12)調和している


 ビル・エヴァンスという白人のジャズ・ピアニストがいた。彼はジャズ界の抒情詩人といわれリリックで繊細なピアノ演奏を得意とした。マイルス・デイビスやクリフォード・ブラウンなどの演奏を聴くときは適当に聴いていてもさして差し障りはないが、彼のレコードを聴くときだけは、彼の弾く音の一音一音を味わわなければ彼のレコード(今ではCD)を聴く意味がないと思わせるような演奏をするから、聴くほうはたまったものじゃないが、それがまた、たまらないというファンがいて、ビル・エヴァンスは亡くなった今でも日本にも、特に女性のファンがたくさんいる。
 
日原正彦さん(愛知県・1947年生)に女性のファンがたくさんいるかどうかは知らないが、日原さんの詩もまた、その一語一語に耳を澄まさなければ、彼の心が伝わってこないやっかいな詩人だ。

  
遠くのものはいつまでも
  ひとなつこくついてくるのに
  知らんぷりして行っちゃうのね
  近くのものは
 
  光る窓から車外を見ながら
  酸っぱい声で 君がそう言う

  はるかなものほど ぼくらに
  愛されたがってるってことかな

  と そうつぶやいて ぼくは
  何だか不安になる
  君は君の目の窓から
  ぼくの心のどんな風景を見つめているんだろう
  だって 君 ときどき
  あっという間に 何年も
  何年も前のあのときのまなざしになって
  ぼくを見てることがあるんだ 
  ほお……ほお……と小さなあかりを吐いて北の海辺を
   過ぎてゆく夜行列車のような
  さびしげな息づかいをしてね

  ああ 風も たえず
  君の横顔をにぎやかにたたきながら
  やっぱり行ってしまう

  でも おりてみたかったわ

  急に君がそう言うので
  この車輛だけためらってるみたいにゆれる たちまち
   にして
  はるかなものになってゆく無人駅を見ながら
  ぼくもどこかゆれていて

             (車窓・全編)
 
 この作品が収められている
『ふたり』(花神社・刊)という詩集は、男と女の会話体という形をとった、「日常的な何気ない会話の持つ、いわば〈直接性〉の力」への日原さんなりの果敢な試みがとられている詩集である。それでも日原さんの反省の言葉を借りると、「会話の方へ〈喩〉が染みこんでしまって、直接性がすっくと立ち上がっているような会話の力が発揮されているような詩はほとんど書けなかった」と言う。
 不幸というべきかどうかはわからないが、現代詩で使用される言葉が、僕らの日常のコミュニケーション言語からずいぶん離れてしまっているのは(1回目に書いたように)それなりの理由があるのだが、恥ずかしくも白状してしまえば、どんなに単純な言葉、それ以外に伝えようのない言葉に接しても、そこに「日原正彦」というサインがあれば、それ以外の意味、それ以外の隠喩、それ以外の……と、僕のなかの貧困な想像力を総動員して「書かれたことの意味」を見いだそうとする。言ってみれば、僕という存在は「詩という制度」を病んでいる蜘蛛であり、「自分の巣を作る分泌物の中で、自分自身溶けていく蜘蛛」(ロラン・バルト・記号学者)でしかないのかもしれない。



13)空は待っているか?

  
たとえ
  記憶していないとしても
  どこからか
  吸い寄せられていて
  血の 予感は 
  既に どうしようもなく
  刃物の表面を満たしている
  ぼくらが
  どんなに無邪気な瞳でみつめようと
  ぼくらのみつめるのは
  常に
  満たされた予感の その
  氷のように冷たいひろがりである

  恐ろしい ことではないか

  刃物であることを
  最も忌み嫌っているのは
  他ならぬ刃物自身であるというのに

                (刃物)

 この詩は21年前の
日原正彦さんの第一詩集『輝き術』(詩学社・刊)に収められている日原さん20代半ばの詩だ。ここには若者らしく自己に対する孤独と不安と懐疑が「刃物」を借りて語られている。「自分であることを最も忌み嫌っているのは自分自身である」という最終連は類型的ではあるが、青春期の通過儀礼と考えればいいだろう。
 それから20年、日原さんはとてもしっかりした奥さんと、美しい娘さんと暮らしている。8冊目の詩集
『マリアの午後』(土曜美術社・刊)から一編引用する。

  
たとえば 秋の
  午前十時の明るい空をみあげながら
  おまえは ぼくに 聞いてみたりするんだ 
  ねえ 空って
  あきらめて行ってしまったの それとも
  とっくに着いてて 待ってるの どっち?
  ぼくはそれには答えないで
  午前十時の空にむかって静かな十字を切る それから
   一本の樹になって
  ぼくの無言におまえがもたれてくれて
  ずうっと そのまま
  考えつづけていてくれたらなって思う
  少女時代のマリアみたいにね

  やさしいほほえみをあわだたせながら
  おまえのまなざしは 根気よく
  空の深みを洗い出そうとしているのに

  空は いつまでもどこまでも
  ただ 青いだけだ

           (十時の空・全編)

 この詩には日原さんの特性がよく出ている。生きているということをあらかじめ肯定してしまうということ、その前提のもとに「生」の意味をプラスの方向に紡ぎだしていくことによって日原さん自身と日原さんをめぐる人たちの存在理由を明確にしていく、という日原さんの人間肯定論を納得させてくれる一編である。
 ところでこの詩について、青森県在住の詩人・藤田晴央さんが次のように書いている。

  「日原さん、ぼくならこう答える。
   もちろん空は 待っているのさ
   空は深いタラップを用意して
   おまえを待っている
 それにしても日原さんのやさしい惑いを鋭い問いとして読み直してみる時、ぼくはいつまでも空の下で佇立していてはならないと思うのである。この明滅する思いを愛する人の胸に届けずに、永遠に暗転してしまうことはできない。」
 



14)異義申し立て
 

  
冬の夜は果てしない無地の風呂敷のようにひろがっている
  それを目の前にして
  わたくしのまなざしはひとつの紋様を
  むなしい流星のようにとびたたせようとして
  わたくしをわたくしとしつづけているわたくしのなかの火照るわたくし
  わたくしの燠を やさしく笑ませている
  そして
  この広大な無音の闇にちらばる灯たちをみつめ
  それらを全てわたくしのこのうすい胸に抱きよせたい
   と思う心は何ゆえだろう
  それはわたくしの眼底の飢えた広場に
  雲を呼ぶ青いつばさの生えた壮大な塔を建て そこに
  招きよせたそれぞれの灯たちを わたくしの命の              
  それぞれの導師としたいからだ
  たとえば ひとつの冬の
  ひとつの夜の
  ひとつの闇のかたすみの ひとつの窓辺の灯は
  たったひとつの夢の棘で傷だらけになってはめざめつ
   づける ひとりの男と
  たった一匹のしあわせを飼いならすために夥しい涙を
   切り売りするひとりの女と
  たったひとしずくの純粋なよろこびすら知らず 今日
   もまた健康な不自由と病み疲れた自由の間を往きつ
   復りつさせられる ひとりの子供と
  そしてそれに手をさしのべようとする かなしい な
   つかしい
  あるいはひそかな人たち
  また棒のような敵意や 貨幣の匂いする無視を投げつ
   づける人たちの
  息の 静かに蛍光する 花なのだから
  ちらばる数々の灯たちは むしろ
  この巨大な暗黒の風呂敷に包まれ やがて持ち去られ
   ようとしている 貧しい世界の最期の収穫なのか
    それとも
  ひろげられ 用意されようとしている ささやかな 
   けれど新しい世界のための種子たちなのか・・・

               (冬の灯)

 
日原正彦さんは『詩の原理』(レアリテの会・刊)という評論集の中でこう書いている。「私たちは生きている。生きているということは、私たちが精神として存在するということでなければならない。しかしながら、私たちをとりまく状況は、私たちが常に精神=自己として存在することを許さない。故に、私たちは、たえず精神の本来の在り方へとたち帰るべき努力をせねばならない。」
 日原さんにはこのような求心的で誠実なところがある。それだからこそ日原さんの詩は彼自身と彼をめぐる人たちの親和力がテーマのひとつになっていて、穏やかで丁寧ではあるが、ヒトとしての絆をどう編み上げていくのかという困難な作業を繰り返している。
 かつて、詩人とは「決定的な姿をとらず、不確定的ではあるが、やがて人々の前に巨大な力となってあらわれ、その軌道にひとりびとりを微妙にとらえ、いつかその人の本質そのものと化してしまう根源的勢力」(谷川雁・詩人)であったかもしれないが、そういう幻想とは遠く離れたところで僕らは、いや、僕は書いている。極端な言い方をすれば、「異義申し立て」の類である。社会に対する、ヒトという種に対する、そして自分自身に対する果てしない異義申し立ての継続中でしかない。このことは非常に個人的な作業でしかないから、個人的なことから普遍性へ、という欲望は持っていない。「人生」とか「生きざま」というコード化された言葉は使いたくない。そして「詩人」という制度化された言葉は自分からは使いたくない。そしてもうひとつ、けっして群れたくはない。福島泰樹(歌人)のように「孤立無援の思想を生きよ」などとアジテーションはしないが、詩人の親睦団体に加入して、著名な詩人と交流することを生き甲斐としている自称詩人のなんと多いことか。もし「詩人」という言葉が有効性を持ちえるとしたら、「ヒトはなぜ生きているのか」という素朴で単純な問いをたった一人で発しつづけているからだと、心細く思っている。



15)若い頃

                   
 JAZZを聴きはじめたのはジョン・コルトレーンが最初だった。若い頃僕はJAZZに何かを求めつづけていた。たとえば、「聖者になりたい」と言って、JAZZを精神的自我の探求の場にしたジョン・コルトレーンや自らが編み出した技法に安住することを拒否し次から次へと新しい自己を追求しつづけたマイルス・デイビス。奇人といわれたセロニアス・モンク。激しい息吹だけを残して26歳で夭折したクリフォード・ブラウン。僕にとってJAZZとは音楽ではなくて、精神的な何かだった。それが何なのか具体的に表現できないままに、ただ若かった僕は、人間は「肉体よりも精神だ」と思いつづけていた。ところが40歳を過ぎる頃から、JAZZの好みが変わっていくのを感じた。変わっていくというよりは、たとえば、ジョン・コルトレーンの出現によって過去の人として忘れられていくハンク・モブレーやヨーロッパを彷徨ったデクスター・ゴードンなどの音楽にも耳を傾けるようになった。彼らの思いを聴ける耳をやっと持てるようになったということだろう。そしていま心細くも思えることは、肉体よりも精神、という青春期の気負った思いは懐に入れておくとして、人間には肉体の歓びも精神の歓びも必要、ということだ。
 最近、鮫島有美子の5枚組CDを買った。鮫島有美子の一直線に届いてくるようなソプラノを聴いていると心が穏やかになって、ああ俺も年老いてきたのか、と複雑なセンチメンタルに囚われている。それでも気合いをいれるためにマイルスやコルトレーンを聴き直してバランスをとっている。若い頃聴いたチェイスやレッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズといったロックも聴いて気合いをいれ直さなければと思うこの頃である。
 新潟県の
鈴木良一さん(1947年生)から『てのひらの蕾』(人工楽園・刊)という詩集を戴いた。作品的には子供の頃の記憶のなかの情景を切り取って、僕ら団塊の世代の郷愁を呼び起こすだけであり、かつて子供であったことがなんの疑いもなく活写されているだけであるかもしれないが、なんともいえない懐かしさをともなった詩集だ。2編紹介する。

  
夏休みの一日は
  朝のうちが勝負だ
  家々のひさし近くや
  遊びにまぎれて迷いこむ
  納屋にかくれたぬけ道に

  鬼蜘蛛が
  大きな背丈ほどの巣をはっている
  長いよしの先にその巣をまき取り
  虫とりモチを作る

  朝つゆを踏み
  くぬぎやはさ木の
  みつけておいた秘密に場所へ
 
  七月の陽がさしてくる前に
  カナブン クワガタ 蝉たちと
  ねぼけまなこの競争をくりひろげる

            (昆虫記・全編)

  風が黄金色になったら
  いなごとりにでかける
  稲刈りの田へ
  はさ掛けする稲束の元へ
 
  秋十月の子供の遊びは 仕事のうち
  捕ったいなごは
  竹筒をさした袋のなかへ投げ入れて
  うごめく ひしめく いなごの群れ
 
  きみは稲の匂いを知っているか
  知っていたらそれはいなごの味だ
  風と稲穂とぼくのいなご

  つくだ煮となり食卓へ
  いなごと生きたぼくの少年
  いなごのように飛びはねて・・・

           (いなご・全編)



16)国民でもなく市民でもなく
 

  
ムスメは?
  ムスメはいりません
  ムスメはきらい?
  はい ムスメはきらいです
  と応えると
  もうムスメでないおばさんは笑った
  つられてでもないがぼくも笑った
  ぼくとおばさんの
  なんというか
  こういう場合の笑い

  世話好きで商売人のおばさんは
  朝早くから夜遅くまで働いて昼寝して
  国民とか市民でなく
  おばさんは一生わたしでいく
  ようなぼくは気がして

  めくらうなぎでショーチューを飲む
  蒸してくる半島の大陸
  練炭の火のうえで
  化けの皮を剥がれ
  はったるかいなおるか
  観光客になりすますにも
  ぼくの鼻先にもろに時間だ

           (釜山にて・全編)

 
指田 一さん(東京都・1948年生)の詩集『半島の大陸』(亜詩社・刊)は韓国体験記である。僕が指田さんの作品に注目するのは、ムスメ売りしているおばさんを、「国民とか市民でなく一生〈わたし〉で生きていく」と捉える指田さんの視点である。指田さんは日本人である。東京に住んでいるから東京都民である。そして「指田 一」という固有名詞を持っていて、教師という職業を持っている。指田さんはそういう国籍や戸籍や固有名詞や肩書きという制度の束縛から自己を解放し、一生「わたし」で生きていきたいという願望があるのだと思う。スッピンの「わたし」として他者に接するとき、いままで見えていたもの、見えていなかったものが、逆転写されて、まったく別な意味を持って姿を見せるかもしれないのだ。たぶんその時僕らは初めての体験にただオロオロと立ち尽くすだけかもしれないが、その恐怖を体験することによってしか僕らが「自己」と「他者」に出会える道はないのかもしれない。国民とか市民とかでなく一生「わたし」でいくおばさんと、国民とか市民とかでなく一生「わたし」でいく指田さんが出会うとき、安易な公式主義や免罪符を必要としないヒトの関係が生まれてくるのではないか、と指田さんは言っている。
 などと、たぶんに公式主義を引用して語ってきたが、次のような行を引用すると、僕などには計り知れない韓国への痛切な思いが指田さんにはあることが読みとれる。ただ単に一旅行者では納まりきれない切実な思いが言葉のむこうに透けて見える。

  
訳すことのできない日々
  訳すことのできない歴史
  訳せないであるものを
  おいそれと知ってしまった
  それにしてもだ
  はじめから
  訳されてあるぼくの朝鮮
  ではないか
  日本語よ

            (市場・最終行)
  
この国の自分について
  ぼくが知っているのは
  暗記である
  ぼくという

         (暗記と記憶・最終行)



17)列に入ると 私は列になる

  
列の最後尾から
  ずる
  ずる
  わたしの位置がずれるのを測量している
  技師
  と
  わたしは関係している

  それで
  「列に入ると 私は列になる」
  と 言ってみたりする非常口が
  この地下道にはあるのだ

  兵隊さん
  やさしくしてね
  下着の内側にひろがる
  脱糞の感情
  列の先
  そこから
  列から皿へ
  しみでていく
  入れ替わり立ち替わり
  なので 誰だって服を着たままする

  汚れていない皿が汚れる
  鏡に向かうように
  紙で口のまわりだけぬぐう

  大きなガラスのむこうを
  娘たちが食べながら泳いでいる

  技師は列の予定地の測量にかかる

      (カレーショップにて・全編)

  
経済家畜
  実験される牛
  教授は飢餓を救えるか
  私は飢餓を救うか

   死は遍く群れを照らしているが
   死者の群れのなかにあって

  「先生、お米の作り方
  教えているんですか? 近ごろの学校」
  「豚肉は豚の肉のことなのですが、
  豚を豚でなく、どうも
  明らかに人間のことだと思っているようです」
  「それでは豚はなんなんです!」
  「豚は豚肉です」

  経済家畜という言葉は
  新聞紙上で知りました
  その時は 確かに驚きました
  驚いて辞書
  辞書に流す驚き

  私は経済家畜を食べていたのです
  人は食べるために生きていると思います
  経済家畜も食べるために生きていると思います

   死にかけた児の顔にハエ
   脹れた腹には寄生虫の群がるさま

  でも
  食べることには変わりません
  私は食べています

  教授も飢えていると思います
  飢える教授

           (経済家畜・全編)

 
指田 一さんの詩集『人工的な明るさの部屋』(近文社・刊)は文明、政治、社会、戦争、経済といった僕たち人間の引き起こす負の遺産が主なテーマだ。ここには、「性」と「食」という人間の生存には欠かせないふたつのテーマのものを引用した。僕ら団塊の世代がこういうテーマを直截的に扱うのは珍しいが、指田さんは果敢に挑戦している。戦争という化物のなかで従軍慰安所の前に列をつくる兵隊と、経済優先主義という化物のなかでカレーショップの前に列をつくる娘たちを交差させることで指田さんは、いつの時代でも測量技師(それは僕かもしれない)によって行列の予定地は測量されるのだ、と言っている。



18)週末はスニーカーと

  
裏通りのバヤリースオレンジの
  自動販売機を
  素直な気持ちで蹴ってみる
  ゴボと世紀末の黄色い音が。
  それだけで心が晴れ、すると森が見えてきた
  そうだよ、週末はスニーカーに限る
  定家をふり捨て
  時代をふり捨て
  肩の荷をおろそう
  猫のようにしなやかに孤独を切り拓く
  野を駈けめぐる
  夢想家になろう
  信心深い一家はそろそろ
  森の奥で怪しげな魔法陣にのめりこむころだ。
  角のソバ屋で
  カレー南蛮を饒舌に食べ
  妻の嫌味を饒舌に聞き
  饒舌な人生をキャベツのようにきざんで
  生きるのはもううんざりなんだ。
  国民休暇村
  緑色に染まって
  週末は、スニーカーと暮らす
  そんなものが夢だなんて
  笑わないでくれ
  裏通りで今度は
  人生の自動販売機を蹴っとばしてみる。

   (週末、スニーカーと暮らす・全編)

 
望月苑巳さん(東京都・1947年生)の詩集『紙パック入り雪月花』(土曜美術社・刊)から引用した。
 本来、望月さんが得意とする詩は、古典の素養を生かした、耽美的かつ幻想的な色合を濃く持った、たとえば、

 
いつまで狂わずにいられるのか。/すずろに都へ傾いている川に/竿さして女は/恨みの深さをはかる。/仮寝の橋から降りだした/五月雨には何の咎めもなし。/おまえはそれでもきのうの/肩をいからせ/ヴァイオリンの音のように/天の河原に濡れつくす。
        (鵲の橋・第一連)

 というような詩に特長があるのだが、ここでは意味の伝わりよい詩を取りあげた。
 僕はずーっと、望月さんの職業は「古文の教師」だと思っていた。彼の詩やエッセイでの古典の引用は並々ならぬものがあり、古典の世界と現代を行き来する望月さんをみていると、彼があのゴシップ性の大見出しで有名な東京スポーツの記者だなんて思ってもみなかった。おまけに去年から映画担当になったらしく、日々の試写会通いで、月に100本観た、200本観たと言ってお薦めの映画タイトルを便箋にびっしりと書いて送ってくれるのだが、それらの99%が高知では観られなくて、望月さんに返事のしようもなくて困っている。
 で、望月さんの詩だが。
 何年か前まで、高知県は国民休暇県というコピーを売り物にしていた。知事が変わるとコピーも変わった。アウトドア・ライフというのがある。週末になるとワゴン車へ家族や小道具を積み込んで田舎へ出掛ける。星降る下でバーベキューを囲んで束の間の命の洗濯。
 都会の自動販売機は世紀末の音がする、と望月さんは言う。だから週末はスニーカーと暮らす。猫も杓子もアウトドア・ライフである。「詩人」とは皮肉屋で世の中斜めに見て得意がっているのに、多数意見に追随するのはちと考えものだ。考えものだが、「饒舌な人生をキャベツのようにきざんで生きるのはもううんざりなんだ」。「野を駆ける夢想家になろう」。少しは世紀末のことは忘れてはしゃいでみたら、明日へつながる今日になるかもしれない。ならないかもしれない。「そんなものが夢だなんて笑わないでくれ」。ケ・セラ・セラで終らしてしまえるものもあるし、終らせないこともある。



19)堀内さんの選択

 
光の網の中で萌えるように発光し、発酵する五月の朝の楠は、たどたどしいほどの筆触でふくらんだ果てしれないスケールの陰影に富んでいる。
 しだいに豊かさを増してくる葉群の密度。
 よく通る初夏の風は緑の勾配に支えられ、中空へ展いている。素朴な純化と光揮性の発露を織りまぜ、透明な跳躍に束ねられた木のシルエットが騒ぎ揺れる。

 枝々の葉群自身、内部へと向けた自らの視線に陽光を受けて、無数の葉片で、生成する日の舌を跳ね躍らせながら周囲の空間にかぶさっていく。生成波動の渦が木のシルエットを内へ内へとしぼりこみながら、周囲を包みこんでいく感覚のビッグバン。
 ひとたび陽が陰ると、葉群は降り注ぐ雪片のように流れ、楠の口腔の深奥に呑み込まれて沈む。木の下の地面は干潟のように這い、地面を割る曲がりくねった根は硬い眼瞼のように干上がっている。枝葉は銀鱗をきらめかせ、密集して群れ泳ぐ環礁の小魚であり、尽きることなく脱ぎ捨てる波のたゆたいの空虚が蔽うモノトーンに染まった礁湖の底に影を落とす。

 再び光の網が投げられると楠は、せりあがる緑の水のように浮揚し、枝を張る楠の速度感溢れる呼吸にひたされた膨張感が蘇る。沈降と浮揚。波動の抑揚にもまれながら、五月の楠は身にまとう宇宙を懐胎していく。芳醇な新緑が醸し出す未来の記憶と過去への暗示が、不思議なたたずまいで、時の飛沫を包みこんでいく。測りしれないエレメントを紡いで、光と陰にまたがる円環を営む樹冠の内部に凝縮されたものが、時の風に騒ぎ震えている。

 
堀内統義さん(愛媛県・1947年生)の詩集『楠樹譚』(創風社出版・刊)から「五月」という詩を引用した。
 この詩集は全編、楠にまつわる想いを言葉とイメージで語り尽くしている。
 この詩は、五月の光と影のなか、宇宙を懐胎したかのように無限の静寂を湛えて佇みながらも、一条の風に全身を震わせている楠を描くことによって、僕らの体内に潜んでいる無数の静寂に耳を傾けて、その静寂の意味を問いかけている。
 なにが堀内さんを楠に駆り立てたかは知らないが、ヒトには他人の思惑など無視して自己の意識を一点に集中して身動きのとれない状態に陥ることがある。佐川クンや宮崎クンを負の領域の人として、僕らの日常から区分するという「日常という誤謬」のなかで僕らは生きているが、僕らの負の領域は判読不能な迷路の形をして僕らの内にある。あとは、運悪くキーワードを捜し当てるか、当てないかだけである。
 この詩集を読んでいて、堀内さんは楠になってしまいたいのではないか、楠と同化することを願っているのではないか、同化することによって、宇宙が人間にかけた謎を、人間が一生かけても解けないのなら、楠の立場で考えてみようじゃないか、などと思っているのではないかと、ふと考えた。堀内さんが8年前にだした
『夜の舟』(創風社出版・刊)という詩集に「空席」という短い詩がある。

 
  来る日も/来る日も/少年は耕した/実らぬ穂を/
  鎖のように垂らして/一夜のうちに/荒れ果てる土地
  を/今日も/少年は鍬を入れる/連なる曇天の下の/
  四肢の畑に

 この謎を解くため堀内さんは、いつの日か楠の内部に自らを閉じこめることを選択するのかもしれない。



20)40代になっても

  
「ますます簡略化されていく
  経理の機能が」*
  「やがて習慣となり」*
  社長が消滅したあと
  誰もいない会社へ通う
  簿記係だけが残った
 
  社員としての私自身を廃絶しよう

  私自身の資格喪失を新宿職安へ届け
  私自身の資格喪失を社会保険事務所へ
  届けると私自身が、もういなくなった

  不要会社買い取ります
  放置したままの休業会社は職権で抹消されさらに商法
   違反で過料までもとられ
  なにやら
  なんだかよくわからないものが
  いくらやってきても
  今はもうすっかり
  ベテランの域に達っした
  社員としての私自身の
  源泉税すら払ってないのだから
  「消費税というやつは」**
  問題外だ
  敷金を差し押えると
  中野税務署はさっさと帰っていった

  廃絶し、いなくなった
  私自身もういらなくなった
  帳簿のすきまにこっそりはさみこみ
  丹念に
  潰す暇がもうなくなると
  あわただしく消費財を
  頭陀袋に詰めるかたっぱしから
  電話器を詰めるかたっぱしから
  茶托を詰めるつぎつぎに花瓶を詰め
  つぎつぎにつぎつぎに
  頭陀袋にポリ袋を詰めて引き揚げる
  駱駝の腹に山羊を詰め
  山羊の腹に鵞鳥を詰めて引き揚げる
  午後五時
  折り重なって流れるカッターナイフの線修正液と朱肉
  いろとりどりのバランスシートが束を崩し 魚眼レン
   ズの宙に舞った

   * 『国家と革命』(レーニン)
   **『貧農に訴える』(レーニン)

 
奥村 真さん(東京都・1949年生)が6年前の詩誌『HAPPENING』に発表した「オフィスの跡形」という詩の全編だ。その詩誌に載った奥村さんの自己紹介がおもしろいので書き写す。
 「高校までイイコイイコだったが途中からややくずれはじめた。燈台を受験しようとしたが、その年、燈台は解体された。農業(作男)、建築業(土方)、飲食業(ボーイ)、不動産業(事務員)などに従事」。
 団塊の世代を語るには避けて通れないことの一つに、大学闘争がある。1968年、20億円の使途不明金をめぐってはじまった日大闘争を発端に安田講堂の東大闘争、時計台の京大闘争、と全国の大学が吹き荒れた。闘争に参加した者、しなかった者、挫折した者、しなかった者。大学を中途でやめ廃品回収を職とした者、国家公務員や地方公務員になっていった者、さまざまな階層で48歳を迎えている同級生達。それぞれの職業にはそれぞれの理由がある。その時期、僕は2年近くの療養生活を送っていて現場を知らないからこれ以上何も言うことはないが、奥村さんの詩を読んでいると、当時の屈折した感情を40代になった今も持ちつづけているいるのではないかと思われて、なんとなく嬉しくなってしまう。
 奥村さんは『季刊パンティ』という突拍子もない雑誌を出している。その中から一節。「むかしむかし大昔、ズボンの後ろポケットに文庫本の『死に至る病』をいれてシンナーを吸っていた。むろん読んだのは1ページ目だけだったが、ズボンの後ろポケットに入っていたし始終しゃがんでいたので本はすぐしわしわになった。水の音を遠くに聞き、意識は次第に遠のいた。」



21)ビートルズ世代

 1962年10月、イギリスのリバプールでザ・ビートルズが『ラブ・ミー・ドゥ』でレコード・デビューした。彼らはたちまち世界中の若者の支持を受け、66年6月30日には日本武道館で公演を行なった。70年4月に解散するまで音楽という分野だけでなく、さまざまなメッセージを伝えつづけた。団塊の世代はビートルズ世代でもある。
 
岡田幸文さん(東京都・1950年生)に『あなたと肩をならべて』(いちご舎・刊)という詩集がある。彼の小さな書房『いちご舎』は、ビートルズの曲「ストロベリー・フィールド・フォー・エヴァー」から命名したという。その詩集から「あなたと肩をならべて」を引用する。なお、「ジョンの思い出」というサブタイトルがついている。ジョンとは、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンのことで、80年12月8日、25歳の青年に撃たれて死んだ。凍える12月のニューヨークの路上で前向きに死んでいたという。

  
生きる
  ってことはつまらないことだ
  だけど
  城北予備校に通っていた一九七〇年二浪の秋
  予備校のそばの自衛隊市ケ谷駐屯地で
  腹を切った三島由紀夫のような度胸をもっていないの
   で
  僕は死ぬことができない
  というよりも
  僕は死にたくない
  だから
  僕は生きている
  それだけだが
  そうして生きていると
  歌が聞こえてくる
  昼も夜もない国の歌だ
  この地上のどこにもない国で歌っている
  あなたの歌う声だ
  あなたが生きている
  それだけで
  僕は生きていくことができる
  僕は生きる 生き抜くだろう
  あなたが歌っている国にたどり着くまで・・・・
  たどり着くのがいつになるのか
  それは〈神のみぞ知る!〉(笑)だけれどたどり着い
   たら
  人生に一度
  あなたと肩をならべて
  僕らの時代
  一九六〇年代のロックンロールを僕らの歌い方で歌い
   とばそう
  あなたと肩をならべて
  僕は歌い
  そして
  生き抜くだろう

 岡田さんが30歳のときの作品だから、それにこの頃、岡田さんは将来を共にする女性と巡り合っていることもあって、「生き抜く」という前向きな姿勢がこの詩を貫いていて、すこしぐらいの甘ったるいフレーズも納得させてしまうような妙な魅力のある詩だ。考えてみれば最近の現代詩は妙に後向きで小難しくて、現代詩になじんでない人以外は振り向けもしない詩が多い。
 なお、ジョン・レノンについて山川健一(作家・1953年生)が「朝日ジャーナル」(1980年12月26日号)で「かなり早い時期から意識的なミュージシャンだった」と評価しているが、この時代、意識的なミュージシャンは山ほどいた。思いつくままに名前をあげれば、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、P・P・M、バリー・マックガイアなどベトナム反戦や人種問題を意識的にとりあげたミュージシャンがたくさんいた。現在だって同じような状況が世界中に点在しているのにそれらを意識的にとりあげるミュージシャンは少なくなった。彼らのなかでも僕は、バフィ・セイント・メリーというクリー族インディアン出身の歌手が好きだった。彼女はのちに騎兵隊によるインディアン虐殺をテーマにした
『ソルジャー・ブルー』(1970年)という映画の主題曲を歌って日本でも有名になるが、今はどうしているのか知らない。






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