昨年6月、なつかしい名前を新聞で目にした。

 戦後すぐに生まれたぼくらは「団塊の世代」とひとくくりに語られる世代で、個性よりもひとかたまりの集団として語られることが多いのだが、まあその集団性を考えればしかたのないことかもしれない。しかし「団塊の世代」とは荒っぽい括り方だといつもおもっている。

 中学校は私立校に通ったこともあり、(経営上のこともあってだろうが)一クラス70人ぐらい詰め込まれた。3年間クラス替えはなかったのだが、70人ちかくいればほとんど口をきいたことのない同級生が何人かはいた。もう遠い昔のことで、ほんとうはどうだったのかは忘れているのだが、A君はもの静かな性格で、クラスの中には目立たない地味な性格の子がいるのだが、A君はそんなふうなひとりだった。

 再婚2ヶ月目の中国人妻を刺殺した、としてそのA君の名前が新聞に載った。

 45年ぶりに聞く名前だったが、すぐにA君だとわかった。

 事件の概要はこうだ。

 妻を癌で失ったA君は中学校の教師を退職した後、結婚相談所の紹介で中国人妻と結婚したが、妻の求めるままに2200万円を渡し、購入したマンションも妻名義にしたにもかかわらず、通帳やカードも妻に管理され、結婚の条件に入っていた長男との同居も破棄され、経済的にも精神的にも追いつめられ無理心中をしようとしたが、自分は死にきれなかった、というものだ。

 弁護側は、中国人妻の金銭への執着を強調し、第二の人生を幸せにすごそうと思っていたのに心中にまで追い込められた、と主張し、検察側は、妻はA君以外に身寄りがなく、A君がいなくなれば金銭に頼るしかない状況だった、と主張した。

 3月1、2、3日と裁判があり、「被害者は1千万円を超える大金を要求したり、生活費や預金の管理を主張するなど、金銭への執着が透けて見える。被告人と前妻との長男に対する態度も当初は良好だったが、その後は、長男に食事を与えず、引っ越し先の住所を教えないなど厳しすぎる。被告人が不満を抱いたのには相応の事情が認められる。しかし、不満を抱くに至った原因は、被害者の態度だけによるものではない。被告人は妻である被害者に十分意見を述べず、長男の就職活動がうまくいかなかった事情も説明していないなど、自身の態度にも問題があった。夫婦間で十分なコミュニケーションが図られなかったことが原因で、その責任は夫婦双方が負うべきである(判決要旨)」として、A君に懲役10年が言い渡された。

 

 岸田秀は『精神分裂病』(『ものぐさ精神分析』・中央公論)のなかで、「そもそも二人の人間のあいだに関係が成立し得るのは、二人がおのおのの私的幻想を共同化して共同幻想を築き、それをあたかも現実であるかのごとくたがいに演じ合うことによってである」と言っている。

 たった2ヶ月しか一緒に暮らさなかったA君夫妻はその共同幻想を構築する間もなく、あるいは、現実を演じることさえなく崩壊してしまった。

 奥さんを癌でなくして、退職したA君は老後の寂しさと不安を誰かと共有したいと考えたのだろう。60歳になった男が、誰か他人と老後の孤独を共有したいと考えたとき、文化の違う女性を選ぶことが適切だったかどうか、それも、知己ではなく、結婚相談所を通じての選択が適切であったかどうか、それはA君が決めたことだから、ぼくのような他人が事件を聞いて、ああでもないこうでもない、と言うことでもないし、退職したA君が退職金を所持していなかったらこの結婚が成立していたかどうか、などと憶測してもしかたがないとはおもうのだが、ぼくなら、文化も生活基盤も異なる42歳の中国人女性に老後の孤独を共に生きてほしいなどとは願わないだろう。

 いや、老後だけでなく、人間は生まれてからずっと孤独だとおもっているから、あらためて老後の孤独だけを特別視することはないとおもっている。新聞などで、「独居老人の孤独死」といかにも孤独に死んでいく老人を哀れんだ見出しを見ることがあるが、人はそれぞれだろう。孤独で死んでいきたくない老人もいれば、孤独に死んでいってもいい、とおもっている老人もいるだろう。マスコミのやり方は、近所の人にマイクを向け、「ちょっと変わった人でしたからねえ」とか、「近所づきあいをしない人でしたからねえ」と紋切り型の答を引き出しているのが常だが、それで、なにを主張したいのかよくわからない。

 

 しかし、多くの老人は孤独であることから逃れたいとおもっているようだ。偉そうなことを言っているぼくだって「ひとりはさみしい」と泣き言をいれるときがくるかもしれないし、その恐怖で死んでしまうかもしれない孤独(どんなものかは想像がつかないが)に襲われるときがくるかもしれないが、とおもわないでもないが、いまのところ孤独はそんなに怖くはない。

 まあ、それはそれとして、A君は老後の孤独を回避したいと考えたのだろう。そして、幻想を抱いたのだろう。この女性とは老後の孤独を共有できると。いや、共有したいと、願ったのだろう。その根拠はA君でないと説明のつかないことだろうが、言われるままに金を出し、マンションも女性名義にし、就職もできず気にかかっている長男とも別れ、それでも、A君はこの女性と老後を共生していこうと、自分の心に言い聞かせながらの新婚生活だったのだろう。

 夫婦になったのだからちゃんと話し合っていればこんなことにはならなかった、という意見もあるだろうが、相手とちゃんと向かえあえる人と向かえあえない人がいる。A君は向かえあえない人だったのだろう。

 A君は公判で、マンションを妻名義にしたことや、自分の保険を解約されたことについて、「納得はしていないが、弱い部分があり、なされるままになった」と述べ、「離婚すれば無一文で放り出され、子どもにも財産を残せないと思い詰めた」 と殺害に至った心情を述べていた。(もっとも妻には妻の言い分があるのだろうが、妻は何も語れない)

 

 こういうことが言えるだろうか。

 中国人妻は夫婦関係を「物のレベル」に求め、A君は夫婦関係を「意味のレベル」に求めた、のだと。

 もうすこし岸田秀の言葉を引くなら、

 「パンがコメの代わりになり得るのは両者とも同じく食料であるからであるのと同じように、(私的)幻想も(疑似)現実も、共同化されていないかいるかの違いはあれ、同じく幻想であるからこそ、そのようなことが可能なのであって、もし、われわれにとって幻想があくまで幻想であり、現実が種も仕掛けもない本物の現実であれば、バラの花がコメの代わりにならないように幻想をもって現実を超えることはできないはずである。」(『現実と超現実』)

 と、いうことになるのだろうか。

 中国人女性と老後を生きていく根拠を自分の心に言い聞かせながらの生活も、一日一日と経つごとに揺らぎはじめる。「自分の人生はこれでよかったのか」ではなく、「これからの老後」が急に不安になる。それは自分の行為の正当性を疑うことに?がってくる。

 岸田秀は人間の行動について、実体論的見方と反応論的見方という根本的に対立する異なった二つの見方を示している。(『一人称の心理学─レインの主観的精神病理論』)

 若干誤読しながらA君夫妻について考えるとこうなるのではないだろうか。

 中国人妻は、身寄りのない異国での生活の不安のためにA君が死んだのちも生活に不安のないような用心深さで、家庭の経済をA君に渡すまいとした。それはマンションを自分名義にし、夫の退職金を手中にし、日々の小遣いまで制限するといったその態度はA君にしてみれば、普通以上に攻撃的な欲望であり(実体論的見方)、A君の行為は相手の攻撃に対するやむを得ざる正統な反撃または防衛である(反応論的見方)、と。

 あるいは、こうとも言えるかもしれない。

 イメージをできるだけ現実に近づけようとした中国人妻と、現実をできるだけイメージに近づけようとしたA君。イメージと現実の隔たりを埋め合わすこともなく、あるいは、演じきることもなく、あるいは、その錯誤に一定の意味を付与することもなく、事件が起こった。

 A君は裁判で、事件を後悔している、と言ったらしいが、人間に後悔しない生き方なんてあるのだろうか。

 それにしても哀しく寂しくやりきれない事件だった。

 

 老人の孤独を食い物にしている犯罪がある。催眠商法やオレオレ詐欺である。

 7、8年前、ぼくの借りている事務所の二軒隣に催眠商法がやってきた。老人たちが窓を目隠しした事務所の中に吸い込まれ、何時間か経つとナベやヤカンを自転車に積んで帰っていく光景が数日つづいた。楽しそうに談笑しているグループや、無言でナベを抱えている老人など様々だった。

 老人たちの中にもしたたかな人たちがいて、貰うものは貰って高額な商品は絶対に買わない人もいるらしいが、催眠商法とはミミズでクロマグロを釣る商法である。

 ある日、事務所の前を通りかかると、背の高くハンサムな販売員がひとりの老女と話していた。

 「そうかあ、おばあちゃん、それは辛かったね。でも、悪いことばかりはないから、これからいいことがたくさんあるから」

 老女は若い販売員の手を握って何度も何度も頷いていた。たぶん、老女はいままで自分の息子の手をこんなに感謝と信頼の感情で握ったことがないのかもしれない、とおもってその光景を見ていた。

 そして、この老女は高額な商品を買ってしまうのだ。

 

 オレオレ詐欺も老人の孤独を食い物にしている。

 これはTVの報道番組でやっていたのだが、家を出て音信不通だった息子から10数年ぶりに電話がかかってきた。息子の行方を案じていた母親は電話がかかってきたことに喜び、それと同時に、事業に失敗してどうしても金が要る、という息子の窮地に驚き慌てふためいて銀行へ走った。銀行の窓口で、オレオレ詐欺ではないか、と行員に言われたが、音信不通だった息子が自分を頼って電話をかけてきた、と思い込んでいる老女には赤の他人の行員の説得なんか受けつけるはずもなかった、という話だ。

 「冷静に判断しましょう」といったような詐欺に引っかからないための標語を見かけたりするが、音信不通だった息子が自分を頼ってきた、と思い込んでしまった老女に冷静さを求めるのは酷だとおもう。老女は10何年もの間、息子の行方を案じながら孤独に暮らしていたのだ。

 

 人間は他の生物と違って、生殖(社会の再生産)を終えた後も長く生存している。60歳を過ぎれば、仕事という経済的生産からも離脱してしまう(再雇用や再就職という手もあるが)。それに、前近代的社会ならあったであろう長老的役割、薬草の知識や呪術的行為での社会への参加などは今の社会では笑止千万だし、祭りなどの遊戯的行事への参加も祭りの廃止などによって少なくなっている。そんなふうに考えてみると今の老人はフーコーの言葉を借りるなら(『狂気の歴史』)「大いなる囲い込みの時代」のただ中に置かれているのかもしれない、とおもったりする。

 老人は長年の知恵の蓄積のお陰で、社会の規範を受容する存在である、と見なされることで老人は社会から抑圧を受けている存在であり、社会の規範は自分たちが老人だと定義づけた存在を抑圧することで、社会の仕組みを維持しようと試みている、と考えるのはぼくの僻目だろうか。

 それとも単純に、高度成長期に核家族を志向したツケがまわってきている、と言ってしまったほうがいいのだろうか。

 

 これから先、霊感商法もオレオレ詐欺も減らないだろうし、有効な防御策もないだろう。人間一人ひとりの善意と、人間一人ひとりの悪意が辿り着く先はどんな社会なんだろう。

 

 

 神尾和寿さんから詩集『地上のメニュー』(砂子屋書房)を戴いた。

 神尾さんの詩の特長は、神尾さんによって書かれた不条理な物語が、この時代の現実の困惑さと混沌さに憑依している姿をそっと差し出しているところにある。けっして大仰な姿勢は示さない。どこまでいっても不条理で不可解である物語が言葉という存在感だけを借りて語られているにすぎない。「空席」という詩もその特長をうまく担っている。

 会場では、ひとつある空席のためにここで行われるべき何かが延期されている。非常識なほどまでに延期されている。しかし、この空席は、会場が用意したものではなく、会場にいる個々によって「生まれた」ものである。そのことを理解し得ないかぎり何もはじまらない。

 「空席」全篇を転載する。神尾さんの詩を楽しんでください。

 

  会場は満員とおもいきや

  目を凝らせば 空席がひとつ。

 

  ちょうど真ん中ほどに

  誰のためにでもない 椅子だけがぽかんと浮かんでいて。空席がひとつ

 

  ということについて

  椅子に乗っかっている誰も 話題にしない。誰も

  

  気づいていないのかも。気づいていても

  気づいていないふりをしているのかも。気づいていても

  話題にする必要なんかまったくないよと 実は

  無言で叫んでいるのかも。

  さすれば いったい

 

  話題にするに足る事柄とは 何か

  ということについて

  ついつい考えてしまう 今日この頃であるが。考えてみれば

  今日 それなりの用事を後回しにしてこの会場にやってきた この私も

  或る種の話題に惹かれて

  この椅子に乗っかっているはずなのだが。そして その話題は

  まだ耳にしてはいないのだが。

  もう予定開始時間は非常識なほどまでに過ぎているのだが

 

  ということについても

  誰も 話題にしない。目を閉じれば

  空席はひとつ。きっと

  どこまでも。