4月27日、県立美術館ホールで『懺悔』(テンギズ・アブラゼ監督、グルジア、1984年)の上映会があった。見に行きたかったが所用があって行けなかったので、ツタヤでDVDを借りてきた。ついでに『愛を読むひと』、『カティンの森』も。

 1986年から1987年のペレストロイカ(改革)とグラースノスチ(言論自由)時に公開された『懺悔』はグルジア生まれのスターリンと彼のおこなった粛清を告発しているとして、爆発的な観客動員を記録したという。(ソビエト連邦は1991年にゴルバチョフの辞任で崩壊する) 

 共産独裁主義も、教会至上主義も経験したことがないぼくはいつもこの手の映画を見るたびに徒労感を感じてしまうのだが、今回はそんなこともなく、まったく堂々たる映画だった。

 1930年代、独裁者だった市長ヴァルラム・アラヴィゼ(アラヴィゼはグルジア語で「誰でもない」の意味だそうである)の死から映画ははじまる。しかし、埋葬された屍体が何度も掘り出され、晒される。犯人は父母が彼によって粛清されたケラヴィンという女性で、いたましい粛清の記憶を屍体とともに葬り去ってはいけない、というメッセージとともに、屍体を冒?したケラヴィンの裁判がはじまり、ヴァルラム・アラヴィゼという独裁者の姿があぶり出される、という筋立てだ。

 さきほど、堂々たる映画だったと書いたが、それは、このヴァルラム・アラヴィゼを演じたアフタンディル・マハラゼの怪演がこの映画の堂々たる部分を担っていた。

 ヒットラーを連想させるちょび髭で、ところかまわず朗々とオペラを熱唱する姿は圧倒的である。屍体から生き返ってダンスを踊ったりと、自由奔放な存在感を見せつけるのだが、自由や信仰を持ち出し、正統的な正義を口にするだけの市民など彼の存在感の前では虫けらみたいなもので、そのことはこの映画の重要な部分で、もうひとつ、市長の命令を実行する役人というのが、中世の甲冑を身にまとった騎士のいでたちであるというのも重要な設定だ。その甲冑姿が現実感をなくす(ただの共産独裁主義の履行ということだけではなく)と同時に、過去から現在、あるいは、未来につづく独裁者の有無をも言わせぬ専制政治を履行している姿として、異様さと同時に存在感を観客に見せつけるには十分な方法論だ、と感心した。(もっとも甲冑は弓矢には有効かもしれないが、言論にたいしてはなんの防御にもなりえない。このことは大事である)

 人々は静かに画面から退場する。なんの理由でどこに捕らえられているのかわからないまま、そのうち生死もわからなくなって、人々は静かに退場する。恐怖は、ある日急に誰かがいなくなることと、無言で人々を連れ去る中世の甲冑の騎士の存在が象徴している。

 ケラヴィンの父親はキリストの風貌に似せられた人物として登場しているが、市長ヴァルラムに教会の修復を願い出たことで、なんの前触れもなく姿を消してしまう。ケラヴィンの母親もまた、である。

 映画は退場した人々の姿を描かない。人々が退場したことだけを描いている。強制収容所に送られたことを知らせるのは山奥から川を伝わって流れてくる彼らが切り出した材木に自分の名を刻むことによってのみである。家族はその名を読みとり、かれらの運命を知ることになる。

 ストーリーは単純だ。独裁者を賛美するかのように「歓喜の歌」を歌う女がいたり、また、密告したことを自己弁護する男がいたり、独裁者のご機嫌とりに罪のない者を大量に逮捕したりする男がいたり、と、独裁者の支配する町で生き延びる手練手管が描かれてはいるが、深刻に共産独裁主義を告発しているといった態のものではなく、独裁と粛清を対称化しているというべきかもしれないが、屍体が生き返ってダンスを踊るといったふうな不条理を取り込んだりして、独裁者を戯画化(それは対称化にも?がるのだが)することで、独裁者に呑み込まれていった市民の希薄な存在を逆にあぶりだしている、と感じたのはぼくだけだろうか。

 とにもかくにも、独裁者を演じたアフタンディル・マハラゼという俳優の存在感が映画を圧倒してしまっていて、そういう独裁者が死んだ後では、すでに壊されている教会を訪ねてきた巡礼が出てくるラストシーンなど、陳腐としかいいようがなかった。すでに教会はない、と聞かされた巡礼は言うのだが。

「教会につながらない道などあっていいはずがない」

 それにしてもこの映画、だれが「懺悔」しているというのだろう。

 

 『愛を読むひと』(スティーブン・ダルドリー監督、アメリカ・ドイツ、2008年)は、最初から最後まで馴染めなかった一本だった。

 猩紅熱で倒れかけていた15歳の少年ミヒャエルは、介護してくれた21歳年上のハンナ・シュミットという女性と関係を持つようになり、ハンナの要請で、彼女に小説や詩を朗読するようになる、というのが映画の書き出しだが、ミヒャエルを演じた役者の体がどうしても「15歳の坊や」には見えなくて(15歳の少年が裸になるわけにもいかなかっただろうが)、それに、舞台はドイツなのに話している言葉が英語で、映画の出だしから「嘘っぽさ」を感じてしまって、一度それを感じたら映画そのものが?っぽく感じてしまってどうしようもなく見てしまった一本だった。

 3部構成で、1部は、15歳の少年が36歳の女性ハンナに朗読をする見返りにセックスを得る話で(少年は「愛」だといっていたが)、ハンナは市電の車掌で、成績も良く、あるとき、車掌から事務職へ昇任されるという話があり、翌日ハンナは姿を消す。最初に種明かしをしておくと、ハンナは文盲で事務職になるとその文盲がわかるので町から姿を消すのだが、少年は「捨てられた」とおもいつづけてしまう。

 2部は少年が大学生になり(同じ俳優が演じているので、嘘っぽさはどうしても消えなかった)法科を選択し、ゼミで、ナチスの戦犯の裁判を傍聴しに出かけて、そこでハンナと再会する。

 ハンナは、強制収容所の看守をしていて、他の看守たちと一緒に告発されていたのだ。そこでもハンナは文盲であることをひた隠しにして、自分に不利な証言をすべて認めて、他の看守以上に重たい罪を受けてしまう。(看守になったのも文盲であることを隠して生きていくためだったのだが)

 文盲であることを前面に押し出すことでホロコーストの悲劇を薄めるのか、という批判もあったらしいが、裁判のシーンでハンナが裁判官に率直に問いかけるシーンがこの映画では唯一印象深かった。

 ハンナは小さな収容所で看守をしていて、その収容所に送られてくる囚人と同じ数だけアウシュビッツに送っていたことを指摘され、アウシュビッツへ送られれば囚人たちを死なせることがわからなかったのか、と問う裁判官に「あなただったらなにをしたのか?」と反対に問いかける。収容所は満員で10人の囚人が送られてきたら10人の囚人をよその収容所に送らなければならないのだから、というハンナに裁判官は「この世には関わり合いになっていけない事柄がある」と苦しい意見を述べるのだが、看守として仕事に忠実なハンナにとってそういう言いぐさが有効なわけはない。

 また、囚人を移動させているとき、米軍の空襲を受け、教会に鍵をかけて収容していた囚人が焼け死んでしまったことについてもハンナは糾弾を受けるが、彼女の答は、鍵をあけて囚人をみすみす見逃すことはできなかった、わたしたちには責任があったのだ、と語り、またしても裁判官に「あなただったらどうしたか?」と問いかける。今度は裁判官は頭を振るだけでなにも答えない、というふうに、ハンナは戦争中ドイツに生きた一市民の姿を代表している。

 

 この映画には原作本があり(ベルンハルト・シュリンクという人の『朗読者』という本で新潮文庫にある)、原作本のほうが噛みごたえがあるが、まあ、小説と映画は別物だから、見比べてもしかたがないが、原作本のなかではそのあたりが主要なテーマのひとつになっていた。(映画は映像だから、どうしても36歳の女性と15歳の少年の性愛のシーンが印象深くなってしまうのにたいして、裁判のシーンは語りだけで処理されていたので、印象も薄くなったとおもう)

 原作本を読むと、ミヒャエルたち戦後生まれの青年たちにとっては、「親を責めることができない子どもや責めたくない子どもたちにとっても、ナチの過去というのは一つのテーマだった」と認識していて、「集団罪責というものが道徳的・法律的にどのような意味を持つにせよ、そのころ学生だったぼくたちの世代にとっては体験を伴う現実だった」「ぼくたち後から来た世代の人間は、ユダヤ人絶滅計画にまつわる恐ろしい情報を前に、実際何を始めるべきなのだろう?」「ぼくたちは過去の遺産によって形作られ、それとともに生きなければならない」と困惑さとともに生きているのだが、そういう問いから逃れるようにミヒャエルは、現在にとってあまり意味のない過去の出来事の問題に没頭することに決め、法史学の職につくことを選択する。

 

 ハンナ・アーレント(1906年?1975年)というユダヤ人思想家がいた。ハイデガーの愛人だったが、ハイデガーがナチスに入党後、パリ、アメリカと亡命して、アメリカでジャーナリストをしていたとき、ホロコーストの中心人物だったアドルフ・アイヒマンがアルゼンチンで逮捕されるというできごとがおこり、ハンナ・アーレントはジャーナリストとして、1961年イスラエルでアイヒマンが死刑になる裁判を傍聴する。(『イェルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』(みすず書房))

 ハンナ・アーレントはなかなか率直な人物だったようで、ナチスということだけでアルゼンチンの主権を侵してアイヒマンをイスラエルへ移送したのに正当性はあるのか、と主張したり、アイヒマンを極悪非道なナチスとしてではなく、小心な取るにたりない小役人だったと主張したがためにユダヤ人たちから「アイヒマン寄りの本である」とブーイングを受けたらしい。

 ハンナ・アーレントの言に従って、アイヒマンが小心な取るにたらない小役人だったとしたら、ハンナ・シュミットもまた小心な取るにたらない看守だったのだろう。きっと。

 ハンナ・シュミットはドイツ国民として自分の職務に忠実だっただけなのだ。その忠実さ先がナチスという悲劇はあったとしても。だれも自分の生まれる国を選ぶことはできない。一般市民の大半は、生まれた国が進んでいく道に沿って自分の人生をより良くしようとする。文盲のハンナ・シュミットにとっては事務職よりも看守の仕事が文盲の彼女のプライドを保証してくれたのだ。

 アイヒマンの死刑に関しては、ユダヤ人思想家マルティン・ブーバー(1878年?1965年)が、アイヒマンを死刑にすると多数の若いドイツ人が罪の意識から解き放たれてしまうから死刑にすべきでない、という主張をしたのにたいしてハンナ・アーレントは「われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれるドイツのあの若い男女たちは、過去の重み、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである」と言い放っている。

 ぼくはドイツ人でもユダヤ人でもないので、そこらへんの屈折した感情はわからないのだが、話を日本におき換えれば、ドイツではヒトラーはホロコーストの張本人として今も糾弾されているのに、日本では開戦の詔勅に捺印、発布した昭和天皇が戦争犯罪を免責され、戦後、日本国民の象徴として憲法のなかでいきてきた。誕生日が来ると国民が旗を振って「バンザイ」を三唱してきた。

 昭和天皇を戦争犯罪人として告発し、そのバンザイの席でパチンコ玉を昭和天皇にむけて発射した奥崎謙三はたんなる(、、、、)暴行罪で逮捕され、それ以来、天皇家と国民の間は防弾ガラスで区切られたが、いまもバンザイはつづいている。(傍点ダイケ)

 ドイツの戦後世代がホロコーストを「自らの罪責感」として認識する立場に立たされたのにくらべ、日本では昭和天皇が免責されることで、戦後世代も「父親の罪科」を顧みることなく、ただひとすじ「経済成長」の波に乗っかって(バブル崩壊もあったが)平成も22年まで来てしまった。

 

 天皇制については、人間は本能が壊れた動物である、だから生きていくためには幻想や文化を持たなければならない、と唱えた心理学者の岸田秀が「死はなぜこわいか」と題して語っている(『二番煎じ ものぐさ精神分析』)。すこし長いが引用したい。

 「われわれに自己は、本来、自分だけのものであり、どこにも所属していない。われわれはそのことに耐えられない。そこで、われわれの自己、他の人びとの自己を包括する、より大きな全体的自己として国家を形成したのである。われわれは国家のなかに自己の永続性の保証を見る。そうできるためには国家は永遠でなければならない。わが国の場合で言えば、国家の中心たる天皇は万世一系でなければならず、君が代は千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまでつづくのでなければならない。(中略)言うまでもなく、これは(共同)幻想であるが、その不合理性、危険性が明々白々であるにもかかわらず、われわれが天皇制を完全に断ち切ることができないのは、われわれの死の恐怖がそれを支えているからである。(中略)わが国の場合、死の恐怖からの逃走手段としての世襲制度は社会のあらゆる層に強く根を張っており、それに支えられて天皇制が頂点に立っているのであって、もし天皇制をなくすとしたら、その悪口を叫んでいるだけではだめで、そのためにはわれわれが、自己は完全に何の跡かたも残さずいつかは消滅するという事実を認め、死を直視してその恐怖に耐えることができるようにならなければならない。それができずに、なおかつ天皇制をなくすとしたら、万世一系の天皇以外に、われわれの自己の永続性の(共同)幻想を与えてくれる何ものかが必要となろう」

 ひとはなにかに依存しなければ生きていけない。それが国家であり、日本でいえば天皇制である。ひとは死を覚悟しなければ天皇制という依存から脱却することはできないし、死の覚悟がなければ、天皇制の代用品が必要だ、と、本能が壊れた人間の幻想について語っている。日本人の一面を捉えていてぼくとしてはなかなかおもしろかったのだが。

 

 それはそれとして、ハンナ・シュミットはドイツ人看守としてホロコーストに関与してしまったが、ハンナ・アーレントはユダヤ人強制収容におけるユダヤ人組織のナチスへの協力を正面から取り上げて激しく糾弾している。数千のナチスの機関が、数百万ものユダヤ人を絶滅収容所に送り込めたのはユダヤ人評議会が協力したからである、と。

 同胞を選別し、絶滅収容所に送ったユダヤ人評議会の指導者はナチスから優遇され、モデル収容所とされていたテレージエンシュタット収容所に収容され、生きながらえた彼らはイスラエル建国に関与し、現在も権威ある職に就いている、とハンナ・アーレントは激しく同胞を糾弾した。

 「同胞の悲劇への同情がない」というハンナ・アーレントへの批判に対してハンナ・アーレントは、たとえ「同胞」に対してであっても、判断する=裁くという責任を回避することはできない、すなわち、同胞の悲劇への同情という「共同性」よりも、同胞であっても裁くことが重要、という「公共性」を主張しているが、その同胞に対する激しい論調はユダヤ人たちにとっては受けいれがたいものだったようだ。

 ゲルシュム・ショーレムという人はそんなハンナ・アーレントに対して「わたしは彼らが(ユダヤ人評議会)が正しかったのかあやまっていたのかよくわからないが、あえて判断しようとはおもわない」と述べ、その根拠は「わたしはその場にいなかった」ことをあげている。しかしハンナ・アーレントは「もしそれが本当なら、だれも裁判官や歴史家になれないことになる」と言って一歩も譲らなかった。

 ぼくは裁判官でも歴史家でもないので、「わたしはその場にいなかった」という言い方に近い、「その場にいてこそわかることもある」という言い方をときどき使うことがある。物事は数式のように読みとれるものではない。臨床的に、その場その場、その人その人の事情で読みとるべきだとおもっている。画一的に判断することは無謀だとおもっているし、画一的な判断は傲慢だとさえおもっている。

 ユダヤ人評議会が当時どのような状況下でナチスに協力したか、どのように強迫され強制され、自分の命の危険を感じていたのか、その場にいない者にはわからないことである。それに、人間そう清廉潔白な生き方ができるものではない。人は有事に際して、他人よりも自分の生命を優先する。それは当然のことだし、そのことはだれに責められることでもない。ぼくの身にいつ何時そのような状況が降りかかってくるかもしれないし、そのとき、ぼくは彼らよりももっとひどい行動をとるかもしれない。(とらないかもしれない。)

 人間、いざ有事、というときに、強い信念を胸に揺るぎない自我を貫き通して、拷問やなにかで殺された人たちもいるだろうが、そうでない人、拷問や強迫によって、信念と思っていたものを簡単に反古にしてしまう人たちもたくさんいるだろう。いや、もともと信念などない人もいるだろう。そういうさまざまな人がいる世間が正常だと、おもっている。

 この世の中、心の弱い人はたくさんいる。すこし強い言葉で責められたり、肉体への圧力をかけられたらすぐに音をあげる人たちがたくさんいる。そんな人たちに、精神的にも肉体的にも清廉潔白さを求めるのは酷である。だから、自分を基準にして、自分の基準にあてはまらない人を糾弾している人をときどき見かけるが、そういう強い人≠ノはあまり近寄りたくない。

 とはいっても、たしかに、ユダヤ人評議会の人たちの切羽づまった心情を斟酌したとしても、同胞を裏切った人が、戦後も口を拭って、祖国の再建後、有力な地位に居座るというのはハンナ・アーレントでなくとも、疑問を投げかけられてもしかたがないだろう。世間ではそういうのを居直り≠ニいうのだ。その点ではハンナ・アーレントの公共性は支持されるだろう。

 そうではなく、時代の流れに乗っかって物事の可否の判断を中断して生きてきた人が戦後、居直るのではなく、自分の名声を求めるのではなく、清廉潔白でなかった自分を抱きしめながら、残りの人生をその人なりにまっとうに生きながらえれば、それはそれでその人生はその人のものである。そういう生き方もこの世間にはある、とぼくはおもっている。

 ユダヤ人評議会のメンバーもすべてが戦後も名声を求めたわけではないだろう。清廉潔白でなかった自分をどうしようもなく抱え込んで一生を終えた人もたぶん多くいるだろう。自分を罰しつづけた一生を終えた人もいるだろう。罰しないまでも悔恨とともに一生を終えた人もたくさんいただろうとおもう。

 

 日本でもBC級戦犯として朝鮮人や台湾人が裁かれた過去がある。朝鮮人台湾人合わせて300人ぐらいだったと記憶している。彼らの多くは日本軍の捕虜収容所の軍属で、捕虜虐待の罪に問われた。捕虜収容所にかかわったという点では、ハンナ・シュミットやユダヤ人評議会の例に似ているが、かれらは日本人の戦犯として裁かれ、ユダヤ人評議会の面々は祖国建設後も高い地位に就いた。

 朝鮮人台湾人だけではなく日本人の軍人もBC級戦犯として裁かれた。しかし、上官の命令に逆らえば反逆罪の時代に、上官の命令は天皇の命令である時代に、敵兵の人権を主張する兵隊がいただろうか、と彼らに同情的にならざるをえない。

 しかし、ほんとうは、ハンナ・アーレントに倣って言えば、「共同性」よりも「公共性」をとるべきなんだろう、きっと。たぶん。

 

 映画に話を戻すと、無期懲役の刑を受けたハンナ・シュミットのもとに、朗読したテープが届きはじめる。ハンナはそれがあの「15歳の坊や」からだと気づき、刑務所の図書館で、文字を学習し、「15歳の坊や」に手紙を書きはじめる。本を送ってくれ、と。しかし、ミヒャエルは本を送ることはなかった。

 そして、20年後、60歳を過ぎたハンナ・シュミットに仮釈放が言い渡されるが、出所の前日、彼女は自殺してしまう。多くは語られないが、現実社会への復帰をためらった、というところだろうか。

 ハンナ・シュミットの墓に娘と訪れた「15歳の坊や」が彼女との愛の物語を娘に聞かせはじめるというこの映画のラストシーンもまた『懺悔』同様、陳腐としかいいようがなかった。

 

 ヨーロッパ世界におけるユダヤ人の存在について、内田樹が『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)のなかでユニークな論を展開している。ユダヤ人にもヨーロッパにも精通していないぼくだが、なんとなく納得させられた。この人の博識にはすこし油断していると、むりやり納得させられてしまうことがあるから、要注意ではあるが。

 ──「ユダヤ人と非ユダヤ人」という二項対立のスキームを構想したことによって、ヨーロッパはそれまで言うことのできなかった何をか言うことができるようになった。けれども、その「何か」は現実界に実体的に存在するものでもない。それはある「隠されたシニフィアン」を言い換えた別のシニフィアンに他ならない。けれども、「ユダヤ人」というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。──

 

 『カティンの森』(アンジェイ・ワイダ監督、ポーランド、2007年)は1940年4月、ソ連領カティンの森で、ポーランド軍将校一万人あまりが虐殺された事件を扱っている、というか、監督の父親がその犠牲者であり、81歳のワイダ監督の怒りと、悲しみ、とくにラストシーン、ポーランド人将校が頭を打ち抜かれ、穴の中に投げ込まれ、その上からブルドーザーで土を被せられるシーンの長かったこと。10分か20分ぐらいあっただろうか。そのシーンにワイダ監督の、ポーランド人の怒りと悲しみが集約されている映画だった。

 映画のなかで被害者の将校の前職業が弁護士であったり、技師であったりと職業軍人でなかったことが紹介されているのだが、なぜそんなシーンが必要だったのかわからなかったが、(よその国のことはわかったふりをしてもなかなかわからないものである)スターリンは、ポーランドが独立国として成熟しないように専門的な知識や技術を持った人たちを惨殺したそうだ。それをよく表しているシーンがある。将軍の家で家政婦をしていた女性が市長夫人になった、と喜ぶシーンだ。(監督が職業差別をしていないとしての話だが)

 カティン事件の全容は1990年にわかるのだが、それまではソ連の犯罪だと気づいていたポーランド人もいたが、ポーランドはソ連の衛星国であり、そのソ連が虐殺はナチスの仕業だと言っている以上、表だって口にすることができなかった。

 かつての東ヨーロッパはソ連領に等しかったので、そのなかで生きてきた人たちのあれこれ、カティンで殺された将軍の妻ルジャのように、ドイツ軍にもソ連軍にもなびかないで生きていた人や、自由なポーランドは二度と来ない、と現実を容認し、体制のなかで生きていこうとするエレナや、親友がカティンで虐殺されたにもかかわらず自分は生き延びて戦後、カティン虐殺はナチスだというソ連の宣伝を受けいれがたく自殺してしまうイェジなど、ソ連下で生きた人たちの姿が象徴化され、かつ、登場人物の色分けが鮮明にされているのだが、鮮明になればなるほどこの手の映画はどうしても人物造形の陰翳が画一的になってしまって、常に既視感(デジャヴュ)が伴うのだが、まあ、それをいってしまったら映画にはならないし、画一的といっても差異は当然出てくるのだし、あとは監督の意気込みが既視感をどこまで払拭してくれるか、だろう。渾身の一作≠ニいう形容詞が作品をものがたるときもある。

 あれっ、とおもったエピソードがひとつあって、ぼくにはおもしろかったが、他の人はどうだっただろう。

 この映画は、カティンで虐殺されたアンジェイの妻アンナが引っ張っていくのだが、戦後(ポーランドの戦後≠ニいうのは微妙なもので、ナチスから解放された戦後≠烽クっとソ連の領土みたいなところがあって、ほんとうの戦後≠ヘソ連邦崩壊まで待たなくてはならないが、ここでの戦後は1945年だ)パルチザンにはいっていたアンナの甥(名前は忘れた)がアンナのもとを訪ね、高校に再入学をはたすが、その帰路、ソ連の宣伝ポスターを破り捨てソ連兵に追われ、ルジャの娘に助けられる。このあたりまではポーランドの戦後を生きていく若者の物語が展開していく予感がして、急接近した甥と娘が、翌日映画を見に行く約束をして別れるあたりは戦争物に一輪の恋≠フような展開で、まあ、ありふれているといえばありふれているが、こういう前向きなエピソードも必要だろう、とおもいながら見ていると、娘と別れた甥はソ連兵に見つかって、ソ連兵に追われ、逃げる途中、車にひかれて死んでしまう。

 この映画を引っ張っている存在、主人公のような存在のアンナの甥だからこれから活躍するのかとおもったら、登場してわずか10分ぐらいで死んでしまうのだ。なんの展開もないまま、あっというまに退場するのだ。この観客を裏切ってしまうようなエピソードには感心した。みんな簡単に死んでいったのだ。

 

 先に、ラストシーンに、監督の、ポーランド人の怒りと悲しみが集約されていた、と書いたが、あのラストシーン、ソ連兵もたくさん出てくる。下っ端の兵隊でトラックを運転する兵隊や、銃で殺害する兵隊、そのとき、ポーランド兵を抱えている兵隊、あるいは、別な場所で殺された屍体を穴の中に投げ込む兵隊、いろんなソ連兵が出てくる。映画では彼らのことはつまびらかにはしない。ただ、ロボットのように上官の命令を履行している姿が描かれているが、実際のところ、こんなことはしたくない、この場から逃げ出したい、こんなことは間違っている、と激しい感情に襲われている兵隊もいただろう。映画はそのことが目的ではないので省略されていて、ソ連兵はみな残虐であるかのように扱っているが、その後の人生が変わってしまった兵隊もすくなからずいるだろう。そういう意味では、戦争は絶対に悪である、という後退できない言説がまかりとおってしまうだろうし、この映画もそれを前面に押し出している。

 この映画については多くの人がコメントを出し、それぞれの感情を語っているのだから、ここでぼくが語ることはこれ以上はない。

 

 その三本の映画と相前後してBS放送で『4分間のピアニスト』(クリス・クラウス監督、ドイツ、2006年)を見た。女子刑務所でピアノ教師をやっているトラウデ・クリューガーという80歳を越えた老女のピアニストがある日、ジェニーという殺人犯の少女のピアノの才能を発見し、彼女にピアノを教え込み、コンクールに参加させるまでの物語だが、クリューガーにとって、それは自らの才能を断念した見返りとして、刑務所のなかで発見したたぐいまれなジェニーの才能を正しく伸ばし(クリューガーはクラシック以外の音楽を「低俗な音楽」だと切り捨て、ジェニーに低俗な音楽を禁止するのだが)、ジェニーを一人前の音楽家にすることが、自分に残された最後の仕事であり、自分の人生の意味の集約だ、とばかりに、ある面利己的な理由でジェニーと向かいあうのだが、ジェニーは音楽を教えてくれた義理の父親の性的暴力や、他人の殺人を背負って刑に服していることや、囚人あるいは看守との協調性のなさなどが引き起こすトラブルで、教師と生徒の関係はスムーズに進まない。

 ジェニーが手錠を後ろ手にかけられたままでピアノを弾くなどというアクロバット的な見せ場を作ったりして、ジェニーの才能を強調するシーンなどがあるのだが、ちょっと作りすぎの感がないでもなかった。まあ、ご愛敬といったところだろう。

 そこに、中年の看守ミュッツェのエピソードが絡んで、一本の作品になっている。

 ミュッツェはクリューガーにピアノを習っていて、ピアノが弾けることに満足していたが、ある日からクリューガーがジェニーをかまいだし、ミュッツェはジェニーに嫉妬するのだ。それはまた、自分の才能のなさへの苛立ちでもあり、教師クリューガーが自分を無視していることへの恨みでもあり、それが一気に囚人ジェニーに向かうのだが、反対にジェニーに半殺しの目にあってしまう。怪我の治ったミュッツェは他の囚人と組んでジェニーに復讐をする、というエピソードだが、それは過去の映画のなかで何度も繰り返し見てきた人物設定であったし、そんなに魅力を感じる設定ではなかったが、ミュッツェを演じた小太りの愚鈍さを体現しているような肉体のスヴェン・ピッピッヒという役者がそれなりの存在感を見せていた。

 (また、ミュッツェには幼い娘がいて、クリューガーはその娘に「お辞儀をしなさい」といつも注意をしていた。そのエピソードがラストシーンにあらわれるのだが。)

 まあ、今までの映画で見せた人物設定を踏襲するのはだめ、といってしまったら、一本の映画も作れなくなってしまう。そのとき頼れるのは役者の存在感ではないだろうか。

 

 話の進行の中で、クリューガーの過去がフラッシュバックされるのだが、彼女もまたジェニー同様大きな力≠フ犠牲になった女性であることが提示される。

 先の戦争当時、日本では共産主義支持者は「治安維持法」によって徹底的に弾圧を受けたのだが、それはドイツでも同じで、ナチスドイツは共産主義者とユダヤ人を厳しく弾圧した。ドイツ軍の病院で働いていたクリューガーは同性愛者だったが、悪いことに、愛した女性が共産主義者だったためにドイツ軍に殺された、という過去を引き摺っていた(クリューガーが、恋人がコミュニストであるということをナチスに告白したようなシーンも出てきたが、なんとなく記憶に自信がない)。

 それ以来クリューガーは過去を閉じ込めていたのだが、ジェニーの出現でクリューガーの内なる情熱が甦った、というようなところだろうか。

 さまざまな障害を乗り越えて、というとなんか根性映画みたいないい方になるが、クリューガーもジェニーもそれぞれに失意と絶望と悪意を共有しながら、コンクールの予選を勝ち抜いて、ドイツのオペラ座での決勝大会に臨むことになる。

 ジェニーは刑務所内で罰をうけていて決勝戦に出場できないことになっていたし、クリューガーもまた刑務所内のピアノ教師をクビになってしまうのだが、そこは映画である、クリューガーがジェニーを脱獄させてオペラ座までやって来、それを知った刑務所側が警官隊を差しむける、という最後の最後、スリル満載のクライマックスシーンになっている。

 

 決勝戦の演目はシューマンのピアノ協奏曲だが、その場でジェニーは思いきった演奏をする、というのが見どころである。

 ドレス姿で観客の前に立ったジェニーは初めのうちはおとなしく鍵盤を叩いてシューマンを演奏していたが、そのうち立ちあがるやピアノそのものを叩きはじめた。クリューガーの嫌う「低俗な音楽」というよりも、ジェニーの蓄積された感情が一気に噴き出したかのようなパフォマンスが展開される。ピアノが打楽器に変貌し、鍵盤から打ち出される音はもはや、クリューガーが教えたクラシック音楽を越えたジェニー自身の飢餓と願望が乗り移ったような演奏で、自らの解放と自由をジェニーが獲得したとおもわせるような演奏が繰り広げられ、ぼくは意表をつかれて、ただ呆然と見ていた。

 この演奏は迫力があったし、まさか、ラストシーンでこんな4分間があるとは予想していなかった。ぼくがここで、どう説明しようとこの4分間の迫力は伝えようがないので、DVDでも見てもらえたら、とおもう。

 この4分間の吹き替えは日本人の白木加絵さんという人が演じたという。なお、映画中シューベルトの吹き替えは木吉佐和美さんという人が演じたという。日本人バンザイ、である。

 演奏が終わったあと、観客の万雷の拍手の後、ジェニーは観客席の遠くで聴いていたクリューガーに向かってクリューガー好みのお辞儀を初めてする。(クリューガーは最初、ジェニーが弾きはじめた「低俗な音楽」に失望してその場を立ち去ろうとするが、立ち去りながらもジェニーの低俗さを越えた音楽に心を奪われたのか、観客席に戻ってくるという和解≠ェ用意されていた)

 それと同時に警官隊がなだれ込んできてエンド、という映画的効果満点のラストシーンだった。

 

 1200人のオーディションで選ばれたというジェニー役のハンナー・ヘルツシュプルングも自分の苛立ちをどこに収めたらいいのかわからないまま生きている少女役を丁寧に演じていてよかったが、実年齢よりも20歳もの老け役を演じたモニカ・ブライブトロイという女優がすごかった。ピアノ教師としての自負を持って生きている姿が、曲がりはじめた背中をしゃんと伸ばして、そして、もつれそうになる足をしっかりと踏みしめて、だれにも迷惑はかけない、わたしの人生はわたしが始末をつける、という気迫が小柄な身体に滲み出ていた。ぼくも年をとったらこんな老け方をしたい、と切におもった。

 老け役といえば、『愛を読むひと』でも、ケイト・ウィンスレットが老け役に挑戦していたが(『タイタニック』という映画のヒロインらしいが、ぼくはその映画を見ていなくて初めて見た女優だが)文盲を隠して生きてきたという毅然とした姿は美しく、それはそれでぼくは好きなのだが、最初に感じた「嘘っぽさ」がずっと抜けきらなかったので、その老け役にたいして簡単に首肯したくなかった。

 もともと、ニコール・キッドマンがハンナ役で撮影をしていたが、彼女が妊娠で降板し、ケイト・ウィンスレットをハンナ役にして撮影をやり直したという。ニコール・キッドマンの一ファンとしては彼女の老け役も見てみたかった気もした。

 しかしだ、それにしても、その話がほんとうなら、撮影中に妊娠をしてしまった話がほんとうなら、ファンのひとりとして残念としかいいようがない。プロが撮影中に妊娠なんて。

 まあ、そういうわけで、どどっと見てしまった四本だった。

 

 

 5月4日、西一知さんが亡くなったという訃報がはいった。81歳だったらしい。

 1974年の夏ごろだった。南国市という町で喫茶店をやっていたぼくの元に、当時東京に住んでいた西さんが、「闇市のような詩誌をやりたい」とやって来た。

 その当時ぼくは、松岡俊吉さん主宰の『高知作家』で小説を、片岡文雄さん主宰の『開花期』で詩を書いていたので(昔のことなので)ふたつ返事で引き受けたか、躊躇したのか忘れたが、翌年1975年8月15日発行の『舟』創刊号に参加していた。

 そこには指田一さんと日原正彦さんもいた。三人とも20代半ばだった。

 西さんは「闇市のような詩誌を作りたい」と言い、創刊号発行日を8月15日にこだわった。田村隆一が「あの日の正午」にこだわったように。そして創刊号には西さんの詩論を披瀝した覚え書きが掲載された。昭和4年(?)生まれの西さんにとっては戦後生まれのぼくなどわかり得ようもない痛恨≠ェあったのだろう。ハンナ・シュミットやトラウデ・クリューガーのように。しかし、西さんはどちらかというと、ハンナ・アーレントの率直さと辛辣さを持った人だった。

 当時、西さんは東京は新宿に住んでいて、交通の便が良かったらしく、毎晩たくさんの詩人が訪ねてきて議論百出だった、らしい。夜の夜中、一時か、二時ごろ、うちの電話が鳴ったら西さんからだった。「ダイケッ」と、電話のむこうで吠えていた。「いま、誰それが来て、こんな話をしゆう。おまんも東京へ来いッ」。最後は奥さんが出て、「ごめんね大家くん」が、何年もつづいた。

 

 1990年ごろに高知に帰郷してきて、ふたたび東京に行くまでの15年ぐらい、西さんとは間近に付き合うことになるのだが、(いろいろ意見の分かれるところだろうが)ぼくは楽しく付き合わせていただいた。

 高知はかつては酔狂の国≠セった。

 ぼくは高校生の時分(1965年ごろ)から、版画家の日和?尊夫さんや詩人の真辺博章さん、片岡幹雄さん、自称無頼派作家の小林一平さんなど、酒が入ると一変する面々と付き合っていたので、自分に忠実な人は酒≠理由に自分のなかのアクや淀みを排出しなければ生きていけないのだ、と寛容な気持ち(?)で一世代上の彼らと付き合っていた。というか、そんな彼らが好きだった。

 若いころ大変お世話になった片岡文雄さんはそのころ、高知城近くの公立高校の定時制で国語の教師をしていたが、授業が終わるころ職員室に訪ねていくと片岡さんの顔はすでに赤らんでいて、いい気分でぼくを迎えてくれることがあった(毎回ではなかったが)。酒にたいしては寛容な時代だった。いい気分でひとしきり話しこんだあと、教科書を包んだ風呂敷を自転車の荷台にくくりつけて酒場にむかったものだった。

 嶋岡晨さんもまだ高知にいたころで、ぼくの国語の担任だったが、あやうい所へ連れていってもらったりもした。

 しかし、1990年には彼らはすでに退場し、高知の酒の飲み方≠烽ィとなしくなっていた。

 そこへ、西さんが60年代の酒癖をそのままに再登場したのだ。舞台が混乱するのは目に見えていた。

 もっとも西さんは酒が入らないうちは「気の小さい、気配りのできる人だが、その反面、ちょっと辛辣なことを言う人」ぐらいの人だが、いったん酒が入ると、気が大きくなり、気配りもどっかへ吹っ飛び、辛辣さが天空を翔るのだった。

 東京にいたころは、新宿のマンションに誰かが訪ねてきて、毎夜酒宴が繰り広げられたらしいが、高知に帰ってきたら、誰も訪ねて来ないことが寂しかったようだった。「どうして誰も訪ねて来んろう」と何度か訊ねられたことがあったが、「高知にはそんな習慣はない」としかこたえられなかった。

 だから、毎夜毎夜、繁華街の飲み屋に顔を出すようになったのかもしれないが、疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)の時代はすでに退場していたので、西さんの傍若無人な酔狂を許してくれるところが少なく、あちこちの店で出入り禁止になっていたが、昔はもっとすごかったから、まだ軽い軽い、とぼくは西さんを応援していた。(が、西さんと一緒に飲むことは極力控えさせてもらっていた)

 

 ひとはだれも青春期を通過しておとな≠ノなる。少々のバカなことをしても若いから≠ニ、将来への期待感を考慮されて世間から大目に見られていた青春期はしかし、いつまでもつづかない。

 ひとは青春期に培った経験を糧におとな≠ノなる──のではない。おとな≠ニは、文化的かつ社会的規範である。そしてまた、この規範は自らが獲得するものではなくて、否応なく他≠ゥら押しつけられるものである。それでも、青春期を通過してきた者は、情熱と無分別と反抗だけでは世間を渡れないことを自覚し、おとな≠ニしての規範を受けいれることを自らに容認する。それが岸田秀ふうに言えば、本能の壊れた人間(、、、、、、、、)の生きていく方法だからだ。

 ときとして、この文化的かつ社会的規範が壊れたおとな≠ェ出現する。他≠ゥら押しつけられたおとな≠ニしての立ち位置が壊れたままのおとな≠ェ出現する。もっともほんとうに壊れているのか、壊れた振りをしているのか、判断のつきにくいところではあるが。西さんがどっちだったのか、ぼくにはわからないが、文化的かつ社会的規範の壊れたことをそのままに生きていこうとした人だったとおもう。

 

 そんな西さんだが、健康には非常に気を配っていた。

 酔狂する≠ニいっても、西さんは酒には弱く、それぐらいの酒量で酔っぱらってしまうのか、とびっくりするほどの分量ですぐに酔っぱらって自分の世界に埋没していた。だから、翌朝の目覚めも良く、朝食はちゃんと食べていた。未明まで飲んで嘔吐しながら目覚めるぼくと違って、健全な朝を迎えていた。

 理由があって一人暮らしをはじめたときはさすがに自分で朝食を作るのは面倒だったらしく、朝風呂に入ったあと、当時住んでいたアパートの横にあった「サティ高知」の二階にある「ミルキーウェイ」という喫茶店でモーニングを食べるのが日課になっていた。その店にはモーニングの種類が何種類かあって、西さんは楽しそうにそのバリエーションを楽しんでいた。酔った西さんとは話にならないので、その喫茶店に出かけてよく西さんと四方山話をしたものだ。そのころはもう『舟』の同人をやめていたのだが、一番まともな話をしたときではないかとおもう。

 

 『舟』創刊当時西さんは「『舟』、レアリテの会発足の覚え書き」というものを書いている。「宣言」ではなく「覚え書き」というところが西さんらしいが、この覚え書きは詩誌『舟』からはずされることがなかった。そのなかに次のような一文がある。

 「真に生命的なものを失ってしまった既成のモラルと美学への抵抗、そして、生きるということが本来、あらゆる形骸化したものによる庇護を拒絶し、みずからの内なるものを顕在化するその創造行為の中にあるとするならば、詩人の行為はおのずから最も厳しい前衛性を帯びてくるであろう」

 たしかに西さんは自分の原理原則を前面に押し出して、他者との摩擦を繰り返してきたが、酒の力を借りることも彼の生きにくさの苦悩の表現の一端であったと、短かい間だが、間近で接した西さんのあれこれを今振り返りながら、そうおもう。

 「ここはひとつ手を打って」という場面でも、自分が納得しない限り手を打たなかった人だった。だから、一見ゴネているように見えたかもしれないが(ほんとうはゴネていただけかもしれなかったが、それは本人以外にはわからない)、そこで手を打ってしまえば「この場所で他者と接する意味を欠いてしまう」と考えたのだろう、きっと。だから、永遠に手を打たなかった人だった。その態度は、自分にも、相手にも真摯な態度だとおもうのだが、それではその場の話が前に進まない。ハンナ・アーレントふうにいえば、共同性よりも公共性を重視した、というところだろうか。それに自分に対しても「詩人の行為はおのずから最も厳しい前衛性を帯び」ていたいと願っていたことだろう。そのためには他との摩擦を恐れてはいけない、と。

 2009年11月の『舟』137号に「スキャンダル(醜聞)」と題した自分語りの詩が載っている。西さんは自分のことをスキャンダル≠セ、と言っているのだが、スキャンダル≠ニいうほどの存在でもなかったのではないか、とおもう。それにスキャンダル≠ェ永遠の棲み処を求めている、というのもスキャンダル≠ノふさわしくない老後だとおもうのだが。(スキャンダル≠ヘ死んでも安定してはいけないとおもうのだが)

 が、ともかく、この作品の部分を転載して、西さんのご冥福を祈りたい、なんて書いたら、「オレの冥福なんか祈らんでいい」という西さんの声が聞こえてくるようだ。そのむかし「オレは葬式はせん。ひとの葬式にも出ん」と言っていたことをおもいだした。「野垂れ死にしてどこが悪い」と強がっていたこともおもいだした。「オレは独居老人の孤独死をしてやる」

 晩年の西さんにはお会いすることはなかったが、60代70代の最後の元気なころの姿がぼくの懐に残っている。いいことも悪いこともありがとうございました。

 じゃ、冥福は祈らないから、西さん、さよなら。

 

  あぁ すべてはスキャンダルだ

   舗装された路も 車も

   高層ビルも

   そこを歩いている人たちも ぼくも

 

  いずれ瓦解するだろう すべては

  ?っぱちのすべては

  ぼくはかつて見た

  荒れた草ぼうぼうの城跡を

  ぼくはそこに長く留まることはできなかった

  そのあまりの静けさのなかに

 

  静けさ≠サれは

  どのような騒音のなかにも初めからあったものなのだ

 

  招かれないものの振る舞い また その存在

  をスキャンダルというのであれば

  ぼくは

  まぎれもなくスキャンダルだ

        (中略)

  ぼくは人間は嫌いで 人にはなじめなかった

  ぼくは町から町へ 路地から路地へとさ迷った

  野良猫や 野良犬の目線で

  かれらを相手に そしてとき折り

  ビルの谷間から空を見上げた

  暗い夜空の月を

 

  おぉ コヨーテよ

   ぼくはおまえに聞きたい

   ぼくは この地上にあって

   いつまで招かれない客であるのか?

   ぼくの棲み処は いったい何処にあるのか?

 

  スキャンダルは歩いた 歩いた 歩いた

  かれは当てもなくさ迷っているかのように見えた だが

  そうではない かれは求めているのだ

  棲み処を

  もう何処へも行く必要のない場所を

 

 

 西さんと同い年の佐藤慶が亡くなった。(5月2日)

 佐藤慶の映画を初めて見たのはどれだったか忘れたが、大島渚の映画だったとおもう。高校生か、卒業したころだ。『白昼の通り魔』や『無理心中日本の夏』もよかったがなんといっても『絞死刑』だろう。たしか刑務所の職員だった記憶がある。この作品DVD化されているとはおもうが高知では見ることができなくて、いつかもう一度見たい映画だ。大島組の映画では佐藤慶だけではなく、渡辺文雄や小松方正、戸浦六宏など個性的な役者が独特の世界をつくっていた。みんな亡くなった。

 何年か前、ツタヤでレンタルされている大島の映画を順番に借りたことがあったが、どれもこれも、大学生の演説調の映画だった(いまの大学生はそういう議論はしないらしいが)。映像もそこそこに議論百出で、国家とはなにか、民衆とはなにか、自我とはなにか、存在するということはどういうことか、そんなことが延々と語られていた。

 つくづくおもう。ぼくはそういう映画を見て育ってきたのだと。だったら死ぬまでに『絞死刑』はどうしても見ておきたい一本である。在日韓国人問題と国家が行う処刑制度について声高く語っていた大島の声をもう一度聞きたい。