21)美しい映画だった

 映画
『ディア・ハンター』(1978年、アメリカ、マイケル・チノミ監督)は劇場公開当時、とても評判が良くて、アカデミー作品賞や監督賞などたくさんの賞をもらったし、僕の周辺でも「一級品の反戦映画だ」という声が聞かれたが、僕ひとり「所詮、アメリカの映画さ」と天邪鬼を決めこんでいた。
 たしかに、前半延々とつづくロシア風結婚式の描写はすばらしかったし、ベトナムでの捕虜時代に強要されたロシアン・ルーレットの虜になって、戦争が終わったあともサイゴンに残ってロシアン・ルーレットに興じる狂気の悲惨さや、人間の孤独を見いだす故郷の山での鹿狩りなど、どのシーンをとってもいい映画だった。
 でも僕には不満だった。ベトナムに戦いに行って、敗れたアメリカ人が故郷に帰り、心の癒しを求める。では、国を踏み躙られ、あらゆるものを焼き払われ、殺されたベトナムは、ベトナム人はどうなるのか。自分たちが押しかけて行った戦争で傷つき、癒しを求めることがそんなに評価に値するものなのか。ベトナムを、ベトナム人を置き去りにして、心の癒しや安らぎを求めようとするのは、アメリカの驕りではないのか。延々とつづく鹿狩りのシーンも戦争ごっこの延長じゃないか。「所詮、アメリカの映画さ」と鼻先で笑っていた。
 後日、その『ディア・ハンター』を観る機会があった。前半のロシア風結婚式のシーンはやはりとても美しかった。僕らの周辺で見られる、結婚式場のお仕着せの祝福ではなくて、町中が祝福しているシーンは人の幸せの美しい瞬間を画面いっぱいに現わしていた。
 一転して、ベトナムでの捕虜のシーンも、ロシアン・ルーレットのシーンも、戦場という非人間的な(あるいは、とても人間的な)恐怖が美しかった。ロシアン・ルーレットというのは弾丸が6個ぐらいはいる拳銃に弾丸を1個だけこめて、交互に自分の頭を射るゲームである。どちらが生き残るかベトナム兵が金を賭け、アメリカ人の捕虜がそのゲームをするのである。
 運良く脱出はできたが、ニックという兵がロシアン・ルーレットの虜になって終戦後のサイゴンに残ってロシアン・ルーレットにうち興じるシーンも、反語的ではあるが、美しかった。
 ニックが生きていることを知った親友がベトナムへニックを連れ戻しに来て、アメリカへ連れ戻そうとした瞬間、一発の弾丸がニックの脳を吹っ飛ばすのは、そうとしかあり得ない展開で、悲しくさえあった。
 戦争も終わって、故郷での鹿狩りのシーンも、断崖に凛と立つ鹿の姿が美しかったし、鹿に照準を合わせるロバート・デ・ニーロの孤独な姿も美しかった。そして、初見から何十年かたって再会したこの映画に昔のような反発は感じなかった。
 というのは、以前、NHKのTV番組で、ベトナム戦争から帰ってきた若者たちが、文明に復帰できず、森の奥深くで心の癒しを求めながら集団生活をしているという、ベトナム後遺症とでもいうべき若者たちの番組を観ていた影響があったからだとおもう。そして、アメリカ人は決してベトナム人の心の癒しを描くことはできないのだし、自らの癒しを描くことによって何かに到達できるものがあればそれだけでいいのかもしれない、と思った。アメリカから戦いに行った人たちと、彼らを受けいれた人たち、また、彼らと殺しあった人たちも、アジアの片隅で「経済」というのっぺらぼうな魔物に尻の毛までぬかれつづけていた日本人にはとうてい理解しえようもない傷を負って、それぞれの方法で癒しつづけているのだ、と考えられるようになった。



22)獄中の映画監督

 「獄中の映画監督」というセンセーショナルな宣伝をされた監督がいた。政治犯としてトルコのイスパルタの刑務所に入っていたユルマズ・ギュネイのことである。
 彼が自ら書き、獄中から演出指導をしていた
『路』(1982年、トルコ・スイス、シェリフ・ギョレン監督)を完成させるために3日間の仮出獄を期にフランスへ亡命するときの様子を『路』の製作に加わったスイスの映画配給会社代表のドナット・コイシュ氏は「トルコから出る船の上で私はしてやったりと騒いでいたが、ギュネイは黙って遠ざかる祖国を見つめていた」というようなことをどこかに書いていた。
 僕にはわからないことだが、トルコでは、人口の4分の1を占めるクルド人は近年までトルコにはいないとされ、彼の死後、上映禁止がとれたギュネイの映画もこの映画だけは、「クルド地方」という字幕がワンカットあるだけで、いまだに上映禁止だそうだ。(と言うのは93年当時で、98年はどうなのかわからない)。
 ギュネイは弾圧されつづけたクルド人で当時の政府に常に弾圧されつづけて、亡命後47歳で死んだが、ギュネイはクルド地方の封建的な文化を批判する視点を持ちながらも、その文化から自由になれない自分を常に見つめて苦しんでいたという。
 『路』は仮釈放になった5人の囚人のそれぞれの運命を描いているのだが、五つのエピソードの中でもっとも興味深かったのは、セイットとその妻ジネの物語だ。
 ジネはセイットが獄中に繋がれているとき、生活費を稼ぐため身体を売ってしまう。身体を売った妻は夫の手によって殺されるという慣習に従って、セイットは身体の弱っているジネを雪深い山道に置き去りにする。
 弱った身体でセイットに助けを求めるジネを無視して、雪に閉ざされた道を黙々と歩くセイットの無表情な顔がいまだに印象深い。慣習とは文化である。夫を裏切った妻は夫によって殺されなければならない、という前近代的な文化の中でギュネイはその矛盾をセイットの寡黙な顔に集約させていた。
 銀行強盗をしたとき義兄を見殺しにしたオメットは義兄の家族によって妻エミネと子どもから引き離されるが、妻は子どもを連れて夫の後を追う。ここにはジネのエピソードが前近代的であったのに較べて、エミネのエピソードは前近代を超えているように思われたが、久しぶりにあった夫婦が列車のトイレで身体を求めあっているところを乗客に見つけられて殺されてしまうシーンは、トルコにおける、宗教の問題を考えさせられて印象的だった。
 クルド人ゲリラのオメットも、恋人がいながらも、闘いで亡くなった兄の代わりに兄嫁と結婚しなければならないという慣習に従う話だが、日本にいると、この映画が背負わされている文化と個人の闘いが理解できるようで、本当は何にも理解できないような複雑な心境になってしまうが、僕がいまさらトルコの文化を体現できるはずもなく、「トルコ」と出会うこともなく、ただユルマズ・ギュネイの映画を観ることしかできない。
 なお、ギュネイが亡命した後、トルコに残っていたギュネイのフィルムはすべて焼却処分にされてしまったという。その政治の暴虐性の上にギュネイの『路』がある。



23)ヌーヴェル・ヴァーグ

 21歳のフランソワ・トリュフォーが「カイエ・デュ・シネマ」誌(1954年1月第31号)に「フランス映画のある種の傾向」という論文を発表し、古き良き時代のフランス映画の「良質の伝統」を全否定し、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の一主張でもある「作家主義」を唱えたときがヌーヴェル・ヴァーグのはじまりであったとも言われている。
 この「新しい波」は、フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロルらフランスの若い映画作家たちが推進し、映画界にインパクトを与えたという。
 僕は1948年生まれだから、映画を観出した頃には既に「ヌーヴェル・ヴァーグ」という形容詞をつけた映画が一般的に存在したから「新しい波」の出現の衝撃は知らない。
 批評家には評判が良かったが、一般には不評だった映画のひとつに
『去年マリエンバートで』(1961年、フランス、アラン・レネ監督)がある。この映画は、小説の世界での新しい波=ヌーボー・ロマンの中心的な小説家、アラン・ロブ・グリエが脚本を書いていて、この映画は、小説家と映画の関係、映像作家と映画の関係、観客と映画の関係、が試行錯誤的に提出されていて、商業的な成功を狙ったストーリー作りや、観客へのサービスなどどこにもなくて、過去と現在、現実と幻想が交差するなかで、映画という概念を解体、再構築することにより、観客との関係を模索しているかのようで美しい映画ではあったが、よほど心してかからないと、眠むたくなるだけである。
 そのアラン・ロブ・グリエが監督した映画
『囚われの美女』(1983年、フランス)をNHK・TVで観る機会があった。30年以上も前の高校時代に熱中して読んだ小説家のひとりだから十分に期待をしたが、期待したほどではなかった。美女を拾った男が迷い込んだ館で繰り広げられる、幻想と快楽の物語だった。それだけの映画だ。だから、その幻想の世界を楽しみ、そこで語られるセリフを楽しむ映画だが、なんとなく楽しめなかったのは、こちらの体調のせいにしておこう。
 それと同時にジャン・リュック・ゴダールが60歳の1990年につくった
『ヌーヴェル・ヴァーグ』(フランス・スイス)というタイトルの映画も放送していた。
 財界の実力者エレーナの前にロジェという男が現れるが、湖に落ちて死んでしまう。やがて、ロジェにうりふたつの弟が現れ、エレーナは彼を愛し始めるが、はたして彼はロジェの弟なのか、それともロジェ本人なのか、という単純なストーリーで、なんの結論も出さないまま映画は終わってしまうのだが、そのなかではさまざまなことが語られている。
 恋愛について、人生について、権力について、経済について、ブルジョワについて、それらのことが抽象的、概念的に、かつ、それらのエッセンスのみがダイナミックに語られていて、実のところ、それらのセリフを追いかけるだけで1時間半が終わってしまったようなところがある。刺激的なセリフも何本かあったが、具体を回避する「ゴダールの独白」に終始しているようなところがあった。映像もそんなに刺激的ではなかった。
 なお、この映画には55歳になったアラン・ドロンが出ていて、懐かしかったが、年老いた顔を見たい俳優と、見たくない俳優がいる。



24)ハワード・ホークス

 子どものころ、大阪の伯母の家に遊びに行くと、夜、年上の従兄が近所の映画館へ連れていってくれた。その頃大阪の小さな町にも映画館が三軒あり、どこかで西部劇をやっていた。西部劇のヒーローといえばジョン・ウェインで、アメリカの保護者であるようなジョン・ウェインが悪の一味を退治したり、インディアンにさらわれた女の子を救出したり、危機一髪の騎兵隊を一人で助けてしまう、といったスーパーヒーロー的な活躍を観に行っていた。そのようにして、ハワード・ホークスの
『赤い河』『リオ・ブラボー』『ハタリ!』も観た。後年『エル・ドラド』『リオ・ロボ』なども観て、ハワード・ホークスの西部劇はジョン・フォードの正義と勇気が前面に押し出された西部劇ではないことを知った。
 
『エル・ドラド』(1966年、アメリカ)を例にあげると、西部の男同士の友情が悪を制する、という西部劇の王道を外れてはいないが、ロバート・ミッチャム演じる保安官は女に振られてアル中になり、悪徳牧場主の横暴を許しているだけで、町中の笑いものであり、その友人であるジョン・ウェインは女に撃たれた銃弾が背中の神経を刺激して時として右半身が麻痺する、という格好良さと不様さを共有しているという設定である。
 ラストの、悪徳牧場一味との撃ち合いのシーンは、西部劇ではもっとも様式美を大切にするシーンであるが、この映画では、アル中から立ち直りかけてはいるが完全にアルコールから抜けきっていなくて、なおかつ右足を銃で撃たれた傷を引きずったままの保安官と、この窮場に右半身が麻痺してしまったジョン・ウェインのコンビが不様な格好で敵をやっつけるというハワード・ホークスならではのシチュエーションである。
 人物の設定はそうであってもハワード・ホークスの演出は骨太で起承転結がはっきりしていて、途惑いのないシーンがつづいて娯楽映画として安心して観ていられる。
 このハワード・ホークスについて、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの火付け役になった「カイエ・デュ・シネマ」誌の1953年5月号にジャック・リヴェットが「ハワード・ホークスの天才(訳・鈴木圭介・フランス文学専攻)」というハワード・ホークス論を書いている。リヴェットはホークスの喜劇映画を主に取りあげて、様式的な美しさ、論理性、表現主義などを礼賛している。
 ヒッチコックとともにフランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を与えた映画監督としてハワード・ホークスの名前が引き合いに出されている。ヌーヴェル・ヴァーグは作家主義を第一義に唱えていたので、その例証とされたのかもしれないが。
 ジャック・リヴェットといえば、
『美しき諍い女』(1991年、フランス)を観たことがあるが、彼の映画を観てみると、彼がハワード・ホークスについて語ったことが、すべて彼の映画のなかに込められていて興味深かった。鈴木圭介の言葉を借りるなら「著しい観念への傾斜は、批評ばかりでなく映画作家リヴェットの特質でもあるようだ。映像と観念の間には彼の場合極めて直截で密接な結びつきがある」ということになるのだが、一本しか観る機会のなかった僕にはその一本の映画はリヴェットの映画的観念を詰め込んだ作品のように思われて、鈴木圭介の言葉に納得するしかなかった。
 しかしハワード・ホークスは骨太な娯楽映画を撮りつづけて死んだ。勧善懲悪のスタイルのなかに少々皮肉めいた人物を設定することで、より楽しい娯楽映画を完成させたのではなかったかと思う。



25)侯孝賢

 台湾の侯孝賢の映画については僕がここで語るまでもなく、大勢の人にいろんな角度から語られ、絶賛に近い評価を得ている監督だから、パスしようかと思ったが、僕も他者の評価をなぞることになるかも知れないが、やはりこの映画に触れないではいられない。
 侯孝賢の映画を観たのは
『恋恋風塵』(1987年)が初めてだった。こんなにも人と風景をやさしく悲しく温かく描くことができるのか、とびっくりした。
 田舎の中学校を出た幼なじみの少年ワンと少女ホンは共に台北の街に就職して働きはじめる。やがてワンは兵役に就き、ホンと文通をしながら兵役が終わるのを待つが、ホンは郵便配達人と結婚してしまう、といった物語だが、アメリカ映画ならキスシーンのひとつもあるのが当たり前のような映画で、侯孝賢は少年ワンと少女ホンの貧しく平凡な日々を淡々と描くことに終始していて、それ以上のことはなにも描かれていない。ワンとホンはときどき台北の街をぶらつき、ワンがバイクを盗もうとするのを止めたり、友人の所で映画を観たりする。それ以上はなにもおこらない。何もおこらなかったからワンが兵役へ行ったのを期に郵便配達人と何かがおこったかも知れないが、そこに何がおこったかはたぶん監督も知らないことだろう。兵役の何年間の間にホンの心の中に何がおこったか、監督すら知らないことだから描きようがない、といったふうに突然ホンはいなくなる。
 台北の街でのワンとホンは誰が見ても恋人同士であるが、侯孝賢はそのことに触れない。ホンがなぜ郵便配達人と結婚するのかということにも触れようとはしない。黙ってその行方を見ている。監督が登場人物の行方を黙って見ている、そんな映画がこれまであっただろうか。そのことだけでも感動してしまう。
 次に
『悲情城市』(1989年)を観たが、その映画も語り過ぎるほど語られているので、『冬冬の夏休み』(1984年)と『童年往事・時の流れ』(1986年)という侯孝賢の自伝的な映画について触れてみたい。
 侯孝賢の映画を観て、僕らの年代が懐かしさを感じるのは(これももう嫌というほど語られているが)その台湾の風景が昭和20年代から30年代の日本に似ていて郷愁を感じるからであり、僕らは侯孝賢の映画に、子どもの時代の記憶の中で浄化して、好ましい思い出として残っている過去のみを反映させることで侯孝賢のフィルムの中に自分の感情を増幅させているに過ぎないのではないか、と思いながらそれらの映画を観た記憶がある。確かにそこで生き生きと動いている少年はガキだった僕らの幻影ではないのか。畳敷きの家屋に住んでいるのも懐かしいが、それらは日本統治の置きみやげである。
 そういえば、『恋恋風塵』のなかで、兵役に行くワンに誰かおとなが、日本統治時代の兵役に較べて今の兵役は楽なもんだ、というようなセリフを言っていた記憶があって、そこでも日本の傷跡がさりげなく語られている。
 僕らは自らの浄化した記憶をたどることなしにそれらの映画を単純に観てしまえなくなっている不幸さがあるのではないか、と思ったりしていたが、それらの不運さを超えて、侯孝賢の映画の数々は、人は劇的な瞬間を生きるのではなく、あるかなしかの日常のなかで単純な日々を繰り返しながら生かされているに過ぎない、というヒトを見る眼が秀逸であると思う。たとえ『恋恋風塵』のラスト、兵役が終わり、ホンにも去られたワンが故郷へ帰ってきたとき、ワンのじいさんが畑へ連れ出して、野菜を植えても台風が来て根ごそぎ持っていかれる、それでももう一度植えるんだ、というようなことをワンに語ってきかせるシーンが少々鼻についたとしても、である。



26)愛の不毛

 ミケランジェロ・アントニオーニの映画を観たのは
『赤い砂漠』(1964年、イタリア)が最初だった。そのあと『欲望』(1966年、イギリス)を観た。
 テーマは「愛の不毛」ということだったが、とても若かった僕には「愛の不毛」がわからなかったが、工業地帯の煙を吐き出す煙突や、写真家のフィルムに映っていた死体が消えているなど、なんとなく不安をかきたてるような映画だった。
 モニカ・ヴィッティはいい女だった。
 
『情事』(1960年、イタリア)を観たのはずーっと後になってからだった。20代後半、名画座で観た。併映は『甘い生活』だったと思う。昔はこんなビッグな取り合わせが上映されていたのだ。
 地中海を航行している豪華ヨットから大使の娘が消えた。捜索も虚しく発見できなくて、その失踪は自らの意志によるものか誘拐なのかわからないまま、大使の娘の恋人と友人が捜しはじめるが、いつしか「情事」を重ね出すという話だが、やはりまだ20代後半だった僕には、それがどうした、という思いがあった。単純なメロドラマだと思ったし、映像もそんなにすごいものではなかった。
 その当時、恋人の友人と情事を重ねることが「愛の不毛」だと思っていたが、この原稿を書きながらその映画のことを久しぶりに思い出していると、「愛の不毛」とは失踪した大使の娘の心に宿っていたことかも知れない、と思い直している。
 理由もなく失踪した大使の娘の心には恋人との日々が「不毛」だという虚しさが巣くっていて、映画がはじまると同時に大使の娘を失踪させてしまうことにより、この映画はすでに「愛の不毛」を体験させられてしまっているということになりはしないだろうか、と思ってみた。
 もっともこの映画は情事を重ねる関係になった男がある夜、見知らぬ女と一夜の情事をしてしまうが、それを知った女は、うなだれる男の後ろから手を肩に置き、それを許そうとするラストを用意していて、さすがにミケランジェロ・アントニオーニはただ者じゃない、と思わせた。
 時は経て、1995年の
『愛のめぐり逢い』(フランス・ドイツ・イタリア)は4話のオムニバス形式で、プロローグとエピローグをヴィム・ヴェンダースが担当していたことで話題になった。
 旅先で出会った女と愛し合う男は、女の身体に指先を触れるだけで去っていくが、「一生愛しつづけている」という話や、それぞれの配偶者が去っていった女と男がアパートの一室で出会う話や、父親を殺して無罪になったという見知らぬ女との一夜の情事の話や、町で見初めた女の後を一晩つけ廻した男が、彼女は明日の朝、修道女になることを知る、という話など、それを「愛の不毛」と言っていいのかどうかはわからないが、男と女の関係が成熟しない、あるいは、最初から拒否されている、あるいは、肉体と精神の関係が不安定な動きを見せる、あるいは、愛という観念を具体化できない、といったような現代人の不安と、他者との関係性の未熟な在り方を描きつづけていて、そういうテーマのなかで、物語の進行がどうであるのかということよりも、登場人物の心象風景が優先されることによって、ミケランジェロ・アントニオーニの映画を観ている観客はその映像のなかに自己の心象を被せてしまって、つい不安になってしまう、といったトリックのような映像が展開されている、そこのところが「愛の不毛の監督」と呼ばれるゆえんだろう。



27)スティーブ・マックィーン

 捕虜収容所から逃げ出したスティーブ・マックィーンが追いかけてくるナチスを相手に草原をバイクで逃げ回るシーンを観たのは中学2年頃だったと思う。
 ナチスを馬鹿にするかのように巧みにバイクを駆って国境線を逃げ回るマックィーンはたまらなく格好良かった。そのころアメリカ映画にはナチスとの戦争映画が多くて、ナチスに抑圧されている人々を解放する強い正義の国・アメリカ、を宣伝する映画がたくさん日本にはいってきていた。1962年につくられた
『史上最大の作戦』もその種の映画のひとつで、ミッチ・ミラー楽団が歌う主題歌と共に大ヒットした。今から考えてみれば、その格好良さをただ楽しんでいただけの時代だった。
 マックィーンに話を戻すと、追いつ追われつの後、最後は鉄条網に追突して鉄条網に身体を巻き付けて逮捕され、再び捕虜収容所に送り返されたマックィーンはグローブとボールを持って、平然と独房へ入っていくというこれまた格好いい終わり方をする映画
『大脱走』(1963年、アメリカ、ジョン・スタージェス監督)を観て、「エスケイプ」 が「脱走」という意味だということを知った。この頃、仲の良かった同級生とよく映画を観に行ったが、彼は映画で英語を勉強していたようだったが、僕はもっぱら字幕に眼を走らせて映画の楽しさだけを楽しんでいた。
 この映画はドイツ軍の捕虜収容所から米兵や英兵がトンネルを掘って脱走し、ドイツ軍を撹乱する、という話だが、マックィーン以外の再逮捕された軍人たちは収容所へ護送される途中、全員殺されてしまうという、アメリカはこのような非道なドイツ軍と正義と自由のために闘っていたんだという映画だった。
 スティーブ・マックィーンはその前の
『荒野の七人』(1960年、アメリカ、ジョン・スタージェス監督)でも、格好いいガンマンを演じていて、僕のなかではヒーローだった。その映画では、ジェームズ・コバーンのナイフさばきも負けず劣らず格好良かった。
 『大脱走』のとき同様、エルマー・バーンスタインの音楽も忘れられない。
 僕がおとなになるにつれ、マックィーンの格好よさも単なるヒーローではなく、孤独な影を持ったヒーローをも演じるようになった。
 
『ブリット』(1968年、アメリカ、ピーター・イエーツ監督)はサンフランシスコの坂道をムスタングGTを駆ってカー・チェイスするマックィーンが格好良かった。地面を飛ぶ、というのはこのようなことか、と感心しながら観たものだった。あんな格好いいカーチェイスははじめて観た。
 マフィアの犯罪を議会で証言させるために保護していた男を組織の殺し屋に殺されてしまった刑事ブリットが事件の真相を追いつづける、というサスペンス仕立ての刑事映画で、マックィーンは、仕事を優先するため恋人ともうまくいっていない、無口で自己流の捜査をする有能な刑事の役でこれ以上はないという役だった。
 マックィーンはこの後、
『栄光のル・マン』(1971年)でレーサーを、『ゲッタウェイ』(1972年)でメキシコへ逃亡する犯罪者を、『パピヨン』(1973年)で監獄から脱獄する男を、『タワーリング・インフェルノ』(1974年)で高層ビルの火事に立ち向かう消防士の役を、というように70年代を代表する俳優になった。
 いつも無口で、孤独なことが「いい男」のひとつの条件であった時代のヒーローだった。そして、自分の道は自分で切り開いていく、そのストレスを感じさせない時代のヒーローだった。



28)クリーシーの静かな日々

 昔、アメリカにヘンリー・ミラーという小説家がいた。僕らの年代なら知っている人もたくさんいるだろう。「性文学の文豪」と称されていたが、彼の書く小説はダイナミックであると同時にもの悲しかった。
 そのヘンリー・ミラーのパリでの自伝的小説を映画化したのが
『クリーシーの静かな日々』(1990年、イタリア・フランス・ドイツ、クロード・シャブロル監督)だ。
 ナチスの影がヨーロッパを覆いはじめた1935年、あこがれのパリにやってきた新進小説家(=ヘンリー・ミラー)と写真家は娼婦をはじめ女とのセックスに明け暮れる日々を送っていたが、コレットという15歳の少女に出会って、彼女に魅かれはじめる、という戦争前のパリのアンニュイな雰囲気と、人間を解放するのはセックスしかない、という青年の日々が綴られるのだが、監督があのクロード・シャブロルという期待があって、いまにおもしろくなるぞ、いまにおもしろくなるぞ、と思いながらも、おもしろくならないまま観終わってしまった一本だった。
 それでも、クロード・シャブロルらしさが出ていたのは、冒頭に年老いたヘンリー・ミラーが出てきて、パリ時代を回顧するという導入部分である。
 60歳も年の違う若い女性を前に勃起することもならず、夢の中には死を予感させる光景が現れて、焦燥と絶望の中でもなお女の身体に執着している老残のヘンリー・ミラーを4度登場さすことで、性的不能者になってもなお女性の身体を求めつづけるしかない男の絶望感を浮き出させていた。
 そのことによって、パリ時代の放蕩な性生活が青春時代の光と影となって、ヒトは皆、悦楽と陶酔の日々を騒々しく送るのだが、年老いると、その騒々しく活気に充ちた日々が「静かな日々」として取り残されるにすぎない、という、ヒトの一側面を切り取っていることはいたが、なんとなく満足できなかった。
 というのは、もう30年ぐらい前にも
『クリーシーの静かな日々』という映画を観ている。クロード・シャブロルの映画は1990年製作だから当然この映画ではないのだが、監督が誰で、どういう俳優が出ていたのかなんて全く覚えていなくて、映画の中身もほとんど忘れてしまっているのだが、クロード・シャブロルの作品のように色調を落としたしっとりとした作りではなく、それに放蕩な日々の描写もクロード・シャブロルのように控えめではなく、主人公のヘンリー・ミラー役の役者もクロード・シャブロルの映画のようにアメリカ東部を代表するような一見紳士的な男ではなく、どちらかというとより大胆な画面の連続のようであったと記憶しているが、当てにはならない。
 女たちとの放蕩な日々を繰り返して、セックスに自己の解放を求めようとしていたのは旧い映画のほうの印象が強く、精力的で行動力に充ちたアメリカ人という印象も旧い映画のほうが印象が強い。
 で、何を書きたいかというと、新しい映画のほうは老残のヘンリー・ミラーが若い女性と眠っているところで終わっているのだが、旧い映画は乱痴気パーティの後、トイレの中で眠っている女をかき分けて、便器に落ちているパン屑を食べているシーンで終わっている。
 この逞しさと寂しさが共存しているシーンがあるがために旧い映画のほうがいつまでも印象に残るだろう。



29)太陽がいっぱい

 青春映画のナンバー1といえば
『太陽がいっぱい』(1960年、フランス・イタリア、ルネ・クレマン監督)をあげなくてはいけないだろう。と言ってもこの映画がつくられた1960年、僕はまだ12歳だったから、リアルタイムでは観ていなくて、リバイバル上映のときに観たと思うが、いつどこで観たのか記憶にない。
 が、その後も何回か観ていて、いつ観ても色の褪せることのない映画である。
 まず、ニーノ・ロータの音楽がいい。地中海の太陽と海の激しい透明さと、ヒトの持つ孤独を突き放すような耽美的な音楽がいい。
 アラン・ドロンもいい。貧しさからくる嫉妬から平然と殺人をおかしてしまう人間の持つ悪の部分を地中海の太陽と海のように一点の曇りもなくやってのけるアラン・ドロンの孤独な顔がいい。単に欲と妬みから殺人をおかしたのではなく、この殺人はあらかじめ神との契約にあった殺人なのだと言うような顔つきで殺人をおかすアラン・ドロンがいい。
 演出のルネ・クレマンもいいし、カメラのアンリ・ドカエ(
『死刑台のエレベーター』も彼だ)もいい。
 放蕩息子を殺すときのヨットと太陽と海がいいし、殺した男のサインを練習しているアラン・ドロンもいいし、正体がばれそうになりホテルから逃げ出す慌てぶりもいいし、沈めたはずの死体がヨットの舵に巻き付いて陸に上がってくるところもいいし、ラストの海辺のカフェで、予想もしていない刑事がやってきて名前を呼ばれるとカメラがパーンして、地中海の太陽と海を映し出すというラストもいい。
 しかし、この「いい」はたぶんに、僕の思い入れがはいっているから、思い入れの部分をさっ引かなくてはならないが、さっ引いてとしても、「いい」。
 アラン・ドロンは同性愛者の男が殺された事件の容疑者だとか、暗黒街と深くかかわり合っているとか、とかくの噂が先行していたが、60年代、70年代のフランス映画は彼なしに語れないだろう。
 フランスでは、ジャン・ポール・ベルモンドのほうが人気があったらしいが、日本ではアラン・ドロンの人気のほうがすさまじかった。図に乗って
『サムライ』(1967年、フランス、ジャン・ピエール・メルヴィル監督)などという映画もつくってヒットを飛ばした。
 その頃フランスでは「フィルム・ノワール」といって暗黒街を舞台にした映画がかなりつくられていて、アラン・ドロンも
『冒険者たち』(1967年、フランス、ロベール・アンリコ監督)などの青春映画と平行して一匹狼の殺し屋の役を数多くこなしていた。またそれがあまりにもぴったりすぎて、ほんとうに人の一人や二人は殺していてもいいような気がしていた。
 その頃のフランス映画には、ジャン・ギャバンとかリノ・ヴァンチュラとかモーリス・ロネとか個性的な俳優がたくさんいて、フランス映画は「男の臭い」を感じさせる映画だった。
 アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した
『さらば友よ』(1968年、フランス、ジャン・エルマン監督)もまた犯罪映画で、だまされて金庫室に忍び込んだ二人の男が最初は敵対しながらも、徐々に友情を交わし合うようになる、という筋書きで、こんな手垢のついた映画でもヒットして、チャールズ・ブロンソンは一躍人気者になってしまうからびっくりである。映画のラスト、逮捕されたブロンソンが逮捕を免れたドロンに煙草の火を借りて無言で立ち去っていくシーンは「男の美学」だったらしい。



30)ジャズの映画

 植草甚一のエッセイ集を読んでいると、
『マイルス・デイヴィスと「死刑台のエレベーター」』というタイトルで、『死刑台のエレベーター』(1957年、フランス、ルイ・マル監督)の裏話をリアルタイムに語っているエッセイがあって、うらやましいことこのうえなかった。
 ジャズ評論家でもある植草甚一だから書いていることはもちろん、この映画に即興で曲をつけたマイルス・デイヴィスのことで、彼のエッセーを読んでいると、この時代、フランス映画は、ジャズ・メッセンジャーズやセロニアス・モンクなどモダン・ジャズのそうそうたるメンバーが映画音楽を担当していることがわかって、それをリアルタイムに体験できた植草甚一という人の幸運を思わずにはいられなかった。おまけに映画のタイトルのところからラストシーンに至るまでのワンシーン、ワンシーン、マイルスがどんな演奏をしたのかということを詳しく書いていて、さすが植草甚一、と唸らざるを得ないエッセイ集である。なお、植草甚一がこの映画のことを「スリラー映画」と呼んでいるのも時代を感じさせておもしろい。
 『死刑台のエレベーター』はマイルス・デイヴィスの音楽も良かったが、映画も良かった。当然のことながらどこかの劇場でリバイバル上映を観たと思うが、いつどこで観たのか記憶にない。
 完全犯罪を行うつもりが、エレベーターの内に閉じこめられた男と、夫を殺させた女、閉じこめられた男の車を盗んで人を殺してしまう若いアベックの二組のドラマが、マイルス・デイヴィスのトランペットにせかされるようにアップテンポで進み、「ヌーヴェル・ヴァーグを世界に知らしめた一作」ということらしいが、ヌーヴェル・ヴァーグ以前を知らない僕は、こういう映画からはいっていったので、それ以前と比較することはできなくて、ただマイルス・デイヴィスのトランペットの突き抜ける響きが快かった。
 モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、リノ・ヴァンチュラという俳優陣も魅力的だった。
 一方、セロニアス・モンクが音楽を担当した
『危険な関係』(1959年、フランス、ロジェ・ヴァディム監督)はロジェ・ヴァディム独特の官能をくすぐるような映画だったと記憶しているが、あまりにも若いころ観てしまって、印象がはっきりと残っていない。どの年代にどの映画を観るかはその映画との親しみの度合いに微妙に関わってくることだ。もっとも僕はロジェ・ヴァディムは何本か観たが、積極的に観ようとは思わない監督の一人である。
 ジャズを映画で、と言うことになると、
『ラウンド・ミッドナイト』(1986年、フランス・アメリカ、ベルトラン・タヴェルニエ監督)だろう。
 1959年、ニューヨークからパリのジャズクラブ〈ブルー・ノート〉へやってきたサックス奏者の酒とドラッグに溺れた日々を描いているが、この映画はジャズファンが観れば泣いてしまうような映画で、主人公のサックス奏者をデクスター・ゴードンが演じており、そのほか、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、フレディ・ハバート、ロン・カーターなどそうそうたるメンバーが演奏していて、演奏を聴くだけでも満足の映画である。(この1本はテープに録画して繰り返し観ている、というよりは演奏を聴いている)
 あのクリント・イーストウッドが監督している
『バード』(1988年、アメリカ)は〈バード〉とあだ名されたチャーリー・パーカーという天才的なサックス奏者の酒とドラッグに溺れた34歳の短い一生を慈しむような映像で描き出していて、別な意味で泣いてしまう映画だった。





  
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