11)2001年宇宙の旅 アーサー・C・クラークの原作をスタンリー・キューブリックが映画化した『2001年宇宙の旅』(1968年、アメリカ)は1968年につくられたとは思えないほどの画期的で現在的なテーマに満ちていた。この映画の後でつくられた映画は、常に先行する映画として『2001年宇宙の旅』を意識せざるを得ないという不幸を負わされてしまったと言ってもいいだろう。 原始時代、原始人の前に現れたモノリス(黒石板)が2001年の月面に現れる。調査した科学者の前で、モノリスは木星へ電波を発しはじめる。その謎を解くために5人の宇宙飛行士が宇宙船ディスカバリー号で木星に向かうが、コンピュータ・ハルの反乱で、睡眠中の3人の生命維持装置が止まり、もう一人は船外へ放り出される。ただ一人生き残ったボーマン船長はハルを停止し、現れたモノリスに導かれるかのように異次空間をトリップし、新人類として生まれ変わる、という話だが、アーサー・C・クラークの原作は科学的知識を十二分に駆使して書かれていて、科学的な説明がある分わかりやすかったが、キューブリックの映画は、当然のことではあるが、科学的説明を省いて映像的構成を優先しているため、わかりにくい映画であったかも知れないが、悲観的なわかりにくさではなかったと思う。 最後の最後、球のなかに胎児・スター・チャイルドが現れるところで、あれれっ、と思ったりしたことはしたが、わからないところは端折ってしまうのが僕の映画の見方である。新人類などというテーマ自体そんなに日常的なテーマとして僕らは持っているわけではないので、なんの説明もなしに胎児を出されて、シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」を荘厳に流されると、観客としては、ここでつまづいてはいけないと身構えてしまうが、なぜ胎児が出てきて、なぜ「ツァラトゥストラはかく語りき」なのかわからなくて、最後の最後、わからないまま観終わってしまうことになるのだが、それはキューブリックのせいで、僕らのせいではない。キューブリックはキューブリックで、「わかってもらわなくてもいいからこのシーンはスター・チャイルドなんだ」と思っていることだろうから、観客は観客で、「キューブリックよ、もっとわかるようにしろ」と言ってもいいのだと思う。時として、映画作家、に関わらず、創作に従事している人は、観客や読み手のことよりも自分の想像力や必然性を優先するものである。 この映画では、新人類の誕生と共にコンピュータ・ハルの存在が重要である。ハルはコンピュータであるがゆえ、インプットされた命令通りに働こうとし、飛行士の修正を拒否し、狂ってしまう。これはコンピュータだけのことではなくヒトへの批判にもなっている。また、ハルには読唇術が備わっていて、ハルを停止させようとする陰謀を見破ってしまうし、自ら、というよりも、インプットされたプログラムを守ろうとして、ボーマン船長をも抹殺しようとするところなど、コンピュータの人格化という未知の分野が挿入されていて、まさに現在的、あるいは未来的課題が提出されていた。 それらはアーサー・C・クラークという作家の蓄積された知識と時代を見通す眼が働いているのだが、アーサー・C・クラークに劣らず、スタンリー・キューブリックの映像は美しかったし、刺激的だった。現在ではSFX技術が向上しているので大概のことならできるらしいが、1968年当時、これだけの特殊撮影を可能にしたスタッフは素晴らしい。 SFファンの僕としてはベスト1に押してもいいと思っている。 12)中国の映画 中国の映画は文化大革命の後遺症でしばらく衰退していたといわれているが、中国映画にそんなに詳しくない僕はそこのところは良くはわからないのだが、チェン・カイコーの『大閲兵』(1986年)、ウー・ティエイミンの『標識のない河の流れ』(1983年)『古井戸』(1987年)、スン・チョウの『心の香り』(1992年)、ティエン・チュアンチュアンの『青い凧』(1993年)などが印象に残っている。チェン・カイコーの『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年、香港)は話題になった映画でみんな感動したらしいが、僕は、「ちょっと・・・」だった。 そんな中国の映画のなかでもっとも印象に残ったのがシェ・チン監督の『芙蓉鎮』(1987年)だ。 文化大革命の少し前、反右派闘争ですべての企業を国有化した中国だったが、その政策がうまくいかず、小規模の私企業を認めて、国有企業と共存していた。そのような時代、米豆腐を商い繁盛しているユィインは、国有企業の幹部からねたまれ、反資本主義、反ブルジョアジーの嵐のなか、文化大革命で、店は没収され、夫は死んでしまう。 一方、反右派闘争の時、党中央での闘争に地方も巻き込まれて、右派を批判するという政治的な手法が優先されて、この小さな町ではとくに右派でもないが、知識人であることだけで右派のレッテルを貼られ、文化会館の副館長から道路清掃員に格下げされた〈ウスノロの泰〉と呼ばれる男がいて、この映画はユィインと〈ウスノロの泰〉が見た地方における文化大革命の物語である。 文化大革命を批判した映画は1970年代の終わり頃から一種の国策映画としてつくられたというが、この映画にも、文化大革命の誤りがいくつか描かれている。 思い出すままに書くと、一部の住人の指導で毛沢東個人崇拝で盛り上がっていた町の人々が次第に熱が冷めてきて、集会へも仕方なしに出席するところや、町の浮浪者のような男が党支部書記になり、また没落して発狂してしまうところや、最も重要なのは、党支部を牛耳っていた女性幹部が、文革中に勝手放題の権力を行使して町中を混乱におとしいれたにも関わらず、文化大革命が終わってもその責任を問われて失脚することもなく、逆に昇格して、栄転してしまうのだが、文革後も、その総括のなかで、地方では少々の行き過ぎはあったかも知れないし、それらは総括されるべきものである、という党中央の意志が働いているようである。しかし、その総括は一部の幹部を処分することで党の土台を壊すような処分はされなかったのだ。 僕がこの映画を取りあげたのは、道路清掃員に格下げされたユィインと〈ウスノロの泰〉が朝早く、朝靄をついて町のなかを清掃するシーンがとても美しかった、という理由だけである。最初は緊張していた二人が、はにかみながらも顔を交わし合うようになるまでのシーンが美しかった。 中国の映画はそのときどきの政治の強弱で部分カットとか上映禁止、外国への輸出禁止、というような処分を受けてきたらしいが、なにもそれは中国だけではなく、世界中で共通の体験のある人々が数え切れないほどいる。 いま、日本は世界中の映画がもっとも輸入され、完全版で観られる国となっているそうだが、制度や体制の違いは越えられないかも知れないが、個的な感性でそれらの映画を観つづけることはできるのである。 僕らはただ、観つづけることしかできない。 13)異色作 「異色作」とタイトルの前に形容詞がつく映画はほとんどの場合マニアックな映画で、その世界に埋没できるかできないかによって、その映画の評価は全く違うものになってしまう。 若いころ清少納言の枕草子を読み、その世界に深い感銘を覚えたというピーター・グリーナウェイの『ピーター・グリーナウェイの枕草子』(1996年、イギリス・フランス・オランダ)は、かつて『建築家の腹』(1987年、イギリス・イタリア)という、18世紀に生きた幻想的な建築家ブーレへの熱い思いとそれに伴う自己解体という暗くて陰鬱なテーマを、自己中心的ではあるが(もっともどんな監督だってその映像は自己中心的ではあるが)僕のささやかな想像力を刺激してくれるような退屈なシーンの連続だった映画のことを思い出して、観る前から、欠伸をしないことだけを祈っていた。 京都に生まれたナギコ(=藤原諾子)は幼いころからその誕生日ごとに父親から身体に筆で文字を書かれる体験をしてきた。映像の毒々しさと倦怠感を感じた『建築家の腹』の映像とは違って、『枕草子』はその前半部分の映像がとても美しかった。誕生日ごとに身体に筆が走る現代のモノクロのシーンと、平安朝の清少納言の時代のカラーシーンが交互に展開されて、現在の日本家屋が、僕らの知っている日本家屋ではなくて、抽象化され審美的な要素を伴った家屋であることも、違和感と言うよりは、様式的な美しさを感じさせるに充分だった。外国人の監督の場合、日本と中国をミックスしたような日本観しか持っていない映像をよく見かけるが、この映画はそのミスマッチが審美的な美しさまで昇華されていた。平安朝のシーンもごく簡素ながらその時代のきらびやかさが表現されていた。美術・衣裳を担当したワダ・エミの功績だろう。 もっともこの辺は、枕草子の一節と、筆と墨と、ボディペインティングのシーンのみが執拗に繰り返されていて、それらに興味のない人は、画面を分割してみせる方法とか、映像の美しさとか、グリーナウェイのこの映画に対する積極的な姿勢を楽しむのも一興である。 おとなになったナギコは香港へ行きモデルになり、成功する。いろんな書家に身体をさらけ出して文字を書いてもらうが、父親が書いてくれたほどの快楽を覚えず、悶々としているところに、ジェロームという快楽を分かち合える理想のイギリス青年と出会い、今までは、自分の肉体に文字を書かれることに歓びを感じていたが、ジェロームの肉体に文字を書き始め、文字を書くという快楽を得る。 ジェロームの愛人である男色家の出版社の社長はまたナギコの父親の相手でもあり、ジェロームと出版社の社長の関係に嫉妬したナギコは、ジェロームが自殺したことも手伝って、父親の仇でもある出版社の社長に「十三の書」を男の肉体に書きつけて送りつけ、最後の書「死の書」を観た出版社の社長は「死の書」を肉体に書きつけていた男に自ら望んで殺されて、ナギコの愛と復讐は終わり、子どものできたナギコはその子の身体に文字を書き始める、という輪廻転生をも暗示させる単純だか複雑だかわからないような物語だったが、肉体に書かれた文字を鑑賞するといったマニアックなシーンを除けば、それなりおもしろい映画だった。 書への偏執狂的気質を持つ男色家の出版社社長を演じたヨシ笈田という役者と狂言廻し的な役を演じた吉田日出子の二人が良かったし、ジェロームが死んだ後、ジェロームの皮膚を剥がしてそこに書かれていた文字を一冊の本にしてしまうというマニアックさは形を変え、誰にでもあるものである。 14)ヒトの孤独 ヒトは誰も孤独である。たとえ愛する人が傍にいたとしても、ヒトはヒトとして持たされている「孤独」を生きるしかない。それはたぶん、遠い昔、僕らの祖先が肉食獣の遠吠えに怯えながら、火も持たず、洞穴で家族が抱き合って、夜の闇と死の恐怖に耐えていたころの記憶を古い脳が記憶していて、肉食獣も夜の闇も、あるいは死の恐怖さえ克服したと傲慢な思いで生きている僕ら現代人に、その頃の記憶がひっそりと生きている古い脳が、ヒトは孤独と恐怖を知ることで、他者との出会いを確かなものにしていくことができるかも知れない、ということを思い出させようとしているのかも知れない、と思っている。 『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1972年、イタリア・フランス、ベルナルド・ベルトルッチ監督)はその前評判の騒々しさとは全く逆に、静謐で示唆に富んだ映画だった。 安宿を経営するフランス人と結婚していたアメリカ人ポールはその妻が死んだ日、アパートを探す若い娘ジャンヌと貸しアパートの一室で出会い、なんとなくセックスをしてしまう、と一見、「インモラル、退廃的」と見間違うような出だしだが、まだ31歳だったベルトルッチが、45歳のパリのアメリカ人の孤独(そのフランス人の妻は安宿の賃貸人と不倫関係にあった)と20歳のブルジョワの娘の孤独を同時進行させたそのことに敬意。 中年男ポールは、子どものころの記憶は悲しくて嫌なことばかりで(だからパリに逃げてきているのかも知れないが)、一方、ジャンヌの子どものころの記憶は何不自由のない楽しい記憶だけである、そのことを共に告白するシーンはポールの屈折した人生と、ジャンヌの何不自由のなかった空虚さを暗示させていて、興味深かった。 また、この映画は屋内シーンと屋外シーンの二つからなっている。 屋内シーンは、見栄えもパッとしない中年男と、若い娘のセックスの限りを尽くす愛欲シーンであり、そこには精神的な空白を肉体で埋めようとしても埋めきれないし、肉体的空白のため相手の精神を求めてもその空白は埋めきることができない、というヒトが持っているヒトとしての孤独を生きていかなければならなくなった男女の姿が描かれ、屋外のシーンでは、ジャンヌの婚約者であるTVディレクターとの健康的な日常が描かれているが、その若くて健康的で世間的にも成功しようとしている若い婚約者との健康な日々になんとなく満足できないでいる。だから、アメリカ訛りのフランス語を話す、「10年後には車椅子に坐っているかも知れない」さえない中年男との刹那的で出口のない愛欲に身を任すことで婚約者との健康的な生活でも癒すことのできない孤独を見つめている。その陰影がこの映画のテーマのひとつでもある。 ジャンヌがポールとの肉体だけの関係に耐えきれなくなり、その焦燥感を婚約者に八つ当たりする地下鉄のプラットホームのシーンは激しくて悲しいシーンだった。 しかしジャンヌは婚約者よりもポールを選ぶ。ところが、選ばれたポールは、姿を隠す。孤独を癒すために求め合った二人が、孤独を癒すことの恐怖から逃げている、と解釈してもいいかも知れないが、中年男はもしかしたら若い娘との「日常生活」という孤独を拒否したのかも知れない。 街で再会し、タンゴのダンス大会の会場に迷い込んだポールとジャンヌだが、そこでのポールの狂気に近い行為に別れを決意するジャンヌを追ってアパートまでやってきたポールはジャンヌに撃たれてしまう。ベランダで眠るように死んでいるポールを前に、「この人は誰、私の知らない人」というようなセリフを吐きながら(ずいぶん昔の映画で正確なセリフは覚えていないが、自己も他者も存在しない、というようなことを思わせるセリフだったと思うが)ジャンヌが立ちずさんでいるところで映画は終わるのだが、人は時としてこのような孤独に絡み取られる瞬間がある。 15)パレスチナの映画 常に戦闘態勢である中東の映画を戦争のない日本で観ながら、あれやこれやと、したり顔をするのはなんとなく恥ずかしい。1945年8月15日以降の日本に生まれた者には、その数だけの幸運があって(不幸もある、などとしたり顔はしたくない)、僕はその幸運をどのように処置していいのかわからないままここまできた。(当然、処置の仕方のわかっている、と自信をもって言える人たちもいるだろうし、それはそれで口をはさむ気もないのだが)。 僕が生まれたときからずうーと、日本という国がどこかの国と、宗教を賭け、国境を賭け、政治体制を賭けて闘っていたとしたら、月曜日と木曜日の朝8時までに、燃えるゴミと燃えないゴミ、プラスチックとビン、乾電池などに分別して、指定場所へ出す煩わしさから解放されて、教条主義的に、無味乾燥な心情を声高に吐き出して闘うことに疑問さえ持たない日常が繰り返されていたのかもしれない。 『ガリレアの婚礼』(1987年、パレスチナ、ミシェル・クレイフィ監督)は、パレスチナ人の村長が、イスラエル軍の司令部に息子の結婚を理由に夜間外出禁止令と集会禁止令の解除を頼みに行くところから始まる。はじめは渋っていた司令官も、パレスチナ人にたいして寛容なところを見せる絶好の機会だという部下の進言で司令官や将校の出席を条件に結婚式を許可する。 映画は村中挙げて飲めや歌えの結婚式の一日をパレスチナの問題を(などと偉そうに言えるほど「問題」を知っているわけではないが)凝縮した形で描いている。この機会に司令官を暗殺しようという過激派がいたり、彼らを押し止めようとする穏健派たちがいたり、イスラエル軍の秘密警察が村人のなにかにまぎれこんでいたり、村の周辺は地雷源であったりと、結婚式と平行してさまざまな現実を垣間見せてくれる。 クライマックスは、初夜のシーツである。花嫁は処女であった証拠に血で汚れたシーツを出席者にさし示さなければならないが、花婿は、父親がイスラエル軍の出席を認めたことで屈辱感でいっぱいになり、勃起さえしない。ついに花嫁は自分の手でシーツに血を流してこう言う。「これが女の名誉なら、男の名誉はなに?」 答えは当然、イスラエル軍に対するテロだろう。 しかし、この映画のラスト、結婚式の夜が明けた未明、村長の末の息子、まだ小学の低学年ぐらいの子供が、村の騒々しさから抜け出して、大木の下で眠りにつくシーンがあるが、彼が見る夢はなんだろうとおもわせて、やっぱりそれは希望的な夢だろうとおもわせるシーンで映画は終わっている。 現実社会では、パレスチナ暫定自治などが言われているが、憎悪と混乱と屈辱と混迷のなかにも、一縷の希望を、この監督は差し出して映画を閉じていることは、やはり注目しなければならないだろう。 人間は誰も殺したり殺されたりしたくないだろう、と思っていたら、アラブの大義のもとでは、自分の身体に爆弾を巻き付けてでも敵は殺すものであるらしい。 16)鳴らない口笛 『ジャッカルの夜』(1989年、シリア、アブドルラティフ・アブドルハミド監督)というシリアの映画をはじめて観て、上質で想像力豊かな映画だったことにびっくりしながら、知らない国の映画がもっともっと高知で上映されればいい、と思ったが、400人少しはいるグリーンホールには、無料だというのに、数えることができる人数しかはいっていなくて残念だった。 この映画は、農夫カマールの一家を描いていて、監督の視線がくっきりとしている映画だった。 カマールは家族を引きつれて農作業に行くときは自分一人ロバの背中に乗って行くような絶対的な存在だが、夜、家の周辺を徘徊するジャッカルの叫びをやめさせる口笛が吹けなくて、妻がその役を代行している。街へ出かけた折り、ジャッカル退治の笛を買ってきたりするが、役に立たなくて妻の口笛に頼りきりである。 長男は街の大学に行っているが、父親に反発してトラクターの運転手になる。長女は金持ちの中年男と結婚し、次女は妊娠をして男と駈け落ちをする。次男は戦争に行き、戦死してしまう。労働力の減ったカマールは値段の暴落したトマト栽培から値段のいいオレンジ栽培に移行し、散水機など農機具を導入するがうまくいかない。妻にも死なれたカマールは最後に残った三男を町に出て行かせ、一人ぼっちになってしまう。 嵐の夜、家の周りを徘徊するジャッカルの叫び声にむかって、鳴らない口笛を鳴らしつづけて嵐のなかをさまようところで映画は終わる。この、どうしようもない絶望とやりきれなさは、シリアの現実であるとともに、すこし視点をずらせば、平和だといわれている日本に住む僕たちの現実を逆照射している、と言ってもいいのではないだろうか。 シリアのジャッカルの叫び声はカマール一家の耳に届くからいいが、僕たちの日常で叫ばれている叫び声はほとんどの場合、僕らの耳に届かない。ときどき叫び声が聞こえても、僕らは擬似口笛でその場をしのいで、危険は去ったと錯覚している。そんな生活が僕たちの基調をなしているのでは、となんとなく居心地が悪くなりながら、ラストシーンを観ていた。僕たちは必死になって鳴らない口笛を鳴らしながら、見えないなにかにむかっていった記憶があるだろうか。問題をいつも先送りして、自分自身をもごまかしながら、ここまで生きてきたのではないだろうか、と。 この映画で描かれているのは、戦争でも政治でも宗教でも、抽象的概念でも、形而上的哲学でもない。農夫の一家の日常生活が丹念に描かれているだけだ。夫と妻、親と子、姉と弟、兄と弟、野菜の暴落、荒地での農作業、近代的農機具への模索、葬式、兄弟喧嘩、親子喧嘩、恋愛、人妻の性的誘惑、部屋いっぱいのヌード写真、ラジオでの娯楽、洗濯、夕食の支度、結婚、突然の死。特異な状況を設定して劇的効果を高めることよりも、日常生活を描くことによって、生存と死の矛盾と葛藤、それらの必然的帰着である孤独が鮮明に浮き上がってくる。 繰り返される単純な日常ほど孤独なものはない。僕のように中年になると、劇的なるものへの憧れはとっくに失われている。あるかなきかの幻に身を委ねる快楽はすでに過去のものだ。だからといって、自分自身や現実生活に絶望するほどの勇気も虚栄もない。わずかばかりの想像力と感性で現実生活のしっぽにしがみついて生きている。 17)鏡のなかの自己 精神分析理論家として著名なジャック・ラカンが心理学講義に使ったという映画『エル』(1952年、メキシコ)は、ルイス・ブニュエルの作品だが、高知にいるとブニュエルの映画が映画館にかかるということなど稀で、確か『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』か『自由の幻想』をグリーンホールで観ただけで、あと、『アンダルシアの犬』とか『小間使の日記』などはNHKのTV放送で観た記憶がある。 『アンダルシアの犬』(1928年、フランス)は28歳のブニュエルがサルバドール・ダリと共同執筆した「シュールレアリズム映像」で70年経った現在でも鮮烈で刺激的で残酷で想像力豊かな作品である。 その点、『エル』はブニュエルの思考過程がそのまま差し出されている作品だった。 敬虔なカトリック信者で大金持ちのフランシスコはグロリアという女性に一目惚れし、婚約者のいた彼女と強引に結婚をする。品行方正な紳士と思われていたフランシスコは新婚早々グロリアに接近する男性すべてに嫉妬し、グロリアの彼らと関係を妄想し、グロリアを家の中に閉じこめてしまう。 嫉妬は誰にでもある。嫉妬心がないほうがおかしいくらいかも知れない。そして僕ら凡庸な人間は、「嫉妬心も程々だよ、奥さんを信じてやりなさい」と凡庸な言葉で忠告をしたりする。その忠告の凡庸さゆえに嫉妬する心はますます膨大し、制御できなくなる。 フランシスコは妻に嫉妬心を告白しながら妻の膝の上で弱音を吐くが、妻が凛としてそれを肯定すると半狂乱になって妻を打ち据えるし、ロープで縛ろうとして拒否されたとき、激しく後悔して泣き崩れるし、他人に知られることに極度に臆病になっている。ここには統一された自我を喪失したフランシスコがいる。 グロリアは母親に相談するが、反対に夫婦生活では妥協も大切だと諭され、神父に相談しても、フランシスコは人格者でそんなことをするはずがない、とさえ言われてしまう。最後にはかつての婚約者に相談するが、その現場をフランシスコに見られてしまい、ロープで縛られ剃刀で切られそうになったり、塔から突きとされそうになったりして、フランシスコの許から逃げ出してしまう。 グロリアの後を追ったフランシスコは、教会で、神父はじめ信者全員が、自分を嘲笑しているという幻想にとらわれて、神父を襲ってしまい取り押さえられる。 時が過ぎて、教会のなかで病んだ心を癒しているフランシスコを、再婚したグロリアと婚約者が訪れ、その傍らにはフランシスコという名の男の子がいる。彼らが帰った後、神父に「もっと修行しなさい」と言われたフランシスコが小道をジグザグに歩いているところで映画は終わる。 僕の貧しい知識でこの映画を語ると、フランシスコは略奪同然で奪った妻と幸福な結婚生活を送ろうとするが、新婚早々妻に言い寄る男がおり、妻も満更ではない、と確信的な被害妄想に陥り、結婚生活において幸せになるという権利を妻や妻に言い寄る男に侵害されたと思いこみ、妻に言い寄る男に暴力を振るったり、妻を殺そうとする。妻を殺すことでフランシスコは妄想に終止符を打つことができるのだが、それが果たせず、フランシスコは自己を自己と認識させてくれて、なおかつ、フランシスコに統一的な自己のイメージを映し出してくれる鏡像のようなグロリアを見いだせなくて、自己が分裂していったのである。 フランシスコが自己を取り戻せるのかどうか、それは語られていないが、僕たちが自己を知る唯一の手段は、鏡のなかに映っている自分でしかない。左右対称に映っている自己でしかない。そして、鏡の前から離れると、自己はいなくなってしまう。 18)エディプス・コンプレックス 「生まれてくる子どもによっておまえは殺されるだろう」というアポロンの神託によってテバイの王ライオスは生まれてきた子どもを殺すように命じるが、命じられた家来は殺すことが忍びがたくて山中に捨ててくる。捨てられた子どもは羊飼いに拾われてボリュボスという王の許で成長する。 それから10数年、女神ヘラの怒りをかったテバイの町は怪獣スフィンクスによって、呪いをかけられていた。ライオスはふたたび神の信託を聞くため馬車を飛ばして、運命の三叉路に通りかかる。 一方、ボリュボスの子どもとして成長したエディプスは、ある宴会の席で、おまえはボリュボスのほんとうの子ではない、と罵られ、その真偽を確かめるために神託を聞きにデルポイに行くが、そこで聞かされたことは、おまえは母親と交わり父親を殺すであろう、という絶望的な神託だった。エディプスは国へ帰ることをやめ、国とは反対の方角へ歩きはじめ、運命の三叉路に通りかかる。 馬車のライオスから、道を譲れといわれたエディプスは、神託の絶望感から自暴自棄になり、それと知らず、父親を手にかけてしまう。 その足でテバイにはいったエディプスはスフィンクスの謎、「同じ名で呼ばれながら、2つ足、4つ足、または3つ足となるものがいる、これほど姿や背丈を変えることができるものは何者か」という謎をいとも簡単に解いて、町の窮状を救ったエディプスは町の者に推されて、母である王妃イオカステと結婚してしまう。 王位についたエディプスは4人の子どもをもうけ、平穏な日々を過ごすが、テバイの町を凶作と疫病が襲いはじめ、エディプスは盲目の予言者テイレシアスから真実を聞かされ、絶望し両眼を突き刺して放浪の旅に出る。 というのが、かの有名なエディプス王の物語の触りである。 ピエル・パオロ・パゾリーニはその話を題材に、彼特有のアクの強い映像で『アポロンの地獄』(1967年、イタリア)をつくった。僕は彼の荒々しくて、そのくせ同性愛者特有のきめの細かく神経の行き届いた、フィルムを切ってしまえば血が吹き出そうな映画が好きで、彼の映画は好んで観た。 同性愛のもつれから少年に殺されて遺作となってしまった『ソドムの市』(1975年、イタリア)では人糞を食べるシーンがあって、パゾリーニの映画だからあれはチョコレートなどの模造品ではなくて本物の人糞だと思うと急に吐きそうになった記憶がある。映画館で吐きそうになったのはあれが最初で最後だった。 ところで、このエディプス王の物語から、ジークムント・フロイトはあの有名な「エディプス・コンプレックス」という理論をうちたてる。 簡単に書くと、男の子は母親を欲望の対象とし、父親をライバルとしてみるようになる。かつては信頼し、尊敬さえしていた父親に嫉妬し、去勢されるではないだろうかと不安になり、その存在を呪い、死を望むようになる。異性の親に愛されたいという欲望と、同性の親に愛着を抱きながらも亡きものにしたいという、父という問いを中心にすえた精神分析の理論をフロイトは編みだした。 畢竟、「知る」ということはいままで離れていたものを結びつけ、無意識のうちに存在していたものを明らかにすることであるかも知れない。 なお、先のスフィンクスの謎の答えは、幼児の時は4つ足でハイハイをし、そのうち2本足で立つようになり、年をとると杖をついて3本足で歩くようになる「人間」であり、その問いの背後には、「自らを知れ」という謎が隠されているのも、神話を題材にしたお話しとしては十二分にできすぎている。 19)難解な映画 その映画が難解であるかどうかはたいした問題ではない。ストーリー展開についていけなければ、映像を楽しむのもいいし、音楽を楽しむのも、カメラワークを楽しむのもいいし、あるいはその難解さを楽しむのも、映画だけに許された特権である。 デビッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』(1997年、アメリカ)は彼の作品のなかでも『イレイザーヘッド』(1977年、アメリカ)『ブルーベルベット』(1986年、アメリカ)の系譜に属する難解な映画だろう。 テナーサックス奏者フレッグとレネエ夫婦の許に奇妙なビデオテープが送られてくる。自宅が映っていただけのテープだったが徐々にエスカレートし、夫婦の寝室が撮られていて、彼らの家に住んでいるという謎の男からの電話もかかりはじめる。そして、フレッドは妻殺しで警察に捕まり、第一級殺人で死刑を宣告されてしまう。 ところが、刑務所のなかでフレッグはピートという若者に入れ替わってしまう。釈放されたピートはギャングのボス・エディーの情婦アリス(フレッグの妻レネエと同一人物で、レネエ同様、アンディーという男とバーで出会って、ポルノ映画に出ていた、と告白する)に惚れ、ボスの目をかいくぐって情事を繰り返すが、そのことはボスに知られることになり、エディーの友人アンディー(フレッグ夫婦の友人)を殺して、金目の物を奪って古買屋に売りつけて逃げようとするが、その古買屋が謎の男と同一人物で、逃げ出したピートはいつの間にかフレッグに入れ替わってしまう。 「ロスト・ハイウェイ・ホテル」にはいったフレッグはそこで妻のレネエとエディーの情事の現場を見、エディーを殺してしまう。その殺人には、例の謎の男も協力するのだが。妻に会いに自宅に戻ったフレッグは警察に発見され、夜のハイウェイを逃げ回るが、フレッグとピートが同時に現れはじめる、という「気が変になりそうな」映画だった。 デビッド・リンチ自身はこの映画を「サイコジェニック・フーガ(心因性記憶喪失)」と言っているらしいが、暴力、死、セックスが氾濫するこの奇妙な映画は、僕たちが安易に消費している日常に悪夢を持ち込むことで、日常性が揺さぶられ、ひいては人の存在とは何かという問いが成立するようになる。 『ブルーベルベット』でも、父親を見舞う男が、路上で切り落とされた耳を拾ってしまうことで、非日常の迷路に迷い込んで、自我が成立しなくなる、という物語なのだが、この映画でも、人格が入れ替わることで、自我の獲得と自我の放棄という精神分析医の喜びそうなテーマが隠されている。 フレッグとピートの前にはいつも謎の男が神出鬼没するが、この謎の男はこの物語の謎のすべてを握っているらしいが、いつも意味深長な言葉でフレッグとピートを不安にさせるだけの存在であるが、その男はフレッグとピートが潜在的に隠し持っている欲望の顕在化としてみるのも一興である。 たぶんこの映画は、映画専門誌などを読めば、一流の知識人が深層心理などのキーワードを使っていろいろ解説してくれているだろうが、映画雑誌もパンフレットも読まない僕は、自分自身の貧弱な想像力でこの映画を楽しまなければならない。僕自身の心がどう揺さぶられたかを自分自身に問うことが、映画だと思っている。 映画は、観た人の数だけある。 20)TVに喰われた男 虚構の世界と闘う、というとすぐに思い出されるのは『ネバーエンディング・ストーリー』(1985年、西ドイツ、ウォルフガング・ペーターゼン監督)だが、そこでは一人の少年が、書物のなかにはいりこんで、ファンタジアという国を襲ってくる「無」と闘うという哲学的なテーマのミヒャエル・エンデの原作を噛み砕いて映像化していておとなが観てもおもしろい作品だった。 もっとも、「無が襲ってくる」という認識は『モモ』(1986年、西ドイツ・イタリア、ヨハネス・シャーフ監督)の「時間泥棒」と並んで、容易に認識できるものではないのだが。 TVにエネルギーを吸い取られるという『アキュムレーター 1』(1994年、チェコ、ヤン・スビエラーク監督)は、前二作のように「無とは何か」「時間とは何か」といった人間の基本的な問題を横に置いて、「エネルギー喪失症」という臨床的な方法論で語っていて少々物足りなかったし、TVにエネルギーを吸い取られる、という発想自体手垢の付いたものではないのか、という物足りなさはあったし、虚構の世界のセットや飛行機が墜落しそうになるセットの戯画的な描き方もまた物足りなさを感じたが、主人公のオルドがいろんな種類のTVのリモコンを買いあさり、眼にするTVをそのリモコンで、まるで西部劇の早撃ちガンマンのようにTVを消し廻るところなど、コミカルなシーンが程良く楽しめて二時間近くをアッという間に観終わってしまった。 原因不明の「エネルギー喪失症」に罹ってしまった測量技士オルドは自然のエネルギーを研究しているフィサレクという男に助けられ、TVの向こうの虚構の世界にエネルギーが吸い取られていることを知らされ、悪戦苦闘の闘いを挑んで虚構の世界から生還する、という物語で、恋人を職場の同僚に簡単に横取りされるさえない測量技士が、美人のバツイチの歯科医を簡単にものにして、ベッドの上で「あなたはすごい」と言わせたり、自然療法を研究していて自然に宿る霊気を自由に扱えるフィクサレが「藁アレルギー」だったり、「エネルギー喪失症」の中年教師がTVのある世界を嫌って、山頂の羊飼いの所に身を寄せると、羊飼いは「心配はいりません。退屈はさせません」と言ってTVを出してくるシーンとか、歯科医のハナが恩師の歯科医と再会するときお互いに歯を見せ合って喜んでいるシーンとか、それなりにブラック・ユーモア的な笑いを計算しているシーンが随所に観られて、楽しい監督だと思った。 もっともこの映画の最大の関心は、どのようにしてオルドが虚構の世界から生還して、バツイチで、子どもはいないと言ったくせにちゃんと女の子がいて、料理なんか全くできない美人の歯科医・ハナと幸せな結婚生活を送れるようになれるかだ。 オルドは、自然や子どもなどからあらゆるエネルギーを溜め込んでそのパワーでTVと対決しようとするが、他人のパワーを勝手に盗むと災いが起こる、とフィクサレに忠告され、まさにその災難はフィクサレの身の上に起こるのだが、思いとどまったところへ、虚構の世界から、まだ生命力がかすかに残っていた「虚構の世界のオルド」がこちら側の世界に戻ってきて、「こちら側の世界のオルド」と合体することで、虚構の世界から抜け出すことができる、という、あっけらかんとした終わり方をしてしまって、最後の最後でもう一度物足りなかったが、「エネルギー喪失症」は相手がTVだけではなく、僕らの日常の至るところに罠をかまえて潜んでいるやっかいな症状のひとつかも知れない。 なお、映画のなかで、クモが巣を張って獲物をしとめるTV番組を流していたが、そのような凡庸なところがいかにもこの映画らしくて、つい笑ってしまった。 ![]() ![]() |