12月15日、東京都の青少年健全育成条例改正案が可決された。

 「漫画、アニメーションその他の画像(実写をのぞく)で、刑罰刑法に触れる性交若しくは性交疑似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交疑似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」の青少年への販売を規制しようというものだ。

 ぼくは漫画は読まないし、アニメも見ることがないから、漫画やアニメの世界がどんな表現をしているのかしらないが、たぶんひどい漫画やアニメもあるだろう。しかし、そんなものはむかしからあった。良くも悪くも、性に関する描写は太古のむかしからあった。

 だれもが知っているものといえば江戸時代の「春画」がある。いまでは再評価されているらしいが、当時は公序良俗に反すると「お上」から弾圧された。手鎖の刑、というのがあったらしい。

 戦後では、小説の伊藤整『チャタレイ夫人の恋人』、映画の武智鉄二『黒い雪』などが有名なところだろう。騒ぐほどのことではない表現だが、「わいせつ」と言われて、裁判沙汰になった。

 それに今回の規制をする側、いわば「お上」の総元締め石原慎太郎はそのむかし(1955年)『太陽の季節』で芥川賞をもらったとき、その作品が「性犯罪を誘発している」とバッシングされ、PTAの「悪書追放運動」の対象にされたこともあった。

 

 むかし映画を見ていて、強姦魔に対して「犬畜生にも劣る奴」というセリフがあったが、それは犬にたいして失礼な言い方で、犬は発情期以外は性行為をおこなわない(そうだ。犬に聞いたわけではないが)。

 心理学者、岸田秀にいわせると、「人間は本能の壊れた動物で、人間の性は本能ではなくすべからく幻想に支えられている」(『ものぐさ精神分析(性的唯幻論)』(青土社)・もともとはフロイトが言いはじめたことだが、ここでは岸田秀を引用する)

 人間が発情期以外にも生殖行為をおこなうのは、生殖だけが目的ではなく性行為が一種の文化となっているからであり、人間のいわゆる正常な性行為と、他の哺乳類の性行為とは、男性器を女性器のなかに入れて射精するという点において、一見いかにも似ているが、以て非なるものであり、そこには、いわば造花と自然の花との違いがあり、いくら本物の花に似ていたところで、造花は造花である、と岸田秀は言っている。

 で、ここからが岸田秀のユニークなところで、人間の性行為は造花であるから、さまざまな性倒錯の形式を持つという。同性愛、フェティシズム、窃視症、露出狂などどんな造花でも作れる、というのだ。

 人間の性行為が造花である限り、自然のまま放っておいたのでは、異性の性器へと、正常な性器へと向かわない。だから人間はさまざまな文化的観念や規律をあみ出したのだが、その結果、人間の性は、正常異常を問わず、本能ではなくすべて幻想に支えられてしまった。性交の際の体位や前戯にかんするさまざまな個人的好みは性本能に由来するものではなくて、当人が性についてどのような幻想を持っているかにかかっている、と、まあ、そういうことをいっている。

 そういう屈折した、錯綜した性行為しかできない人間が、他人の書いた漫画やアニメに性的刺激を受けて犯罪をおこす、というのはありそうなことだが、だからといって「お上」がわいせつ本の流通を取り締まったら、人間の幻想が犯罪へと結びつかないとおもっているのだろうか。法律で人間の想像力を封鎖できるとおもっているのだろうか。

 

 たしかにバカバカしい漫画やアニメもたくさんあるだろう。しかし、そのバカバカしさ(、、、、、、)はたぶんに相対的であって、一斉に法の網が掛かるという絶対的なものではないし、一部の「識者」の「わいせつ感」が絶対的なものでもない。それなのに、一斉に法の網をかぶせようとしている。それほど、いまの青少年は健全に成長していないのだろうか。だとしたら、それは一方には学校教育が不備であり、家庭教育、社会教育が不全であって(ぼくがこんな道徳的なことを口にするのも恥ずかしいのだが)、それを「性表現」ひとつに集約してしまって、自分たちの不備はなかったことにしてしまおう、口を拭ってしまおう、とする一時しのぎのやりかたではないか、とおもうがどうだろう。

 いや、性に関する表現は、学校教育や家庭教育、社会教育を駆逐するほどのパワーを持っているのかもしれない。なにしろ、それによって人類は繁栄してきたのだから。

 

 実際のところ、漫画であれ、アニメであれ、表現物である以上、時代の評価に耐えられるものと、耐えられないものがあるだろう。ほんとうにつまらない作品なら淘汰されるだろうし、淘汰されるまで待てないというのであれば、コンビニなんかで売らなければいいし、むかしながらの「ビニ本」という手もある。それでも買いたい青少年は買うだろう。青少年はむかしからそういう「おとな」との攻防のなかで育ってきたのだから。

 それに「お上」が干渉(検閲)しはじめるとろくなことがない。性的感情の刺激、などは個々の事情によってちがっている。それらを一網打尽にする、となると、あらゆる事情を取り締まらなくてはならなくなってくる。

 岸田秀も『性の倒錯とタブー』のなかで書いているのだが、子どものころ見たポルノ写真の女が足袋をはいていたために足袋をはいた女にしか、あるいは、足袋そのものにしか性欲を感じなくなったりする、こともあるらしいから、かれらの性的感情を刺激しないために足袋をはいた女を登場させてはいけないという規制も必要になってくる。

 それは話が違うだろう、という人もいるかもしれないが、いま、「お上」が規制しようとしているのはそれぐらいの話のことである。

 それにひとつ笑ってしまったことがある。規制のなかに条件があって、「刑罰刑法に触れる性交若しくは性交疑似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交疑似行為を、不当に賛美し又は誇張するように(、、、、、、、、、、、、、、、)、描写し又は表現することにより」(傍点ダイケ)とあるが、「刑罰刑法に触れる性交、又は婚姻を禁止されている近親者間における性交」は「正当に、かつ、誇張せず正確に」表現すれば規制されずにすむ、というのだろうか。

 いまは漫画やアニメが対象だが、そのうちネットにも規制をかぶせたくなってくるだろう。ぼくはいまのネット上の品性のなさにはうんざりしているのだが、だからといって「お上」が手を出すことではない。この世の中、悪も毒も偽善も虚偽も無知もごった混ぜで「ヒト」はどうにか息をつけているのだから。

 

 この条例は昨年6月に、民主党などの反対多数で一度は否決されたらしい。その後、都は各地のPTAの集会に出かけていって、現在どんなにひどい性描写が氾濫しているかを現物を示してPTAを揺さぶったという。55年当時の石原慎太郎の「悪書追放」運動もPTAが音頭を取った経緯があるが、自分の子どもにはこんなひどいものは見せたくない、というのは親心だろうから、PTAに働きかけるという戦略は功を奏したらしく、規制に反対した民主党の議員に「エロ議員」と圧力をかけて、今回はみごと民主党も賛成しての成立となった。

 「お上」の巧妙なところは、そのPTAへの資料の提出である。情報開示を請求したフリーランス記者が都からの提出資料をBS放送でしめしていたが、都の職員が買い求めたわいせつ本のレシート(領収書)には「大人のおもちゃ20%引き」という印刷があった。都の職員は「大人のおもちゃ」を販売している店舗で買ったわいせつ本をPTAの会合でしめして、こういうわいせつ本が蔓延している、という巧妙な手を使っていた。普通に暮らしている青少年が立ち入らない店舗で買ったわいせつ本を資料としてしめすのはフェアーでないとおもうのだが。

 ぼくは漫画などのわいせつ本に接したことがないので、町の普通の書店で売られているかどうか知らなくて、先日、某書店へ行ったとき探してみたが、そんなものは見あたらなかった。たまたまその書店にはなくて他の書店にはあるのかもしれないが、普通の書店のレシートには「大人のおもちゃ20%引き」などというサービスが印刷されているはずもない。

 そういうふうに町なかの書店で購入できないような本をPTAにしめして、やたらとわいせつ本が氾濫している現状を演出するのはどうしてだろう。もしかしたら、「お上」の総元締めの石原慎太郎が55年前に受けたPTAからのバッシングがトラウマになっていて、おれが受けたバッシングをいまの作家に受けさせてやる、と悪意だけで動いているのかもしれない、とおもってしまうのだが。 

 まあ、ぼくは基本的には“のっぺらぼうな自由”を求めているのだが、そんな考えは到底世間には受けいれられないだろう。なにごとも「規制」によって世間は成り立っているのだから。

 フロイトは人間の精神生活は、快感原則と現実原則に支配されていると言った。快感原則とは不快を避け、快を得ることを目的とし、現実原則とは本能の満足を現実に対応させるように断念や回避や延期といった役割を受け持つ。

 「規制」とはこの現実原則に相当するだろう。しかし、その規制は「お上」が法の網をかぶせることではなく、作者、あるいは出版社がそれぞれの分別で処理すればいいことだとおもう。その分別とは、自主規制ではなくて、表現者としての自負のことだが。

 

 ぼくのように漫画を読まない人口よりも、詩を読まない人口のほうがはるかにおおくて(たぶん蟻と象ぐらいだろう)、ぼくがここで、漫画やアニメの自主規制について書いているのはたぶんに余計なお世話♀エがともなっているのではないかと、ふとおもったりする。

 

 漫画やアニメなど商業的に流通している著作物は、流通の自由が保障されなければ表現の自由を獲得したことにならないのは自明の理だが(だから今回の規制に漫画家や出版社がこぞって反対しているのだ)、詩の世界ではそんな騒動がおきた記憶がない。もっとも、詩の世界では突出した性的表現の詩がない(ぼくが知らないだけの話かもしれないが)ということや、詩が流通の場≠ノのっていなくて、規制をかける対象にすらなっていない、ということだろう。

 性的表現でおもいだすことは60年代の鈴木志郎康のことだ。かれは性的言語を巧みに使い、日常性の中に非日常性を塗布して、世間の大多数が見ようとしなかった存在をすこしばかりさらけ出そうと試みていて、当時10代のぼくは、鮎川でも、黒田でもない言葉の選択におもしろさを感じ、自分の体質に合う親近感を感じていたし、当時ぼくの通っていた高校で国語の教師をしていた嶋岡晨さんも性的な表現を多用していて、「ダイケ、言葉は観念じゃいかん、手で触れんといかん」と性的言語の具象化が体制的価値観と対峙する、といったような使い方をしていて、嶋岡さんの詩にも親近感を感じていた。

 しかし、嶋岡さんは鈴木志郎康の一連の作品を「擬態の〈解放〉に酔うアングラ劇を思わせる風俗的エロチシズムとほとんど等質の浅薄な自己陶酔にすぎない」(『現代詩のエチュード』「詩的モラリテの欠落」(右文書院))と批判し、詩的モラリテとは、かならずしも社会的倫理にかぎらずコトバという内的媒体の外在化による、烈しい摩擦と矛盾相克への〈誠実さ〉であるとし、鈴木志郎康の作品のように主題の曖昧化ではなく、主題への肉薄と屹立が必要だ、と切り捨てていたから、ぼくとしては微妙な感じだった、というかすかな記憶がある。

 

 そんなことを書いていると、ぼく自身、自主規制をしたことがあったことをおもいだした。

 高校時代(昭和40年頃)は文芸部といって、いまの高校生にはふり向きもされないだろうクラブに在籍していたのだが、その機関誌に発表する詩をめぐって、高知大学を出たばかりの女教師に(彼女は文芸部の顧問だったが)「ダイケくん、こんな詩は学校の機関誌には載せられん」と言われたことがある。二年生のときだ。

 

  花婿のヒリヒリする赤い手があの人の子宮を?み出し

  粘液が床上に氾濫をおこし

  あの人の身体にはいくつもの鋭い爪跡

  ぼくは今にも卒倒でもおこしそうなぐらいに自分が恥ずかしくなった

  そしてぼくはあの人の身体をぼくの精液で洗い清めてやらねばならないと決心した

  たとえあの人がぼくの禿鷹のような体臭に反吐が出ると言ってぼくを避けようとしても

 

 失恋を書いた「恋」と題する詩で、たしかに性的な単語はあるが、失恋の未練が痛切な痛みとともに表現できた、と自分ではおもっていたのだが、大学を出たばかりの女教師に「学校の機関誌だから」の一点張りで、「載せられん」と拒否された。学校の機関誌に子宮や精液はまずい、と新任の女教師は腰が引けたのだろう。

 まあ、その場は「はいはい」と従っておいて黙って印刷する手もあったが、それもおとなげない≠ゥなとおもい、結局、当たり障りのない詩に取り替えたという、苦笑いのできる自主規制のおもいでがある。

 その詩は後日、高校生連中とやっていた同人雑誌に発表したのだが、同人雑誌という代替の発表場所を持っていなかったらどうしたのだろう。

 たぶん強行発表≠ニいう楽しみを手にいれていたとおもう。その楽しみを経験しなかったことはいまからおもうとすこし残念な気もする。

 そのむかしぼくが経験したことは、自主規制した、ということになるのだろうか。それとも、学校の機関誌という場所の制約が正当化されるのだろうか。日本語には場所柄をわきまえる≠ニいう言葉がある。ぼくはそのとき、場所柄をわきまえた、のだろうか。もう45年もむかしのことで記憶をたどることもできないが、表現の自由≠ェ阻害されたと声高に叫びたてるほどのことでもなかっただろう。

 それに、たぶん強行発表していてもなんら問題はおきなかったような気がする。けっこう自由な学校だったし、それに、文芸部の発行する機関誌なんてほとんどの生徒や教師は相手にしていなかったのだから。「失恋の未練が痛切な痛みとともに表現できた」と気負っていたのは、たぶん、ぼくひとりだけだっただろう。(この歳になってもそのころの気負いをいまだに背負っている感が否めないのはどうしたことだろう、と自分に訊いてみるのもおかしなものだが。)

 

 と、あちこちとびながらいろいろ書いてきたが、この世の中、「表現」などということにはなんの興味もなく、ただ、金儲けのためにわいせつ本を出している人もいる。それも世間だ、といってしまったら、いろいろ批判されることになるかもしれないが、実際のところ、だれもが皆、百パーセント安全大事な人生を送ることなどできるはずもないことは、だれもが皆しっている。人間の性行為が幻想に支えられているとしたら、清廉潔白な世間などどう願っても到来することはないのだから。

 

 

 田村雅之さんから戴いた詩集『デジャビュ』(砂子屋書房)は田村さんが旅した多くの土地にまつわる伝承や由来などが田村さんの目を借りて語られている。

 柳田國男は、日本人の意識をあらわす概念として「常民」ということばをつかい、民間伝承文化の担い手とした。

 その意味ではここで田村さんが目にし、手で触れ、思考したものはかれら常民が担ってきた文化を体験していることになるだろう。人びとによって支えられ伝承されてきた文化が現代に?がっている姿が見えている。

 しかし、人びとと文化の関係はときとして逆転することがある。

 たしかに最初、集団を維持するための禁忌や規則がつくられたときはそれらを考案した人の側が主体性を持っていただろうが、それらが伝承されるうちに、人びとが伝承文化を支えているのではなく、それら伝承文化が人々を支えるようになっていく。歴史の主体は人から離れて目に見えない伝承文化の手のうちにゆだねられるようになる。

 伝承文化は人々の意識にのぼることなく、日々の暮らしのなかで淡々と、脈々と伝えられるものだから、つい、それを使っている人のほうに主体があるかのような錯覚をしてしまうが、実は逆転されている。伝承文化が制度化されることで、人の営みが支えられるようになっている。

 集団の中で了解されるものだけが文化として伝承される。そういう意味でも、人びとの暮らしは伝承文化によって支えられている。

 田村さんは日本のあちこちを歩くことで、そこで営まれている文化の豊饒さがその土地に住む人びとを生かしていることを体感しながら、自らの再生を模索している、とぼくにはおもわれるのだが。

 集中からすこし抜粋させていただく。

 

海原にぬかずき仮面を洗って

御酒(み しゅ)をつくり、芭蕉葉に餅をつつんで

椰子蟹を杜に吊るして結界をつくり、御獄(う たき)をきよめて

ここからは言葉で記せないタブーの世界

やまとには法があるが、ここにはここの掟が、と

着物に正装した区長がいう

                  (「鼠の花」部分)

 

ひとの住んでいる部落は祖内(そ ない)久部良(く ぶ ら)(たる まい)(たる まい)鬚川(ひ ない)

みな海にそそぐ川の入江

知里真志保の地名アイヌ語小辞典を索くと

ない(、、)は沢や川のこと

不思議なおとのつながりだ

              (「ことばと遺伝子」部分)

 

イネはこんなにくらい潮のへりにまで

信仰のように伝播したのだ

「天に花()け、地に(ミノレ)

 福は内へ、鬼は外へ」と鼻たれ稚児が集まって

初春の豆をうちはやし

豆焼きをし、灰占をして

ありとある願かけをしてまでも

豊かなみのりを予祝した

「出て酌とれ稲倉魂(オガ ノ カミ)!」と

泥のように酔うた男たちも二〇〇年前

みちのくにいたのだそうだ

             (「ゆきぐれのつがろ」部分)

 

 

 歴史には人間の痕跡がつきものであり、人間が歴史をつくってきた、ということができるかもしれないが、実は、歴史の主体は人間そのものではなく、人間の造った目に見えるものと目に見えないものである。目に見えるものは遺物で、見えないものは文化、といっていいだろう。

 たとえば、ある時代に生きた人々が死に絶えても、そこには時代の余白のようにかれらの残したものが刻印される。それら、人間が造った建造物にはそれぞれの時代の集団的な総意としての信仰や怖れ、傲慢、永遠といった喩が隠されている。

 古賀博文さんの詩集『王墓の春』(書肆青樹社)を読ませていただきながら、ふと、そんなことを考えた。

 

 それは、海中からつみあげられた石垣の四隅に各々まるい(やぐら)(あと)を有した方墓(ほう ふん)である。その方形のテリトリーの中央部に円形の小山が造成され、そこに王なる人の柩が眠っているという。満潮になると、王墓の東側の、半島と手をつないでいた櫓跡の一隅が速水瀬戸(はや みの せ と)となって縁切(えん ぎ)れてしまう。海に直接面したのこりの三隅はうずしおと海潮音とをとどろかせ、押しよせてくる潮の圧力にじっと耐えている。

 干潮のたびごとに王墓は半島と陸続きになり、満潮のたびごとに孤立無援と化す。そんな演出が、古代人によって計算されたものなのか、その後の地殻変動などの偶発的要因によるものなのかはわからないが、まいとし春のおとずれとともに王墓全体をうめつくした山桜のうす桃色の無数の花弁が風に舞って海へ落ち、うずまきに吸収され、あるいはよどみに掃きよせられ、海而に白い絨毯を現出させるさまは幼い頃からわたしを魅了して飽きさせなかった。

                 (「王墓の春」部分)

 

 すでに王も、それを造った使役人たちも退場してしまって、残っているのは方墓(ほう ふん)だけだが、その方墓も潮の満ち引きで現代人と密になったり疎遠になったりしている。それは、使役人たちが意図したものであれ、偶発的なものであれ、歴史とは時代の余白がになっていることを教えてくれる。

 また「砂の舟」の書き出しはこうである。

 

 わたしが生まれた村には〈砂の舟〉の言い伝えがある。その〈砂の舟〉はオヤシロドンとよばれる社祠にまつられている。鎮守の杜に鎮座するオヤシロドンの床下を掘りかえしたものは、さすがに畏れ多いのか、だれ一人としていないが、そのオヤシロドンの床下に、遥かむかし、われわれの祖先が海上の道をつたってこの地へたどりついたさいに乗ってきた木造の舟が埋められているという。

〈砂の舟〉とは、この地によくある砂岩質の泥を焼きかためでつくられた舟のミニチュアであり、舟型埴輪の一種であるが、いまではオヤシロドンの御神体としてかしこみ崇められている。そして、オヤシロドンの床下に木造の舟が埋められているという伝承に真実味をあたえる大きな論拠のひとつになっている。

 

 ここでも人々はすでに退場している。その由来も由縁もさだかでない遺物を歴史の喩とすることで、わたしたちの現在は思索の豊饒さを獲得できるのだ、と古賀さんは静かに語っている。

 

 

 

 2月5日夜、永田洋子が東京拘置所で死亡した。65歳。脳腫瘍のあと脳萎縮を起こしていた、らしい。最近は面会者の判別もつかず、寝たきりだったらしい。6日現在、詳細はまだ報道されていない。

 1971年?72年、「同志14名」をリンチ死させた「連合赤軍リンチ事件」で死刑判決を受けていたが、彼女の名前さえ知らない世代が、もう大半を占めてしまっているだろう。

 すこし思いはあるが、遠い昔のことだ。