つめたく冷えた月

 
『つめたく冷えた月』(パトリック・ブシテー監督・1991年・フランス)を観てきた。「屍姦」というアブノーマルな題材をベースにドロップアウトすることで、人間社会のあらゆる制度に疑義を挟みつづける二人の中年男の寂しい物語だった。登場人物の造形力は原作(チャールズ・ブコフスキー)のほうが奥行と振幅があり、ちょっと物足りなかったが(当然映画と原作は別物だと承知しているが)、海辺におけるいくつかのシーンは、ドロップアウトした者も、ドロップアウトしなかった者も、生命あることのせつなさに泣けてくる、と言ってしまえば中年男の感傷にすぎないだろうか。
 60年代の若松孝二や「クリーシーの静かな日々」の頃のヘンリー・ミラーには、セックスを描くことで、「個」を飲み込んでしまう「時代」と拮抗しうる想像力を獲得しようという積極的な映像があった。(高知でいえば、旭町の『あさひ劇場』や桟橋通りの『OS劇場』があった頃だが)。荒野ですら密室でしかない、という認識は時代との対峙を余儀なくされていた背景があったにしろ、三島由紀夫の自死を笑い飛ばし、性犯罪をキーワードに時代からの脱出を模索しつづけた映像があった。たとえそれが幻想にすぎなかったとしても、幻想を持てる時代だった。70年代、80年代と、セックスも時代も内向する状況のなかで、90年代は「心の時代」という安直な旗が掲げられ性風俗だけが罷り通っている。
 原作者ブコフスキーはアメリカ人である。ベトナム戦争をはじめ、世界秩序の執行人という幻想の栄光と喪失を味わってきた(現在も味わっているのだが)アメリカ人の悲惨と誠実さと精神の空洞化と抵抗の痕跡が色濃く描かれている原作にあってアウトローであることは、唯一生存の自由を獲得する手段であったことは、経済第一主義の御旗のもとで育った日本人の僕でも(心細く)納得することができる。フランス人のパトリック・ブシテーはアメリカへの撞着を示しながらもアウトローであることによって、社会と時代の制度への疑義を騒々しくも静謐な映像で提出し、映画作家としての精神を獲得したのかもしれない。



切実なるもの

                                  
 ヒトは大なり小なり「切実なるもの」を抱えて生きている。他人に見える形であったり、見えない形であったりはするが、誰も「切実なるもの」に虜われて生かされている。「映画を観る」という行為は、製作者と観客の間に「切実なるもの」の再確認、再発見を伴うものかもしれない。などと大仰な書き出しになったのは、
『さらば、わが愛〜覇王別姫』(1993年・陳凱歌監督・中国)を観たせいかもしれない。このテンションの高い映画は、日本占領時代から文化大革命を経る現代中国史を縦糸に、京劇という伝統的芸能を横糸に三人の男女の愛憎をダイナミックに描くことによって、個々の「切実なる」アイデンティティが脅かされ、修復され、最後には「自己」に殉じることでしか「切実なるもの」の結実を得られない人たちの悲劇性が、個と時代の対立という中国映画ならではの「切実なる状況」設定のなかで描かれていて、三人三様の個性的な演技もあいまって、映画が観客を引っ張っていく、というような映画だった。
 次の日に観た
『青いパパイヤの香り』(1993年・トラン・アン・ユン監督・ベトナム)という映画は、監督の母の思い出を、アリやカエルの生態を静視するという日常生活のディテールによって、僕らの内なる「切実なるもの」が甦させられるという構造を持っていた。日本占領とベトナム戦争の間の比較的平和だった頃、貧しい10歳の少女が見つめる世界はゆるやかな時間のなかに、人間も小動物も対等に生存している至福な世界だ。子供の頃「切実」だった「見る」ということにこだわりつづけるこの監督の姿勢は、日常生活のディテールにこそ「切実なるもの」があると言っているようだ。少女の頃から憧れていた男性と結ばれ、妊娠をして籐椅子に腰掛けている若かった母の姿を終幕に置いた監督のもうひとつの「切実なるもの」は愛し合うことにおいて常に安らかでありたいとの思いなのかもしれない。そういう意味で、この映画には、観客が映画を創っていくというもうひとつの「切実なるもの」が隠されていたようにおもう。



大木裕之の映像

 大木裕之さんの映像をはじめて観た。美術館でひらかれている「クールの時代 美術のノイズ・ミュージック」展出品作品としての
『天国の六つの箱』という作品で、1994年の9月、10月、11月の3ヵ月間の高知県内の出来事や人々の表情、風景、パフォマンスなどを、プライベート・フィルム風にカメラに収めたものだった。その映像に、即興でノイズ・ミュージックがかぶさるという趣向だった。
 観客というものは監督と被写体との関係をどのように自身のなかで処理するかということでしか、映画と関わっていくことができない、というもどかしさがある。
 大木さんの映像は、被写体との距離を充分に取りながら、被写体との親和力を大切にしているという印象を受けた。しかし、ときどき被写体をデフォルメしながら観客に挑んでくる。この不安定な日常のスナップに、強烈なノイズがかぶさってきて、(日常性に対する)不安や懐疑といった感情が揺さぶられはじめる。映像とノイズのドッキングによって、美術館のホールで映像を観ているという(観客の)安定した精神構造が否定され、苛立ち、不愉快になり、ノイズに対抗しようとする物質が(観客の)体内に生まれ、そのことによって大木さんの映像もまた、たんなるスナップから、日常性に敵愾するものとして観客の意識下の不安を呼び覚ますことになる。
 などと評論家みたいなことを書いてしまったが、率直にいえば「大木裕之」という固有名詞に過大な期待を抱いていた分肩透かしを食ってしまったような印象もあった。もっと濃密で緊張感のある映像世界が、被写体との共犯関係をともなって観客を脅かすのではないかと思っていた。しかしそれは「僕」の問題であって、大木さんは大木さんなりに「マイ・フェイバリット・シングス」の世界を比較的鷹揚な方法で展開していて、「私の方法はこうですよ」ということをはっきりと宣言していた。次に、大木さんの映像を観る機会があれば、もう少しリラックスして、大木さんの世界を楽しむことができたらいいと思っている。



もう一度、大木裕之 

                         
 前回、大木さんの映像について少し書かせてもらったが、今回はその続きを。
 東京の国立市に住む福間健二さんという詩人が『ジライヤ』という詩と映画についての同人雑誌を出しているが、その最新号に大木さんが「幽霊がAVにでている」という詩を書いている。とても長い詩なので引用はできないが、ロッテリアやグランフジやジーンズ・ファクトリーのある町で、幽霊や佐藤くんやナカツ夫妻、UFO研究家と造形作家夫婦などとの交遊が、まるで「詩で散歩をする」かのように書かれていて、先日県立美術館で観た大木さんの映像が「映像で散歩をする」かのようだったことを思い出して、もう一度大木さんについて考えてみたくなった。私事になるが、20代の後半、暗黒舞踏で飯を食ってきたNという男と知り合い、短かい間、高知で舞台に関わったことがある。Nにはいろんなことを教えてもらったが、言葉にこだわり、生き方にこだわり、自我にこだわって袋小路のなかで詩を書いていた僕に、「生きているってことは大したことじゃないんだ、ほら、僕がここにいますよってことをそのまま出していけばいいんだ」というような意味合いのことを言って励ましてくれたことがある。自我を軽くし、対象との距離を短くすることによって、新たな関係を模索できるのではないかというふうに僕は理解した。もう15〜6年前のことだが、いま大木さんの詩を読みながら、一度だけ観た映像を思い出しながら、そのことを思い出していた。大木さんは「僕がここにいるということをそのまま出す」ことによって、町との関係、他者との関係、幽霊との関係、UFOとの関係、を贅肉を削ぎ落とした位置で捉え直し、僕らの束の間の地上での逢瀬について、ごくシンプルに生きていければ、と考えているのではないのか。
 大木さんの詩が載っている『ジライヤ』という雑誌は編集者の福間さんの「反メジャー」「反権力」の姿勢がくっきりしている雑誌で、極小プロダクションのゲリラ的ピンク映画などを積極的に評価しているが、大木さんの映像もまた(たった一本しか観ていないのに)ゲリラ的戦法で地上のあらゆるものを捉え直そうとしているのかもしれない。



アウトブレイク

 たとえば、僕らの社会を取り巻く地球的環境、人間的環境が、僕らの想像力をはるかに超えて提出されている現在、表現に関わる人々は内なる想像力をデフォルメし、あるいは誇張、センセーショナル化することによって、現実世界という化物に対抗していこうとする傾向が多くなるという現象が垣間見られる。
 というわけで、
『アウトブレイク』を観てきた。この映画の上映中に、映画のなかで猛威をふるう「モターバ・ウイルス」のモデルといわれたエボラ出血熱が、ザイールで発生し、死亡率50〜90%といわれるウイルスによって数百人の死者が出ているというニュースが飛び込んでくるという現在性をこの映画は否応なく引き受けざるを得ないという不幸な立場に置かれてしまった。たとえそのことを逆手にとって、観客動員を図ろうとしても、映画は2時間あまりで完結してしまうのに、ザイールでは今この瞬間にも治療法を見出だせないまま死者が増えつづけているという圧倒的な事実がある。アメリカの大手資本がつくる娯楽映画にウイルスによって脅かされるヒトという種の根源的な生と死の問題を求めるのは、ないものねだりであるのは承知しているが、モターバ・ウイルスが軍による細菌兵器だったという設定は、ウイルスと人間の関係を軍批判という安易な方向に導いてしまうことによって本来、地球的環境、人間的環境問題として取り扱えるテーマを擦り抜けてしまっている。アメリカの大手資本がつくる映画にはよく見受けられる手法である。一つだけ例を挙げれば、1979年につくられた『メテオ』という映画は、アメリカと旧ソ連がそれぞれの相手に向けていつでも発射可能な人工衛星に積み込んだ核兵器を、地球に向かって飛んでくる巨大な隕石を撃墜するために使い地球を救うという設定によって、「核」という問題を素通りさせてしまっていたし、意地悪く観れば、このような地球の危機に備えなければならない、といっているようでもあった。『アウトブレイク』もまた、町の住民もろともウイルスを抹殺しようとする軍にたいして、一科学者が捨身で抵抗することによってアメリカの良心を前面に押しだし、観客の共感を得ようとしていたが、それは抗血清が見つかるという前提のもとであり、人間とウイルスの問題は何一つ解決されていないのである。



ショート・カット

 ひと月程前になるが、
『ショート・カット』(ロバート・アルトマン監督・1994年・アメリカ)という映画を観てきた。レイモンド・カーヴァー(アメリカの作家・1988年没)の短篇が原作だと聞いていたから楽しみにしていたが、オープニングから『地獄の黙示録』並のヘリコプターの轟音でまずは度胆を抜かれた。アルトマンは『ロング・グッドバイ』もよかったが、どちらかというと『M・A・S・H』『ナッシュビル』のような力のある演出に力量を発揮する監督だから、まったく予想しなかったわけではないが、オープニングの騒々しさにはまいった。
 カーヴァーの9つの短篇と1篇の詩を巧みに組み合わせて、人間の持つさまざまの感情を解きほぐしながら、生きていることのひとつへの真実へ到達するといった技法はさすがに上手だったし、誰も彼も真似のできないアルトマンの映像世界を「これでもか」といった具合に見せつけてくれたが、作家カーヴァーのファンとしては賑々しさに呆気にとられた3時間だった。
 休暇をとって魚釣りにでかけた川で少女の死体を見つけた男たちは、せっかくの休暇を死体に邪魔されたくないと予定どおりの休暇を過ごしたが、それを知った妻は夫を非難し、心に溝が生まれる。「彼女は死んでたんだ」と言う夫にたいして妻はこう言う「彼女はたしかに死んでたわ「「「でもわからないの? それでも彼女は助けを求めていたのよ」(
足もとに流れる深い川)や、子供の誕生日にケーキを予約した日、子供は車にはねられ死んでしまう。悲しみに沈む夫婦のもとに息子の名前をささやくような電話が繰り返しかかってくる。パン屋の仕業だとわかった夫婦はパン屋に乗り込んでパン屋を非難するが、和解の後、パン屋は、オーヴンをいっぱいにしてオーヴンをからっぽにしてという、ただそれだけを毎日繰り返すことが、どういうものかということを夫婦に語る。(ささやかだけれど、役にたつこと)といったカーヴァーの短篇は、行間にあるいはセリフの間に豊穣な想像力を読者が持つことができるのに、アルトマンの手法はその想像力の持続性をショート・カットする煩雑さしか持ち合わせていなかったようにおもう。もっともそれは僕のカーヴァーへの思いいれが強すぎたせいもあるかもしれない。なお、レイモンド・カーヴァーの短篇集は中央公論社からハード・カヴァーと全集が出ているので、興味のある方は読んでみてください。



ペテンに充ちて

                                  
 パトリス・ルコント監督の
『イヴォンヌの香り』(1994年・フランス)を観てきた。パトリス・ルコントの一ファンとしては、「ためいきがでるほどロマンチック」というヘッドコピーに、ためいきがでるほど期待して観にいったのだが・・・。
 話は単純。自称「ロシアの伯爵」ヴィクトールと自称「女優」のイヴォンヌの官能的な恋の一幕である。それにイヴォンヌの後見役的な同性愛者の医者がからんでくる。
 年老いていく同性愛者に、没落した貴族、セックスを媒介にしなければ結べない人間関係、とくれば
ルキーノ・ヴィスコンチィの手慣れた世界だが、パトリス・ルコントの場合ヴィスコンチィのような濃密な人間関係を押しつけてくることなく、なんとなくあっけらかんとした世界が展開されていた。
 なにが「ペテンに充ちて」なのかというと、ヘッドコピーからしてペテンだが、それはさておくとしても、映画を注意深く観ていると、自称「伯爵」のヴィクトールがホテルの一室で他人のサインの練習をしているシーンと郵便局で他人名義の手紙の照会をしているシーンがワンカットずつ挿入されている。そこで了解されることはただ一つ、ヴィクトールはペテン師。イヴォンヌにしても冒頭のミステリアスな女性から、ただ単に上流志向の強い何の魅力もない女に転落していく。老いていくことを嘆きつづける同性愛者の医者にいたっては麻薬がらみの組織の一員であることを印象付けるワンシーンが挿入される。このようにパトリス・ルコントは全体のストーリーを裏切るかのようなワンシーンを随所にはさみこんでいる。もっとも顕著なのは、映画の冒頭、やつれたヴィクトールが「1958年の夏、僕の人生を変えてしまった出来事」として回想が始まるのだが、それほどの大事とも思えない恋が終って、映画も終る。このペテンに充ちた映画は、映画自体がミステリアスな分、「ルコントの映像」を楽しむこと以外に手はなさそうだ。



オリーブの林をぬけて

 イランの映画監督アッバス・キアロスタミの
『オリーブの林をぬけて』(1994年)を観た。この映画は1987年の『友だちのうちはどこ?』、1992年の『そして人生はつづく』と合わせて、ジグザグ道3部作と言うそうである。
 『友だちのうちはどこ?』は、友達のノートを間違って持って帰った少年が隣村の友達に返しにいく物語。『そして人生はつづく』は『友だちのうちはどこ?』のロケ地コケル村を襲った地震から5日目、映画に出演した子供たちを監督が息子を連れて尋ねていく物語。そして『オリーブの林をぬけて』は『そして人生はつづく』の撮影現場を舞台に映画で夫婦役を演じたコケル村の男女の恋の行方の物語。
 コケル村の人たちと俳優を職業としている人たちをうまく絡み合わせたドキュメンタリータッチの仕上がりになっていて、彼らがときおり見せる素顔が印象的だった。
 映画だけではなく、表現に関わる人たちは自分の作品に必要以上の思い込みを持ちたがる。そのことが、自己主張ばかりの演出や、自己満足でしかない演技、生と死を大仰に嘆いてみせることが生と死を考えることだと、誤謬に充ちた映画が罷り通っている。そんな映画に囲まれていると、この3部作の出演者がときおり見せる素顔は、僕らの日常はこのような退屈さや、無駄や、自分勝手さや、ささやかな心遣い、ささやかな自己充足でしかないことを納得させてくれる。
 自分が若い頃造った窓や戸口を自慢するしかない老人。自分の恋心だけを相手に押し売りする青年。親切だか鷹揚だかわからない村人たち。オリーブの林に荒地。脈絡のない村人たちの会話。それらのなかで3編に共通して出てくるジグザグ道の美しさが印象的だった。国家主義、宗教至上主義のイランで、アッバス・キアロスタミは個体としての精神の自立を模索している、という印象を受けた三部作だった。



精神的原風景

 日本映画を観なくなって久しい。中原 俊監督の
『櫻の園』(1990年)を観て、日本映画も少しはおもしろくなるかもしれない、と勘違いしたが、さっぱりおもしろくならなかった。思慮深い映像もなく、スリリングな映像もなく、保守でも革新でもない曖昧な場所にいることになんの疑問も持っていない人たちが創る映像につきあう時間がもったいない。と言いながらも、「あたご劇場」へ、市川 準監督の『東京兄妹』を観に出かけた。
 東京の下町の古い日本家屋を背景に二人っきりの兄妹の四季が寡黙なタッチで描かれている映画だった。
 両親を亡くした兄は古書店に勤めながら妹を高校に通わせている。恋人がいるのだが、妹への感情が絶てず、別れてしまう。高校を卒業した妹はDPE取次店に勤めだし、恋人ができる。恋人と暮らしはじめた妹は、兄の説得にも耳を貸さないが、恋人の不意の死で、兄妹は何事もなかったかのようにふたたび暮らしはじめる。といった近親相姦を匂わせるような作りになっている。
 その映像の静謐さから、小津安二郎との類似性を指摘する人もいるが、市川準は小津とはもっとも遠いところにいると思う。小津は一貫して、家族や社会といった制度を問いつづけた映画監督だったが、この映画は制度以前のヒトとしての原風景を映像として定着させようとしている。ひたすら意味を排し、映像に徹することで、市川準の私的なこだわりが観客の想像力を揺さぶりはじめる。
 夜、仕事を終えて暗い夜道を帰ってきた兄が、明かりの灯っている自宅の格子戸を開けようとして、一瞬ためらい、再び夜の道に帰っていくラストシーンは市川監督の青春という精神的原風景への決別を暗示していて興味深いラストシーンだった。
 併映されていた羽仁 進監督の
『初恋・地獄篇』は1968年の作品で、寺山修司が脚本に参加していることもあって、ほとんど寺山修司の映画だったが、60年代の前衛、実験的な映像を観ていると、その前衛性、実験性が時代と格闘している姿だけが見えてきて、僕の青春という精神的原風景への決別を余儀なくされて、客席の僕とスクリーンの間の歳月の長さを否応なく知らされる結果になった。



同時代に生きて

                     
 たとえば、40代でなければけっして観ないだろうという映画がある。というよりも20代ならば途中で席を立ってしまう映画でも40代になれば我が身を振り返りながらなんとなく納得して観てしまうと言ったらいいのかもしれない。それを″保守性″というのかもしれないが。
 いま、ビデオに録画して、生きていることに躓くと繰り返し観るイングマール・ベルイマンの
『沈黙』をはじめて観たのは20代後半か30才になったばかりの、いまはもうない「テアトル土電」だったと記憶しているが、その時の印象は、字幕が黄色文字でよく読み取れなかったせいもあるが、ベルイマンの言おうとしていることがよくわからなかった。それが30代、40代と年を経るにつれ、ベルイマンの思考に自らの経験を重ねあわせて、「ヒトは死ぬためになぜ生きているのか」というテーマを映画『沈黙』のうえに重ね合わすと、ベルイマンの映画が豊かな想像力をもって僕の前に立ちはだかるようになった。
 前置きが長くなったが、40代になって出会えた映画監督にパトリス・ルコントがいる。たぶん20代に彼の映画を観ていたら、滑稽と悲哀の領域をメビウスの輪のように巡ることでしか、自己への誠実さを表現できない、ということがわからなかったとおもう。
 過日、衛星放送で観た
『タンデム』(1987年)という映画もまた、ヒトは滑稽と悲哀の領域を誠実に消化することでしか自己にたどりつけないという文法の定型をなぞりながら、突如として開放的な結末にたどりつく映画だった。ラジオの公開クイズ番組のために町から町へ移動する、老年にさしかかった番組の人気司会者と、青年期を終ろうとしている音声担当の男の二人連れ(フランス語でタンデム)だが、番組が打ち切られることになる。そのことを知った音声担当の男は司会者に隠しつづけ、司会者は行く先々の町で過去の人気に我が身を奮い立たせている、なんともやるせない珍道中の果て、パリに帰った二人は放送局を辞めてしまう。ある日、音声担当だった男はスーパーの食品売場で司会者と再会する。もと司会者は話術の特技を生かして香具師をしていた。高級車が買えるほど儲かる仕事に、再びコンビ復活である。この安直なラストは、48歳になってようやくわかるのかもしれない。人間、自らの生き方に踏ん切りをつけることさえできれば、生きていくことはそんなに難しいことではない、のかもしれない。





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