耐えてきたとおもう。

 だから、彼らの老後に幸いあれ、と願うしかない、が、まだまだひと波乱もふた波乱もありそうな家族ではある。

 

 この小説は横から見ても下から見ても後ろから見ても「夫婦愛」らしきものが感じられない。まあ、すべての夫婦が「愛情」を唯一の根拠として結婚生活を送るわけでもないだろうから、それはそれでいいのだし、この小説は「夫婦愛」をテーマにしているわけでもないので、夫婦の共存関係などハナから感じられない。ときとして夫婦は共依存することもあるのだが。

 と書いてきて、ふと、高村光太郎と智恵子のことを思いだしたのだが、それは、いま読んでる本との関係で、光太郎と智恵子のことなどそんなに興味はない。

 昭和30年代後期、ぼくが高校生だったころ国語の教科書に載っていた高村光太郎の詩は、智恵子との共依存(そのころはそんな言葉など知らなかったが)に依存している、と鼻で笑っていたが、しばらくして、吉本隆明の、高村光太郎は並外れた性欲の持ち主で、そのため智恵子を錯乱に導いたのだ、というような評論を読んで、「おいおい」とおもった遠い記憶がある。

 狂った智恵子への無償の愛のような姿を見せている光太郎の詩は、狂った智恵子と共生したいと願っているような光太郎の詩は、実は、光太郎の並外れた性欲に耐えきれず狂ってしまった智恵子への追悼詩なのか、と。

 

 二ヶ月ほど前、本屋をのぞいていたら、『吉本隆明1968年』(加島茂・著、平凡社新書)という本があった。1968年はぼくが二十歳のときだ。

 帯に「彼は何と闘ったのか」とあった。いままで闘ったことのない軟弱なぼくだが、つい買ってしまった。

 「永遠の吉本主義者」と自認している著者が自らの1968年吉本体験を熱く語っている一冊で、このなかに吉本の高村光太郎論への言及がある。

 「智恵子が発狂し、おのれのピューリファイ願望のレフェランスを失った光太郎は、その狂った智恵子に代わるピューリファイイング・ソースとして戦争を選びとった」というような光太郎がなぜ戦争詩に傾いていくのか、というおもしろい考察などがたくさんあったが、ここでは『終の住処』との関連のみにしたい。

 

 吉本隆明は高村光太郎の詩「あなたはだんだんきれいになる」を引用して次のように書いている。(『道程』論)

 

  をんなが付属品をだんだん捨てると

  どうしてこんなにきれいになるのか。

  年で洗はれたあなたのからだは

  無辺際を飛ぶ天の金属。

  見えも外聞もてんで歯のたたない

  中身ばかりの清冽な生きものが

  生きて動いてさつさつと意慾する。

  をんながをんなを取りもどすのは

  かうした世紀の修業によるのか。

  あなたが黙つて立つてゐると

  まことに神の造りしものだ。

  時時内心おどろくほど

  あなたはだんだんきれいになる。

 

 「こういう美化を妻に呈することができる人物は、ほとんど庶民世界のさいのろ(ゝゝゝゝ)という段階をこえているのだ。この夫婦の生活は、人びとを羨望させこそすれどんな葛藤を憶測することをも拒絶している。凡俗は、これにたいして口をさしはさむ余地はまったくないのだ。しかし、この詩は、たれにもあきらかなように、夫である一人の男が、あるかけはなれた距離から妻である一人の女性をながめ美化しているところに成立している。これを、正常な意味で夫婦の感情とよぶことはできないのである。すくなくとも、庶民社会の通念にまみれ、物質的窮乏におびやかされた生活意識からは、夫婦とよぶことはできない。環境社会の意識を脱落した一人の男が、ほとんど生活感情をもたない一人の女性をながめているにすぎまい。両者を結んでいる紐帯は、愛情にしてはとおくにすぎ、情念にしては冷却にすぎ、奇怪な貌をした「自然」理法のメカニズムのようなものがのぞいている。『智恵子抄』を、比類ない相聞の詩集とよぶ人々は、ここに純化された愛情を例外なくよみとっているのだが、残念なことに、この詩集で、智恵子夫人の方は、無機物のように表情をもたずに、つっ立っているだけで、操作は、もっぱら高村の内的な世界でおこなわれている。ここに愛情と呼べるようなものがあるとすれば、高村の独り角力としてあるだけである。」

 

 日原正彦さんは自著『ことばたちの揺曳─日本近代詩精神史ノート』の「高村光太郎」の項で、吉本のこの解釈に異議を唱えてこう書いている。

 「光太郎は智恵子に向う時、吉本がここで述べているような「庶民社会の通念」や「生活意識」といったもののまきおこす「葛藤」を、意識的に見ないようにしているのだ。光太郎の単眼は、複雑で混沌とした生活時間につかまれている智恵子を、見ようとはしていない。それを見ようとはしないという意志を素地にした、愛のかたちが『智恵子抄』の愛のかたちなのである。」と。

 高村光太郎の詩についてそんなに詳しくないぼくは吉本の読みと日原さんの読みのどちらを支持するとも言えないが、いま、『終の住処』という小説を前に吉本の言葉に付き合っていると、『終の住処』という小説の姿がくっきりと見えてくることだけはたしかだ。 

 智恵子への愛が前面に打ち出されている光太郎の詩と、「結婚」しか前提でなかった『終の住処』の登場人物の立ち姿が似通っていることに驚く。

 光太郎は智恵子を美化しているが、『終の住処』の「彼」は「妻」に疑心暗鬼の一生だった。にもかかわらず、吉本の文章は次のように読み変えて『終の住処』にあてはめてしまうことができる。(ゴシック部分が『終の住処』)

 

 「この詩(小説)は、たれにもあきらかなように、夫である一人の男が、あるかけはなれた距離から妻である一人の女性をながめ美化(動揺)しているところに成立している。これを、正常な意味で夫婦の感情とよぶことはできないのである。」「両者を結んでいる紐帯は、愛情にしてはとおくにすぎ、情念にしては冷却にすぎ、奇怪な貌をした「自然」理法のメカニズム(シニカルな個人主義)のようなものがのぞいている。」「この詩集(小説)で、智恵子夫人(「妻」)の方は、無機物のように表情をもたずに、つっ立っているだけで、操作は、もっぱら高村(「彼」)の内的な世界でおこなわれている。ここに愛情と呼べるようなものがあるとすれば、高村(「彼」)の独り角力としてあるだけである。」

 

 吉本は光太郎の智恵子に対する姿勢は光太郎の内面世界で生きているだけだと言っている。

 『終の住処』の「彼」もまた、彼の内面世界で「結婚生活」を終息させてしまう。妻も娘も彼の内面世界では「他者」の役割を演じながら、「彼」の人生を彼自身に承認させるための必要不可欠な「家族」として認知される。

 この小説は、そういうことのディテールを、あるいは、彼の人生のその時間時間の存在の、その瞬間の彼のきらめきと悦楽を追体験することを楽しむ一冊だとおもうが、どうだろう。

 などとすこし気張って書いてしまったが、この小説のいいところは「説明できない」ことだとおもう。もともと、「説明できること」なんて、たいしたことではない。言葉にすればするほど、なにか大事な「核」を取りこぼしているような気がする。この世のことは「言葉」で語るしかないのだが、けっして「言葉」では語り得ないものが残ってしまう。

 

 10月1日、NHKで『厳罰化によって、刑務所の囚人が世界的規模で増加している。世界で最も囚人にやさしい国、ノルウェーの犯罪学者ニルス・クリスティ氏が「囚人爆発」をどう防ぐか提言する』というのをやっていた。聞き手が森達也だったので見てみた。

 試行錯誤の末らしいが、殺人で服役している囚人に、ぼくの部屋よりも快適そうな個室が与えられ、TVを見、CDを聴き、パソコンに興じることが許されているし、社会復帰のためにといって外泊を許しているノルウェーのシステムにはびっくりした。出所しても社会復帰ができなければ再犯を繰り返す、という考えからだが、殺人犯に外泊、はこのぼくでもびっくりした。

 裁判についても、日本が裁判員制度の手本にしたという「参審員」が裁判官と一緒に、「犯罪を裁く」のではなく、犯罪に至った原因を探り出し、再犯をおかさないためにはどうすればいいのか、を協議しているという。任期は4年で、年2?3件ぐらい審議するそうだ。

 それに、犯罪を犯せばすぐに裁判にかけられるのではなく、やはり市民が4年の任期で就任している「調停委員会」で加害者と被害者と一緒に犯罪に至った原因を究明し、裁判をすることなく和解に持っていくそうである。ここで八割ぐらいが解決するそうだからまたまたびっくりである。

 市民と共に「犯罪」を考えていく、ということが基本らしい。

 日本では死刑をはじめ刑罰が厳しくなっている。あのサリン事件が引き金みたいだ。法務大臣で、死刑はベルトコンベアーに乗せて粛々と、と言った人がいたが、最近は「被害者家族の感情」を重視する罰に傾きつつあるようにおもう。

 光市母子殺害事件では、最高裁が高裁の無期懲役を差し戻した(死刑にしろ、ということだろう)。また、和歌山カレー事件では被告が否認しているにもかかわらず最高裁で死刑が確定した。判決要旨を読むと(インターネットで読める)限りなく「黒」にちかいし、世間も被告がやったとおもっている。でも、間違っていたらどうなるんだろう。

 

 ノルウェーでは1200人か1600人に一人が刑務所に入っているらしいが(はっきりした数字を忘れた)、アメリカでは100人に一人が刑務所に入っているらしい。

 そのアメリカにはスリーストライク法がある。微罪でも三回有罪になれば終身刑、というやつである。一生刑務所暮らしである。二度と許されないのである。自由の国アメリカは犯罪も自由の国らしく、再犯率がものすごく高いらしい。その結果のスリーストライク法らしいが、国家が国民に「絶望」を押しつける根拠は何だろうか。

 アメリカは性犯罪者が多くて、性犯罪の前科者の情報を公開している。検索すれば、自分の町に性犯罪の過去を持つ人物がいるかどうかわかるシステムらしいし、また、発信器のような物を身体に装着させて管理するというシステムもあるらしい。

 性犯罪についてはぼくは幸いなことに、幼児嗜好はないし、屍体嗜好もない、強姦に快感を感じることもない。だから、犯罪者にならずに、普通の変質者で暮らしている。

 しかし、反社会的な性的嗜好に取り憑かれた人たちは、「反社会的」である以上、受け入れられることはない。それでも、性的な衝動に突き動かされてしまう。その性衝動をどう処理すればいいのか、性犯罪の専門家ではないぼくは何も言えないが、性犯罪の被害者のことをおもうと「いたましい」だけでは収まりきらないものがある。

 が、性犯罪者に人権はない、とまで言いきれるものだろうか。一生、性癖が付きまとう性犯罪者はどう生きていけばいいのだろう。薬や注射で強制的に矯正すればいいものだろうか。いや、そもそも、性的嗜好は矯正できるものだろうか。

 しかし、自分の娘がレイプされて殺されたら、犯人の性的嗜好がどうのとか、犯人の育ってきた環境が劣悪でまともな世間で暮らしていたらこんな犯罪は犯さなかっただろうに、と言われても、(ぼくなら)きっと許せない。復讐する。

 などと言ったら、法治国家を否定することになる、とむかし批判されたことがあった。私怨は復讐が復讐を呼ぶから、国が罰の代行をしている、それを否定することは市民生活からはみ出ることだ、と非難されたことがあったが、二十歳ぐらいのときに見た『絞死刑』という映画で、国家による殺人のばかばかしさを大島渚に教えてもらって以来、国家による代理復讐劇とでもいうべき死刑制度はNOだとおもっている。

 

 それに、精神障害のある人たちの犯罪は裁かれるべきなのか、どうか。犯罪を犯してのちの検査で二割程度の人が精神的に障害があった、といわれている。「犯罪」ということの意味が理解できない人の犯罪をどう考えればいいのか。

 

 いま日本では「裁く、裁かれる」という目でしか「犯罪」を見ていないが、ノルウェーのように、加害者も被害者も一緒になって「犯罪を考えていく」というシステムが必要ではないだろうか。たぶん、時間がかかってコストも高くなるだろうが、「犯罪」を市民が共有する、ということが遠回りの末の近道ではないか、なんて、そんなことをおもいながら番組を見ていたが、そんな倫理的なことを考えている自分がすこし悔しかった。もっと大胆な意見を持ちたかったが、想像力が低下しているみたいで、なんとなくその夜は倫理的な感情を持たされたままTVを見終わってしまった。

 

 裁判員制度がはじまったが、これから先どう変化していくだろう。昔から、罪を憎んで人を憎まず、という言葉があるが、なかなかそうはいかないだろう。

 永山則夫事件や、去年の秋葉原の加藤智大など、社会のバックアップがあれば起きなかった事件はたくさんあるかもしれない。

 いや、社会のバックアップ、なんて簡単に言っているけど、他人の孤独につきあうほど、いまの日本人は豊かな生き方をしていないし、人とのつきあいを極端に嫌がる人もいる。

 昔は隣近所のおじさんやおばさんが実の親のように叱ってくれた、なんていう話をして、地域のコミュニティを復活すれば犯罪の予防の一助になる、と言う人もいるが、ぼくのように、下町のような隣近所の目がつねに徘徊しているような環境は苦手だ、という人もいるだろうし、それ以上に昔のようなネットワークの復活はないだろう。

 それでも、犯罪は社会の中で生まれている。社会がもうすこし余裕を持てるようになればいいのかもしれないが、環境はどんどん悪化している。

 「罪と罰」の問題は一筋縄ではいかない。ノルウェーだって、刑務所があって常に犯罪者が収容されている。ゼロにはならない。再犯率がゼロということでもないだろう。