前号にクロード・レヴィ=ストロースが亡くなったことを書いたら、いろんな人から、亡くなったのを機にかれの著作を読みなおしている、という手紙をいただいた。だから、というわけでもないが、ぼくもこの正月、『悲しき熱帯』(川田順造・訳、中央公論)と『野生の思考』(大橋保夫・訳、みすず書房)を本箱から取り出してきて読みなおした。こんなことでもないとなかなか読みなおすことなどないだろう。

 

 1962年、サルトルの権威を崩壊させたと言われている『野生の思考』のなかでレヴィ=ストロースが言っていることは、「文明人の思考」と本質的に異なる「未開人の思考」が存在するとした幻想の解体である。未開人の特長とされてきた呪術的・神話的思考などは「未開人の思考」などではなく、われわれ文明人のなかでも芸術活動や知的活動に重要な役割を果たしている「野生の思考」であり、文明人が信仰している「科学的思考とは」(前号にも書いたことだが)限られた目的に即して効率を上げるために作り出された「栽培思考」でしかない、ということだ。それは、西欧各国のエスノセントリズム(自民族中心主義、自文化中心主義)の自己批判であり、全ての文化は優劣で比べるものではなく対等であるとし、ある社会の文化の洗練さはその外部の社会の尺度によって測ることはできないとする文化相対主義の支持である。

 簡単に言ってしまうと、「未開社会」の小集団がもっていた環境との共存技術、人間を疎外しない労働観、人口増加の抑制方法など、文字を持たない未開社会にも、西洋文明と比肩しうる文化がある、ということをしめして、西洋文明の価値体系だけでものを言うなよ、と言っているのだ。

 たしかに、それはそうだろうが、現在、この地球上、レヴィ=ストロースが西洋文明と比肩しうるとたかだかと表明した「未開社会」は貧困と搾取に悩まされている。

 その原因は、先進国といわれる西洋文明の技術と経済力であり、未開社会の穏やかな人文主義は経済と開発の前に淘汰されてしまうだろうことは当然予想できたことである。レヴィ=ストロースが当時(1930年代)、足を踏み入れた未開地もそれ以前の未開地の「良さ」を喪失してしまっていたのだから。

 そしていま、それら未開地=未開発地域が求めているのは、かれらが培ってきた文化から逸脱する「先進技術」であり、「開発されて経済的な発展」を遂げることである。そんなジレンマが未開地にはある。

 この21世紀の地球の困惑を救う唯一の手だてはかつての「未開社会」が持っていた環境観、労働観、自然観、共存観、人間観、などに立ち戻ることだろうが、そんな「未開人の思考」は顧みられることはないだろう。いまさら、トーテミズムと口頭伝承の世界を指し示されても、選択肢にはならないだろう。

 未開人、といわれる人たちもきっと、新しい文明を肌で知ることで、新しい文明の愉楽に身も心もとらわれてしまったのだろう。新しい文明は常に魅惑的である。それが毒を持っていればいるだけ。人間はそうやって前へ進んできたのだ。

 効率と便利さが優先し、他者を侵略することで発展しつづけてきた新しい文明は、非効率で不便だが小さな地域だけで自足してきた古い文明を凌駕してしまったのだが、それは避けられないことだった。

 それでもまだ、西洋文明の価値体系を基準にしてはいけない、というレヴィ=ストロースの箴言は生きている、とおもう。

 人類は、進歩と発展を後退させるような文明を目指せないだろうか。「目指せないだろうな」とすぐシニカルな物言いをするのがぼくの悪い癖だが、もしかしたら、大きな社会を望まない人たちが、それぞれの場所でそれぞれの居所を確保することができたら、そして、そういう場所が多くなれば、人間もまんざらではないぞ、とおもうような奇跡がかいま見られるかもしれないとこころぼそくおもったりするのだが。──「でも、無理だろうな」

 

 レヴィ=ストロースは何度か日本に来ている(四度か五度)。1986年に来日したときの講演集が一冊の本になっている。『レヴィ=ストロース講義─現代社会と人類学』(川田順造・渡辺公三・訳、平凡社)。

 そのなかでレヴィ=ストロースは日本文化の特色について語っている。

 レヴィ=ストロースは日本人が手紙を出しに行くときとか、タバコを買いに行くとき、「行ってまいります」と言い、これに対して「いってらっしゃい」と答えることを採りあげ(1986年当時はまだこんな会話が日本ではなされていたのかと驚くのだが)、西欧の言語が外出するという決定(、、、、、、、、、)に重点を置くのに対して、日本語ではすぐに帰ってくる(、、、、、、、、)という点にアクセントが置かれていることに注目し(傍点はダイケ)、あるいは、西欧では「油に沈める」と言うところを、日本料理では油から「持ち上げる」、つまり「揚げる」と表現することに注目し、こう語っている。

 「分野も様式もさまざまですが、そこにはつねに自分のほうへ引きもどす動き、自己への回帰が見られます。すでに構成された自律的な『自我』から出発するのではなく、日本人はあたかも自らの内部を、外部から出発して構成するかのようです。このように日本人の『自我』は、もともと与えられたものではなく、到達できるかどうかわからないままに求めた結果として得られるもののように思われます」

 と語って、西洋文明の「遠心性」にたいして日本文明の「求心性」を指摘している。

 そしてまた、日本人は「外からの影響に自らを開き、すばやくとり入れること、そして、自らのうちにひきこもり、時間をかけてそれを同化し、固有の刻印を押」してきた、と日本文化を高く評価している。

 その結果、稲作文化にとり入れられてなお健在だった象徴の体系が、天皇制権力に確固とした基盤を与え、さらには工業化社会の基盤にもなった、と日本という国を語っている。

 それらは近々では明治維新や太平洋戦争敗戦後の日本人にその典型が見られるのではないだろうか。

 そしてかれは最後にこのような言葉で日本文化を肯定している。

 「独自性をもち、また互いを豊かにする一定の隔たりを保つには、どんな文化も自らに対する忠誠心を失ってはなりません。そのためには、自分と異なった価値観に対してある程度目をつぶり、こうした価値観の全部あるいは一部への感受性に鈍感であることも必要なのです」

 未開の小集団が生き残るには、個体よりも集団を尊重しなければならなかっただろうことは容易に推察できる。多少の価値観の差異は顧みられることなく、カリスマ性を伴った人物を中心に(それは卑弥呼のような存在だっただろう)、異なった価値観に鈍感であれ、という忠誠心が集団の維持に貢献してきたことだろう。レヴィ=ストロースはその「文化」を現在の日本に見出しているのだ。天皇制中心に、異文化との融合に鈍感な日本人の在り方を、レヴィ=ストロースはことさらに言いたてるでもなく、社会人類学者の立場から日本の「大本(おおもと)」を解説してみせている。

 

 ぼくはいままで比較文化論的に「日本人とは」などと考えたこともなかったのが、そんなぼくでも日本人とはおもしろい文化を持っている、とおもうときがある。

 今年の正月、おもしろい光景を目にした。近くの神社、朝倉神社にふたりのお坊さんが初詣に来ていた。お坊さんも神社に初詣に来るのだ、とびっくりした。

 もっとも、日本には神仏習合という風習があって、奈良時代から寺院に神が祭られたり、神社に新宮寺が建てられたりしていたというから、そんなに驚くことでもないが、はじめて見た光景だったのでびっくりしたのだ。

 西洋はそうはいかなかった。十字軍遠征に代表されるように宗教戦争がくりかえされた歴史がある。

 いや、日本でも明治政府が神仏判然令を公布して、廃仏毀釈運動がおこり、神道国教化のもと天皇中心の国体を目指した時代がある。日本人は一人ひとりをとらえれば優柔不断な性格なのに、集団になってしまうと、だれか大きい声が「右」と言ってしまうとみんな右をむいてしまった時代がある。

 それは日本人だけの特性だったのか、世界中、どこにでもある「人間の個性」なのか、その方面の知識のないぼくには断言できないことではあるが。

 ぼくはだいたい元日は近くの朝倉神社に参拝し、二日は隣町の椙本神社に行くことがおおい。お賽銭を投げ入れて破魔矢を買う。神社に行くことなんか正月以外にはない。なぜ正月に神社へ行くのか、と詰問されれば答える術がない。まあそれが正月の行事である、としか言いようがない。

 昔は氏子とか檀家とかいう制度が機能していて、それなりに神社や寺とは日常的な関わりがあったとおもうが、ぼくらの世代ではほんとうに少ないだろうとおもう。それでも大晦日にはお寺に行って鐘を撞き、お正月は神社に初詣に行く。そして、三が日のお賽銭が何千万円あったと、アルバイトの女子学生の巫女さんが札束を数えてにっこりしているシーンがTVのニュースになる。

 子どものころに比べて、路傍のお地蔵さんや祠の数が少なくはなっているが、それでも赤い衣を着せられたお地蔵さんや小さな祠に出くわすと、なんとなく神妙な気分になって、粗末にできない気持ちになる。日本の文化の遺伝子が潜在的に受け継がれている、と言っていいのかもしれない。

 クリスマスがいつごろ日本に定着したかはしらないが、昭和30年代はじめ、クリスマスになるとぼくの父親はキャバレーでバカ騒ぎし、帰りにケーキを買ってきた。クリスマスとはケーキが食べられる日のことだった。

 もうこの歳になると、クリスマスがどうのこうのとはおもわないが、若い人たちにはすっかり定着して、恋人同士にはクリスマスは必須アイテムらしい。バレンタインという日もそうらしい。クリスマスは日本では宗教的行事から一種のイベントに様変わりしている。いっそ国民の祝日にしてしまえばいいのにとおもったりする。

 その昔、高度成長がはじまるころ、三種の神器といわれ、競って購入されたものがあった。白黒TV、冷蔵庫、洗濯機、だ。それらと核家族を象徴する団地生活が戦後日本の文化のステータスだった。文化的で機能的で見栄えのする生活を望んだ日本人だったが、古代、稲作を覚え、定住するようになった日本人が呪術的中心性として構築した天皇制だけは捨てることなく精神的に維持してきた。

 そう辿ってくると、レヴィ=ストロースの指摘はその通りだろうとおもってしまう。

 そういう日本人は、自我の確立がされていないから群れていると安心する民族だ、とか、右へならえの烏合の衆だ、とか(今どきの女子中学生だって友だちと同じようなおしゃれをしていないと不安だ、と言っている)、批判されるときがある。太平洋戦争のときでも、「大きい声の人」が誘導する方向へなだれ込んでしまった、といわれている。

 西欧人は自我が確立されていて、自分の意見がはっきりとイエスノーで言えるのに日本人は、組織や集団を気遣って自分の意見を持たない、と言われたりする。ぼくは外国に住んだことはないから西欧人みんなが確固たる自分の信念を持って日々を送っているかどうかはしらないが、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(日高六郎・訳、東京創元社)を読んでいると、個人として解放されていたはずのドイツ中間層がナチズムに傾倒していった経緯が語られている。

 中世の西欧は階級制によって経済的安定と精神的安定を得ていたが、近代化によってそれまでの階級的共同体から解放された。しかし、階級制的絆が保障してくれていた帰属性、安定性、他者との関わりが変化し、また、産業資本主義によって労働者は機械・道具と同じ、使用価値と同じではないか(このへんはマルクスの影響だとおもうが) 、という無力感や不安感、孤独感にとらわれるようになった。そのとき、古い「安定」の道に還ることができないかれらは外的な強い力と「共依存」する道を選んでしまった、というのがフロムの考察である。

 ナチズムは当時の「個人」として存在している人々の、強い力(ナチズム)に屈服し、弱い力の人々(ユダヤ人)を支配するという社会的性格に支持された、というのだ。(日本でも、明治時代の戸籍表記にその一端があらわれている)

 フロムの考察はすこし視点を変えると現在の日本にもあてはまるのではないだろうか。ぼくが子どものころ、昭和30年代はじめは父親の権威が支配的だった。それこそ、父親が右と言えば家族全員が右をむいた。その反動で、ぼくらの世代は息子や娘たちへの権威を反古にしている。いまの若い人たちは、父親という権威から自由になっている。その反面、バブル崩壊以降、日本の経済は不安定で経済的不況の真っ只中にある。派遣村に職を失った人たちが大挙押し寄せ、大学生は学校を出ても就職先がない。会社の業績次第で従業員は首を切られ、あるいは、ボーナスや給料をカットされ、先行きが見透せないが自分の力ではどうすることもできない、という無力感と不安にさいなまされている。ちょうどナチスが台頭してきた時代の雰囲気に似ているのではないだろうか。(ナチスの時代を知らないので断言できないが)

 

 話がすこしずれてしまった。「群れる」という話に戻ると、ぼくは群れたくない性格で、どちらかというと、人が「右」と言えば、屁理屈をこねて「左」と言いたい性格なのだが、群れる、というか、その場の雰囲気でなんとなく自分の気持ちは出さないでおこう、という場面があったりしたら、それはそれでことさらに自分の意見を主張する、ということはしない。それを群れるといわれれば、群れている、だろう。

 それらは日常生活のなかでおきることだが、それを許したがために自分にダメージが与えられる、というのなら話は別だが、そうでないのなら、「あなたにまかせる」ということになる。日常生活ではそう頻繁に「譲れない場面」が訪れることはない。

 高知の人間は議論好きだ、といわれているが、いままでの経験では、その議論も、そんなにたいした問題を論じているわけでもない。ただ、自分の意見を通そうとしているだけというつまらない、議論にもならない議論であることが多いから、ぼくにしてみたら「どうぞ、お好きに」ということになる。

 また、日本人には意見が分かれた場合には「その場を丸くおさめる」という特技がある。物事の側面は絶対的なものではなく相対的なものだから、両者の対立する意見を両方呑みこもうとする姿勢だ。

 また、喧嘩両成敗、というのもある。西欧人ならどちらに非があるか侃々諤々と議論を交わすところを日本人は、どちらが先に手を出したか出さなかった、かではなく、喧嘩そのものがいけないことだから、その喧嘩に手を出した両方が悪いのだ、という理屈が優先してのことだとおもう。抑止的効果を狙ったものだろう。しかし、西欧人から見たら正当防衛的に手を出した者まで罰せられることは納得できないのではないだろうか。

 

 そういう日本について丸山眞男は「よその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が伝統化したもの」と言っている。

 西欧文化に軸足を置く人の話を聞いていると、西欧人は自我の確立ができているが、日本人は自我の確立ができていない、ということを前提にして「だから日本は(日本人は)ダメなんだ」と言うのだが、ほんとうにダメなんだろうか。ここは逆の発想で、日本は変わり身の早さという文化で何千年も生きのびてきた。生き延びてきたには、それなりの利点があるのではないか。文化として継承するにたる利点があるのではないか、と考えてみたらどうだろう。

 「そんな考えでは西欧には通用しないぞ」と批判されれば、こう答えたらどうだろう。「通用する、通用しない、という幻想は、西欧の世界観が絶対唯一だという幻想を根拠にしているだけのことだ」と。反対に、日本の文化を基準にしたら、西欧人の考え方は通用しなくなる。ただそれだけのことなのだ。

 そう、西欧人から見て、日本人が自我の確立のできていない幼稚な人間でしかない、とおもわれても、それはそれで日本人が何千年にもわたって継承してきた文化、民族としての生き残り戦略、だと言えるだろう。レヴィ=ストロースふうに言うと、到達できるかどうかわからないまま求めた結果としてまだ得られていない自我、と言えるだろう。

 日本人の特長のひとつ、なにか事があると「右へ左へ右往左往」という性格も、長年の経験で勝ち取った日本人の処世術、すなわち文化、といっていいのだという確信がある。右往左往することで、決定的な「何事」かを物事の中心に置いて、そのことでそれから先、身動きがとれなくなってしまうことを回避しているのではないだろうか。「事」が沈静した後、ふたたびニュートラルな立場にだれもが立つことができる、というセーフティネットだとおもう。

 それに、世界中どこへ行っても、自我の確立された人間ばかりが溢れていたら、それこそ民族の多様性がなくなり、画一化された人間ばかりで、日本人とか西欧人とか、アフリカ人とかいう存在が不要になってくるではないか。

 西欧の文化の範疇に収まりきらないからと言って、日本の文化を否定するのは「全ての文化は優劣で比べるものではなく対等であり、ある社会の文化の洗練さはその外部の社会の尺度によって測ることはできない」を否定することになるのだ。レヴィ=ストロースはサルトルにそのことをはっきりと宣言して、サルトルの自文化中心主義を鋭く批判したのではないか。そのことと日本人の自我意識の無さは違うだろう、と反論されるかもしれないが、先に書いた理由で、ぼくにとっては同じことである。

 

 レヴィ=ストロースは構造主義の祖、と言われている。その構造主義も現在ではポスト構造主義の時代だ、とか言われているが、それほど構造主義的な視点が一般化している、ということでもあるだろう。

 構造主義とは、さきほどからくり返し書いてきているように、ぼくたちは自分で判断して行動している「自律的な主体」であるとおもっているけれど、ほんとうは、時代や地域で区分される社会的な集団の一員であり、その集団が培ってきたものの見方や、考え方に支配されていて、自分が思っているほどには自由に、主体的に物事を見ているわけではない。逆な言い方をすれば、ぼくたちは所属する集団が受けいれたものだけを見せられ、考えさせられているにすぎない。集団が排除したものについては考えるという対象にすらならない、というのが構造主義の立場である。

 たとえば、9・11のとき、アメリカ国民は、アメリカという限定された集団のなかで、アメリカは被害者であり「報復」という二文字を実行に移したのだが、空爆されたアフガニスタンの国民はその空襲を(あるいはアメリカを)どうおもっているのかという視点が欠如していた。

 そのむかし太平洋戦争のとき、日本はアジアの解放をうたって侵略していったが、ビルマやインドネシアが日本をどう見ているのかという視点を持つことはなかった。

 そういう考えは、87号のこの?で書いた奥谷禮子という人の「だれでも努力すれば同じ水準までいけることができるし、わたしはそうしてきた。わたしができたことをほかの人ができないのは努力が足りないからで、そういう人は社会から無視されてもしかたがない」という発言につながり、それは、機械文明の成果を武器に植民地政策を展開していった西欧列国の驕慢さにつながっているとおもう。未開地の人たちは努力しなかったから、努力して産業革命を成し遂げた西欧列国に略奪されてもしかたない存在だ、と。

 しかし、未開地の人たちは産業革命しなくても、木を擦り合わせれば火が熾るし、馬を利用すれば荷物の運搬ができる。食べ物はそのときどきで狩りをすればいい。そうやって生きてきた。そういう生き方を西欧文明は根こそぎ否定してしまった。

 それは、西欧列国は自分たちの社会に強制された視点(機械文明が人間社会の発展に役立つ)しか持つことができなくて、かれらの社会が最初から排除している未開地という集団の在り方(自分たちの生活は自分たちの身の回りで工夫する)については考えすらおよばなかった、ということだろう。

 構造主義とはそういうことを指摘する方法論で、そんなに難しいものではない。現在ではだれもが考え方の根本にしている思考方法ともいえるだろう。(もっとも、ラカンやバルトが難しくしたのだが)

 

 最後に、『野生の思考』のなかの「歴史と弁証法」の項からレヴィ=ストロースの短かい言葉を引用して、この項を終わりたい。

 「私の展望の中では、自我は他者に対立するものではないし、人間も世界に対立しない。人間を通じて学ばれた真理は『世界に属する』ものであり、またそれゆえにこそ重要なのである」

 

 

 福岡から出ている『季刊午前』という雑誌に吉貝甚蔵さんが「始点としての『四千の日と夜』」を書いている。田村隆一論である。

 そのなかで吉貝さんは「言葉は、『戦後』を生きるための始点を必要とした。その切っ先に、田村隆一がいた」と田村隆一の「幻を見る人」を中心に論じて、次のように書いている。

 「交換不可能な言葉を表現において求めるという行為は、そこでは言葉によって外在化される、自身の内在化した世界との一体化を求める行為であり、自身の内在化したものの絶対性を外部に働きかけようとする行為なのだ。ただし、当然、言葉化されて表出したものは、外在化した世界の視線にさらされることになる。(中略)田村隆一は、その第一詩集『四千の日と夜』において、世界を内在化することの必然を表現するという外在化をやってのけたのである。このことの意味と宿命を問うている。(中略)詩の創造自体が世界と詩人との関係を構造として持っていることを告げずに表現したのである。内在化した世界を、言葉によって、詩の世界に構築するという詩人の意味と宿命を明らかにしたのである。その言葉が人間と刺し違える鮮烈な一瞬を、言葉が世界を築きあげることによって、世界を消失させる緊迫の一瞬を詩にしたものが、有名な「四千の日と夜」である」

 吉貝さんは、戦後、田村隆一が「言葉が築く詩は、世界と対等につり合い、世界を詩の言葉で奪還し、詩を屹立させ」た試みを突き進んだ詩人として高く評価しているし、田村隆一の戦後の詩の始点を探りながら、吉貝さんの詩の始点が田村隆一にあったことを緩やかに告白している一編だった。田村隆一について語ったことは吉貝さん自身の詩作について語ったことでもある。

 

 ぼく自身、田村隆一と吉岡実は戦後詩人のなかでもついつい読んでしまった詩人であり、吉貝さんの田村隆一論に懐かしさがともなって『四千の日と夜』を本箱からとりだしてみた。

 吉貝さんに倣って「幻を見る人」を読んでみると、形容詞も副詞もない世界で、田村隆一の論理性を持った言葉のむこうに景色が見えてきた。この景色は、実景としての景色と田村隆一の心象風景としての景色、であることはだれの目にも明らかだが、田村隆一の内部にたたみ込まれている意識が、言葉でたどっていく意味性と、それを補完していく画、という構成に、その断念性に、その屹立性に、その見切りのよさに、目がくらむようだったが、それは吉貝さんが指摘したように「世界を内在化することの必然を表現するという外在化をやってのけた」成果だとおもう。

 戦争という体験で揺らいでしまった田村隆一は自身の実在を、言葉と画の両側面から再構築できないかと願っているようにもおもえる。だから、田村隆一の論理性は倫理性と言い換えてもいいかもしれない。

 形容詞と副詞を排した方法は、世界の背骨のみを配置した、という田村隆一の自負を感じて、こういう堂々とした詩を書く田村隆一に魅かれた記憶がある。

 第三連を引用する。

 

  空は

  われわれの時代の漂流物でいっぱいだ

  一羽の小鳥でさえ

  暗黒の巣にかえってゆくためには

  われわれのにがい心を通らねばならない

 

 いまは破壊的な時代で、生存の根本を知るには詩人の屈折した誠実さを経るしかない、と死と喪失の暗渠の時代にも「一羽の小鳥」という希望を設定している田村隆一の敢然さがあらわれた五行である。(そうなんだ、その小鳥は、存在することだけで、世界に()を用意させ、高さ(、、)を用意させる小鳥なんだ)(傍点はダイケ)

 言葉で世界を語りながら、語られた言葉によって詩人の存在も問われている。

 この作品は、

 

  わたしの渇きは正午のなかにある

 

 という一行で終わる。「正午」とはあの日の正午であり、あの日を境に田村隆一は自らの実在と空白を問いつづける人になる。ぼくが若いころ田村隆一に感じていたものは、痛いほどの自虐性と意志性だった、と遠い記憶を呼び起こしているが、それはこの一行に凝縮されている、と言っていい、と、いま再読して、そうおもう。

 田村隆一は自らの言葉は(かれが志向する)本来性の場所にきちっと当て嵌めてその場所以外に転移するのを許さない、というような言語の造形性が顕著で、若いころはその言葉の絶対性、というか、直立性を模倣したいと願ったこともあったが。(とうぜん模倣などできるはずもなかったが)

 

 言葉の絶対性、直立性を感じた田村隆一の言葉に比べて、海埜今日子さんの詩は、言葉の造形は変化しつづけることでしか内実を持たない、と言っているようだ。新年早々いただいた詩集『セボネキコウ』(砂子屋書房)を読みながらそのおもいを強くした。「せきゆすい」から前半部分を転載する。

 

いつからか流木が棲みついていた。骨だったかもしれない、ごつごつとした、それはことばだったかもしれない、かたい生がたゆたい、耳もとにつめたいひびきで、しろい話をよぎらせてくるのだった。よどみ、すくいあげた気持ちをまさぐっている、石油をこぼした水は、違和をごつごつとあたえながら、虹の膜を、たとえばあざやかな野原を、けっして川なんかない、ひしゃげた空き地をつたえてくるのだった。根っこによりそう、摘んでいる、ハルジオン、ハキダメグサ、捨てさった液体のきゃしゃな音、それはだれのさいはてだったのだろう、くるしい関係をそそぎ、七色を拒否としてちらし、脈にどくどくとした思い、その分、ますますみがかれた木肌なのでたどれなくなる。最後に肯定の泡をぷつぷつとうかべ、なにかがおぼれ、語ることを後もどりして。シーツにこぼれた夜の見せる、ウスバカゲロウが浮かぶ溜まりでした、川なんかないはずなのに、アレチノギク、ヒメジオン、とざした付近で草の粘土を吸収する、まぶたからのがれてしまう小さな花を、たまった影がむしっている、ぬめりをあがなう流木の眠りは、なつかしげにおぞましく、ゆだねるようにもがき、きれいさのなかで入水させたがっているようだった。(後略)

 

 海埜さんの作品を読んでいると、「同じ著者のテキストのなかに、なんらかの絶対的な真理を構築しようとする傾向と、その絶対的な真理を解体しようとする傾向、の二つを同時に読みとっていく」というジャック=デリダの脱構築という方法のことを思いだしたので、デリダの方法を借りて海埜さんの詩について考えたことをすこし書きたい。

 海埜さんによって書かれた言葉は海埜さんによって「これしかない」というタイミングと選択で原稿用紙(たぶん)に定着されるが、書き終えたあと定着するはずの言葉がどうしても定着しない、という奇妙な感覚を受けとっているのではないだろうか、というようなことをまずおもった。

 形式と内容が海埜さんのなかでどうしても一致せず、そうこうしているうちに、海埜さんの思惑よりもすばやく言葉たちは、それぞれの殻を脱皮して意味や接続をそれまでの時間と空間から相転移し、それまでとは違う文脈で息づきはじめる、という言葉の乖離性が顕著にみられる。言ってみれば、言葉を書いている海埜さんと、変化している言葉を見ている海埜さんが同時に存在することで海埜さんの作品は成立している、と言ってもいいとおもう。

 海埜さんの詩を書くという行為は、海埜さんが向き合っている言葉、あるいは、言葉が向き合っている海埜さん、その関係をニュートラルに保ちたい、ニュートラルに保つことで、自分と言葉、それは他者といってもいいのだが、その関係を、形式と内容、内容と形式、という循環空間をくり返すことで、その間に矛盾を見つけ、その矛盾を言葉と海埜さんが共に補完し合っていく存在でありたい、と願っているのではないか、とかってに考えているのだが。

 だから、海埜さんの作品のなかでは、言葉は、本来使われるべき文脈を逸脱することで多様な意味を持ちはじめるという幸福さを体現している、とぼくにはおもわれる。

 

 一方、言葉が逸脱することなく作者の心情と事実を正鵠裏に辿っていくという、海埜さんの詩とは在り方を異にしている詩の書き手に山内理恵子さんがいる。

 山内さんの詩集『青い太陽』(土曜美術社出版)から「おちた鏡」を転載する。

 

  また壁からおちたのか

  床でぐらぐら音をたてる鏡は

  あおむいたまま

  ゆらめく窓枠ごと月を映している

 

  鏡よ

  こんな夜には目をあけたまま眠ろう

 

  抱きとめようとして

  指のあいだをすりぬけた意識の影は

  ガラスの水面に立ち上りはじめた

  セロファンの街から走り去る

  かかとから

  ほつれかけた心を

  さかしまにうつしこんだ街燈にぶつけながら

 

  回転する鏡の水面から

  銀色のしぶきをあげて

  はじきだされる月よ

  思いとはうらはらに

  たぶん今夜も

  何ひとつ残さず消え去りたいと

  念じた人々が

  ここから旅だったろうに

 

  夜よ

  おまえのもうひとつの水面に

  顔はうつらない

  すでに乾いたはがねの枠の泉の底に

  ふたたび水がみたされることもない

  

 だれでも表現にかかわる人は、自分の言語感覚を信じて、自分なりの言葉の美醜、あるいは好悪、実不実、絶望希望、光闇、を基準にフィルターをかけ、そこで濾過された言葉を優先的に使っているとおもうが、山内さんの詩集を読みながらおもったことは、山内さんのフィルターはきめが細かいのか、濾過された言葉は純粋度が高く、詩に正直さと冷静さを与えていて、言葉が次の段階に転移しようとする姿、脱皮を試みようとする姿、ふらちな男に身を委ねようとする姿、を押しとどめているのではないか、とおもってしまった。

 もしかしたら、濾過されなかった言葉を選び取ることで言葉が身の丈以上の鮮烈さを帯び、作者の冷静な思慮さを駆逐し、作者の予期しなかった現場にたどり着くことができたかもしれなかったのでは、と山内さんの着地点を考慮しない、読者としての勝手な思いがよぎってしまった。

 山内さんの詩は丁寧に自分の言葉で自分の存在をつむいでいる、あるいは、他者(人と物と)との関係を正確にはかっている、それらのことがとても印象的で、山内さんの言葉がゆるぎなく伝わってくるのを感じたのだが、その一方で、そのゆるぎなさのむこうにある山内さんの無意識の感性が顕在化する瞬間を見てみたいともおもったりした。

 言葉はもっと身勝手な存在であることに魅力があるのだから。

 

 

 弘井さんからのメールに、「今日のブラタモリは神田の古本街です」という一行があった。

 『ブラタモリ』というのはNHKの番組で、タモリというTV芸人が、NHKの女性アナウンサーと、その土地に詳しいゲストの三人で、東京の街中をブラブラと歩いて、その土地に関するウンチクを垂れるだけの番組だが、これがおもしろい。ぼくがウンチクを垂れると嫌みに聞こえるが、タモリのウンチクは嫌みに聞こえない。もともとタモリという芸人が好きだからかもしれないが、かれのウンチクは「芸」になっているような気がする。

 タモリを初めて知ったのはもう何十年もむかしで、深夜にやっていた『タモリ倶楽部』というTV番組だった(いまもやっているかどうかはしらないが)。その番組はオープニングで、女性のスカートの中にタモリが顔を突っ込む、というもので、毎回毎回女性のスカートの中に顔を突っ込むタモリの姿がオープニングで映し出された。そのときからTVとはこのようにばかばかしいものですよ、ということを体現しているタモリという人に関心を持った。

 実際、TVは自主規制(政治的、人権的、性的等)というマゾヒズムを持ち込むことによってばかばかしさのスパイラルから抜け出すことができなくなっている。

 かれはばかばかしいことを平然とばかばかしくやっている。すこし有名になってくると、「芸人」と「素」の自分とのアイデンティティに整合性をつけるために知識人ぶったり、人生の教師面する芸人がいるのだが、タモリはひたすらTVのばかばかしさの上に自分を置いている。自分はこのばかばかしさでメシを食わせてもらっているんだ、という臆面の無さをきっちりと呑みこんで仕事をしている。(と、ぼくにはおもえる)

 最近は本名の森田一義でTV出演していて、鉄道や坂道や古地図のウンチクを披瀝しているのだが、その好奇心と視点のずらし方は一種独特のものがある。

 今回(1月28日)は神田の古本街をブラタモリだった。ゲストはロバート・キャンベルという江戸から明治の文学が専門の東京大学の教授。古書店で江戸時代の古地図を広げたりして、ふたりのウンチクが交叉したが、古書店街を歩く時間は三分の一ぐらいだったので残念だった。

 

 古本といえば、ネットの普及のお陰で、全国の古書店を検索できてとても便利になった。

 以前は高知にも何軒か古本屋があったが、現在はほとんど全滅で、それにかわって、ブックオフとか未来書房とかいう毒にも薬にもならない全国チェーン店が大きな看板を掲げている。

 本誌の執筆者だった、故片岡千歳さんも『古書店タンポポ』を営んでいた。ぼくが中学生のときに、ご主人の幹雄さんと立ちあげた店だ。そのころからの付き合いだった。

 しかし、高知に住んでいると、自分の欲しい古本はなかなか手にはいらなかった。幹雄さんはよく「いまの若い者は古本を買わん」とぶつぶつぶつぶつ嘆いていたが、ぼくに限っていえば、買いたい本が高知の古本屋の店頭にはなかった。それがいまではクリックひとつで日本中の古本屋の在庫を一覧できる。買う買わないは別に、これは楽しい時間だ。(本の質量が実感できないのが残念だが、そう贅沢も言えないだろう。それにしても最近話題の電子ブック、論外である)

 何ヶ月か前、ある古本を探していると何軒かの店に在庫があったので、たまたま一軒の古本屋に注文した。代金を振り込むとその住所に見覚えがあったので確かめてみると、店主の名前で本誌を送っていた。どういういきさつで送るようになったのかは忘れたが、たぶん当工房の出版物を買ってくれたのを機に送っているような気がする。

 その古書店・副羊羹書店には「店日記」というのがあってこれがおもしろい。先日も「性懲りもなく詩集を落札してしまった。もっと売れるものを落札しないと」という書き込みがあって、妙に納得した。

 その店のロゴマークは皿の上の羊羹である(羊羹はぼくの大好物)。「副羊羹」とはそのむかし、舶来の「本」を羊羹と間違えたという話から「本」の隠語になったそうだ。

 ちなみに、ふたば工房のロゴマークは版画家の日和?尊夫さん(故人)に作ってもらった。「金はいらんき、酒飲ませてくれ」ということでふたつ作ってくれた。もう30年ぐらいむかしのことである。

 ネットは便利は便利だが、未払いという問題が起きている。店舗でいったら万引きだろう。副羊羹書店も日記を読んでいると、未払い者がいて困っている書き込みがある。確信犯的な未払い常習者がいるという。ネットの古書店には店によって先払いと後払いがあり、副羊羹書店は後払いなのだが、「先払いにすればいいだろうが、それではお客に面倒がられて客離れをおこす」と踏み切れない心情が日記に綴られている。

 ぼくも自費出版の仕事をしていて、ときどき当工房で発行した本の注文を受ける。ぼくのようなちいさなところでも支払ってくれない人がいる(まあ、大きいちいさいは関係ないか)。

 昨年12月、ある詩集を買ってくれた人が未払いのままだ。二度督促を出したが返事もない。埼玉だから集金に行くこともできない。いままでの経験では、もう払ってもらえないだろう。裁判所を通じて支払督促申立をする方法もあるそうだが、なんだかそれも面倒で、結局泣き寝入りをしている。今回もたぶん泣き寝入りになるだろうな、とおもっている。しかし、そうかといって、注文してきてくれた人に「先に金を払ってくれ」とは言いたくない。なにしろぼくのような古い人間には、本の好きな人に悪い人はいない、という幻想があるのだから。今日も、東京から日原さんの『夏の森を抜けて』、福島市から萱野さんの『五丁目電停 雨花』の注文があった。いそいそと荷造りをしている。

 

 

 1月17日夜、浅川マキが名古屋のホテルで急性心不全で亡くなった。一ファンとしては「まだ67歳なのに」という思い。「寺山修司」や「アングラ」が社会の背骨だった時代の同世代人である。

 

 1月27日、サリンジャーが91歳で死去。

 晩年、オクタビオ・バスの翻訳に力をいれていた詩人の真辺博章さん(故人)が(そのむかし真辺さんはぼくの通っていた高校で英語を教えていたのだが)「大家、サリンジャーを読め、サリンジャーを読め、サリンジャーを読め」とうるさかったのをなつかしく思いだした。サリンジャーも真辺さん同様気むずかしい性格の人だったようだ。