28)仇討ちの迷路

 昨日まで団塊の世代と呼ばれる世代の人たちからいただいた詩集について語ってきた。今日からは年齢性別不問で、なるだけ興味深い現代詩を紹介したいと思っている。

 
鈴木比佐雄さん(千葉県・1956年生)は「COAL・SACK]というハードな個人誌を出している。94年11月に出した詩集『呼び声』(詩学社・刊)から「仇討ちの迷路」を引用する。

  
緑の墨を流した夜のしだれ柳の公園
  眠りにつくまえの鎮魂の儀式
  木刀の擦過音が闇夜をいっそう濃くしていった

  その夜 中学生の私は寝床を抜け出し路地に降り立っ
   た
  愛想よく家に頻繁に出入りしていた男だった
  時には楽しそうに父と酒を酌み交わしていて
  人の良さそうな笑顔をした男だった
  ある日 父から多額の手形を借りて夜逃げしたペンキ
   屋だった
  その男を捜し出しとうとう路地裏で巡り逢った
  私はまず木刀で足を叩き折り 腕のいい職人の指先を
   へし折り
  獣のような呪いの言葉を発し 殺意を持って
  父の会社を破産させた男を半殺しにしている夢を見た

  その頃19歳の少年は乞食と売春婦以外は全て敵だった
  所持金30円で野垂れ死んだ父の仇討ちをするため
  無関係な4人の男を射殺してしまった
  その少年 永山則夫を 20年以上監禁し
  遺族に代わって国家が合法的に仇討ちしようとする
  その永山則夫を生んだ貧困をなくすためのイデオロギ
   ー
  共産主義革命幻想に取り憑かれた若者たちへの共感が
   私のなかにもあった
  高校の教室でテレビがつけられ「あさま山荘」が現わ
   れた
  二人の警官と一人の民間人が射殺された時、
  かたわらの無関心ガリ勉男が突然叫び出した
   よし そうだ! 殺せ 殺してしまえ! 男子校の
   教室の誰もが血の流されることを期待する瞬間があ
   った
  私のなかにも手を下さない射殺者がいた

   わが一生牢に在るとも極刑をまぬがれたしと思うと
    きあり

  十七人の同時代人を殺した連合赤軍幹部の責任のとり
   方は
  森恒夫のように自殺することではなく
  国家のように死刑にすることではなく
  坂口弘の詠む「極刑をまぬがれたし」という
  固有名をもって生きる時間を抹殺した
  取り返しのきかない悔やみと慈しみを
  汲みあげることだろうか
  彼らの記憶を葬るな
  彼らに時間を………………………

 鈴木さん自身の殺意の記憶から、永山則夫の殺意、連合赤軍の殺意、ガリ勉男の抑制されていた殺意、が語られ、僕らは戦後民主主義・資本主義体制という名のもとで右往左往しながら、あってなきがごとき自己の存在理由を、貧困からの脱出、国家権力への反乱、自分の心のなかに潜在している殺意の確認、に見いだそうとしているのかもしれない。そして彼らの処分は、国家による仇討ち(=死刑)ではなくて、彼らの記憶を葬ることではなくて、殺意とその実行についてメビウスの輪をたどるように、永遠のような自問自答を繰り返すだけなのだ。なお永山則夫は1968年に起きた連続射殺魔の犯人で、法廷で次のように述べている。「勾留されたからこそ読書ができ資本主義が作り出してくる無知と貧困を知ることができた」



29)彼らのことが気にかかる

 
『全共闘白書』という本が新潮社からでている。526人にわたるかつての全共闘世代への25年目のアンケートで構成されていて、同世代ならではの思いで読んだ。かつての運動家たちも子供を塾に通わせたり、現在の生活に満足したり満足しなかったりして生きている。まだ心のなかに25年前の熱い血を抱きながらも良き中年になっている。ひとつ驚いたのは「革命」という問いに、「信じていた」という答えが多いということだ。大学闘争の真っ只中の2年近く入院生活を送っていて、現場に参加していなかった僕としてはどう評価していいかわからないが、僕は陽当たりの悪い病室で無為の日々を過ごしていた。10代の頃はアナーキストをただただ熱望していたことはあったが、病床の上で、「革命」など考えたことはなかった。それに組織や集団のなかにいると息苦しくなる性格だったので、現場にいたとしても日和見を決め込んでいたと思う。
 自称革命家たちは「よど号」という民間機をハイジャックし、北朝鮮へ行き、貿易の仕事をして、日本政府が我々の罪を問わないなら帰国したい、と甘ったれたことを言ってみたり、世界同時革命を唱えてゴラン高原へ行って消息不明になったり、革命の同志を私刑死させて投獄されてたりしている。みんな25年前を引きずったまま生きているのだ。そんな彼らがときどき気にかかる。いまだに、イデオロギーと組織には反射的に拒否反応を示す僕だが、それでも彼らのことが気にかかる。
 連合赤軍幹部の坂口弘と永田洋子に最高裁で死刑が確定した日、吉本隆明はこう記している(文芸春秋・刊
『わが「転向」』に収録)。「理由はさしあたって二つある。ひとつはどんなばあいも死刑に反対だということだ。人間は殺害することができる雰囲気に追いこまれたとき、だれもが殺害者になる矛盾した素質をもっている。例外の人間などいるとは思えない。だが死刑というのは雰囲気のないところで死の雰囲気を人工的につくり、死を与えるものだから、残酷このうえないと思う。もうひとつの理由は、人間の信仰やイデオロギーの集団は、閉じたまま周囲から追いつめられると仲間どうし殺しあうことになる、これには例外の人間がいるとは思えないからだ。最高裁判決も被告の手記のたぐいも、これを解明しようとしていない。最高裁は幹部の人格的な欠陥をあげつらって判決の根拠にし、被告は運動方針の誤りや殺害の懺悔に帰してしまっている。わたしは、いまあげた二つの理由の解明にふれないかぎり、死を宣告する資格も、死をうけいれる資格もないような気がする。」
 入手経路は失念したものの、あさま山荘で逮捕された坂東国男の1973年6月20日付けの
獄中書簡がある。「我々が労働者階級と結合できなかったのは(我々は誰よりも労働者階級と結合することを望んだにもかかわらず)思想的に労働者階級の世界観に立ちきれず、労働者階級の歴史的使命と階級的根源から生まれる革命的能動性を認識できず、労働者階級を階級闘争に大きく、広く、深く立ちあがらせること、革命に組織することにより自己を一個の爆弾にかえてしまったことによると思っています。」無残な文体ではあるが、時代の熱気がある。
 「日本赤軍派」をハワイ大学社会学部の女性教授が「研究・分析」したという触れ込みのパトリシア・スタインオフ著
『日本赤軍派―その社会学的物語』(河出書房新社・刊)を読んだ。イスラエルで終身刑に服している岡本公三へのインタビューからはじまって、あさま山荘を経て、転向までの問題を扱っていて、日本人としての感情の移入が無い分、冷静な語り口で分析・解析を試みているが、結局は何もわからない。吉本隆明の批判は批判としてわかるが、25年を過ぎた今も当事者も、傍観者も事件の意味をそれぞれの立場で考えつづけているとしかいいようがない。



30)古い遺伝子とともに

      
 もりあがる
      もりあがる
     もりあがる
    もりあがる
   うみがもりあがる
  海の怒りがもりあがる
  海の悲しみがもりあがる
  地球の失意が
  蒼白の乳房のように
  もりあがり はりさける
  かつて自由・平等・友愛を象徴した
  トリコロールの旗が
  南太平洋から巴里の空まで
  ズタズタに吹き飛ばされていったな
  ぼくは見た
  シャネルばりに「核の傘」さえブランド化していく
  ちっぽけなフランスという国の奢りを
  被爆したタヒチの海で
  ランボウの魂が再び、こう呟くだろうか

    とうとう見つかったよ。
   なにがさ? 永遠というもの。
   没陽といっしょに、
   去ってしまった海のことだ。
        (金子光晴訳)

  ぼくは桃源郷という名の絵を見て暮らしている
  小学校時代のA先生の個展で譲ってもらった絵だ
  長崎医大生だった兄を原爆で亡くしたA先生が
  この世の地獄を桃の木畑の桃源郷に変えようと願った
   絵だ
  学徒兵だったA先生のまぶたには今も
  「きのこ雲、閃光、爆風」が鮮明に焼き付いている
  「旧長崎医大裏門門柱」は今も傾き立ち尽くしている
  爆風で柱と台座に16センチの隙間があいたという
  爆心から六百メートルの病院関係者の犠牲者八九二名
   の中に
  きっと多くの人を救ったであろうA先生の兄さんがい
   たのだ
  地上五百メートルから降り注ぐ放射能と爆風から
  誰が逃げることができよう
  昼下がりの小学校の校庭で
  A先生からノックされたボールを
  ぼくは今も受け取っている
  桃源郷という名の鎮魂のボールを

  核抑止力という恐怖の均衡を
  パスカルなら「狂気の不可避性」といい
  死者たちの「永遠の沈黙」に恐れおののくだろうか
  アメリカの犯した地上五百メートルの悪の傘を
  フランスもまたゴーギャンの愛したタヒチの海で繰り
   広げる
  ランボウの詩行のように海を慈しむためでなく
  永遠に地球の海を葬り続けるために
  ただのランボウ者に成り果てた
     もりあがる
    もりあがる
   もりあがる
  海の悲鳴がもりあがる

 引用したのは詩誌「COAL・SACK」23号(1995年12月刊)に掲載された
鈴木比佐雄さんの「桃源郷と核兵器」という作品だ。
 僕は表現に関わるものは「生と死」を表現するとき、声高に正義を振りかざしたり、告発の姿勢で迫ったり、大仰に嘆いてみせたところでなんの表現もしていないに等しいと思っている。たとえば僕らの祖先、火も使うことを知らない祖先が、真っ暗な洞穴の中でオオカミの遠吠えを聞きながら肩を寄せあって、死の恐怖に耐えていた遺伝子を、そんな古い遺伝子を、僕らの脳のどこか古い部分が引き継いでいて、僕らが「生と死」を考えるとき、僕らの脳の古い部分に受け継がれている古い遺伝子に潜んでいる僕らの先祖の恐れおののくような「生と死」にたどりつかなければ、僕らの表現は読むものの心に真にたどりつけないのではないかと思っている。鈴木さんの詩は武装した現代人の意味を問いかけるとともに、武器すら知らず死の恐怖におののいていた僕らの祖先の「生と死」の意味をあぶりだしてくれる。



31)胸がわくわくするのだ。すごいぞ!

 
中上哲夫さん(神奈川県・1939年生)は自分のことを〈ノー天気だ〉と自称する性癖がある。時折いただく葉書でも「わたしはノー天気だから」という口癖の一行がある。そのノー天気の中上さんの詩集『スウェーデン美人の金髪が緑色になる理由』(書肆山田・刊)から「空中植物」を引用する。なお今まで部分引用はしてこなかったが、この詩はこのコーナー一日分を使っても引用しきれないので、部分引用を了解してください。

 
十年ほど前、合衆国南部をバスで旅行していたとき、ハイウェイ沿いの森や林の木々の高い枝から灰色の髭のようなものがぶらさがっているのを見た。いかにも鬱蒼とした感じで、むかし見たターザン映画の密林を思い出した。
 旅から帰って図鑑で調べてみると、それがスパニッシュ・モスだった。日本の山地で見られるサルオガセに似ているのでサオガセモドキと呼ばれるアナナス科の植物で、パイナップルの仲間だった。驚いたことに、このサルオガセモドキには根がなくて、茎は灰色の紐状で、無数に枝分かれし、そこに線状の葉がついている。そして、茎や葉は短い毛状の小鱗片で覆われていて、この小鱗片が空中から水分を吸収する仕組みになっているのだった。なるほど、これなら根など必要ないわけだ。
 (略)
 ところで、このサルオガセモデキの属名はティランジアといい、現在確認されているのは約四〇〇種。
 (略)
 若いころ(わたしにも若いころがあった)、わたしは大地に根を降ろした生き方をしなくてはだめだとなんべんとなく父からいわれたものだが、もしティランジアの存在を知っていたら父もそうもいえなかったはずだ。
 とはいうものの、風に吹かれるままに右へ左へと転がっているのはティランジアにとっては不本意かもしれない。引力さえなければ、空中植物の名に違わず空中をふわふわと浮遊していられるのだから。想像してみたまえ、髭のようなものや紐のようなものが花粉や胞子とともに無数に大気中を漂っているさまを。第一、根がなきゃいけないなんてだれがいったのだ? 根さえなければ、草や木だって好き勝手に遠くまで歩いていけるのだ。わたしは夢想するのだが、原初、植物はすべてふわふわと空中を漂っていて、あるものは木に付着し、あるものは大地に根を降ろし、あるものは水面に着水して生活するようになった。そして、どこにも根を降ろすことを拒否した一群がティランジアとして残ったのだ。根という器官は植物にとって進化した器官なのかもしれないが、そのぶん、世界は付着する対象に制限されてしまったのだ。
 わたしはティランジアを人間にあてはめてそこから教訓めいたものを引き出すつもりは毛頭ない。ただ、ティランジアが空中をふわふわと浮遊している状態を想像してみると、胸がわくわくするのだ。すごいぞ!

 「根という器官は植物にとって進化した器官なのかもしれないが、そのぶん、世界は付着する対象に制限されてしまったのだ。」と植物と世界との関係を独自の視点で定義しながら、それを終連の五行につなげてくるのが、中上さんのスタンスだ。
 世界が意味をもっているのではない、と僕は思う。世界に意味をもたせようとする人間の思考によって、世界は意味をもたされるのだ。中上さんは、世界に意味を求めようとしない。ただ世界を認識するだけだ。あるがままの世界を目の前に「胸がわくわくするのだ。すごいぞ!」と率直に感動する。世界と植物の関係を世界と人間の関係に置換して、考える葦としての自負を唯一の拠りどころとして詩を書き継いでいくこともひとつの方法ではあるが、ノー天気・中上さんはこう叫ぶ、「すごいぞ!」。



32)アメリカの詩人

 
中上哲夫さんはかつて「路上派」と呼ばれていた。アメリカの詩人、ジャック・ケルアックの詩集『路上』に由来する。英語に堪能で、何冊か翻訳もある。
 アメリカに
チャールズ・ブコフスキーという作家で詩人がいた。定職もなく、アメリカ各地を放浪した、いわゆるアウトローである。『町でいちばんの美女』(青野 聰・訳)という小説集が新潮社から出ているし、『つめたく冷えた月』というタイトルで映画化もされている。そのブコフスキーの詩を中上さんが翻訳している。詩誌「木偶」25号(1995年5月25日)から「男が思い描く女」を引用する。

  
男の夢は
  金歯と
  ガーターベルトの娼婦、
  香水ぷんぷん
  にせまつ毛に
  マスカラ
  イヤリングに
  ライト・ピンクのパンティ
  サラミ・ソーセージの息
  左のストッキングのうしろ側にちっちゃな伝線のある
   ロング・ストッキング、
  ちょっとふとっていて
  ちょっと呑兵衛で、
  ちょっとパーでちょっとクレージーで
  卑猥なジョークを口にせず
  背中にほくろが三つあり
  交響曲を楽しむふりをし
  きっちり一週間
  いつも一週間滞在し
  食器を洗い料理をしファックしフェラチオし
  台所の床をごしごしこすり
  子どもの写真を見せたりせず
  前の亭主やいまの亭主のことや
  なんて学校へ行きどこで生まれたか
  この前どうして刑務所に入れられたか
  だれにほれているかなんておしゃべりをしない女、
  一週間だけ
  きっちり一週間滞在し
  すべきことをしたら出ていって二度ともどってこない
  女

  ドレッサーの上にイヤリングを片一方置き忘れてもと
   りにもどらない女

 「こんな詩、どこがいいのか?」と聞かれてもうまく答えられない。ただ中上さん風に言うしかない。「こうして男も女も生きてるのさ」。
 もうひとりアメリカの詩人を紹介する。1984年、ピストル自殺をしたリチャード・ブローティガンは日本でも著名だから知っている人もたくさんいると思う。小説集は晶文社から
『アメリカの鱒釣り』他たくさん出ている。『リチャード・ブローティガン詩集・突然訪れた天使の日』(思潮社・刊)から2編引用する。訳はもちろん中上哲夫

  
他人の顔の残り物を寄せ集めてつくられた顔を映すには
  必要だ、割れた鏡の破片を集めて
    つくられた鏡が、さ。

       (七年間の不幸の影・全編)

  
ある友人がアリゾナ州タクソンからぼくに電話をかけ
   てくる。彼は不幸せなのだ。
  彼はサンフランシスコのだれかに
     話がしたいのだ。
  ぼくらはしばらくおしゃべりをする。彼は部屋に蛾が
   いるという話をする。
     彼がいうには、「くそまじめな顔をしてるんだ」。

    (アリゾナ州タクソンの歌・全編)

 このアメリカの死んでしまった二人の詩人に共通するのは、目の前の世界を認識することで、等身大の自分を認識することで、けっして偉大ではない自分に寄り添って生きていくことができるということを知っている、ということだと、僕は思っている。


  
33)ブローティガンのことなど

 1976年5月から6月にかけて、リチャード・ブローティガンは日本に滞在して日記をつけるように詩を書いた、という。それらをまとめた詩集を
福間健二さん(東京都・1949年生)が訳している。『リチャード・ブローティガン詩集・東京日記』(思潮社・刊)から僕の好みで2編引用する。

  
ここ東京では
     ホテルの部屋を出るときにいつも
  決まった四つのことをする
     ぼくのパスポート
     ぼくの手帳
     ペン
     そしてぼくの英和辞典
     をもっているかどうか確かめるのだ 人生のほ
      かの部分は完全な謎である

         (ミステリー物語もしくは当世風ダシール・ハメット・全編)

  
人々がぼくを見る
  何百万人もの人々だ
  なぜこの見知らぬアメリカ人は
  手にこわれた時計をもって
     暮れてきた通りを
        歩いているのか?
  かれは本物か それとも幻にすぎないか? どんなふ
   うにして時計がこわれたかは重要ではない
      時計はこわれるものだ
      あらゆるものがこわれるんだ
  人々はぼくを見る そしてぼくが手にもって
      夢のように運ぶ

      こわれた時計を見る

        (こわれた時計をもった東京のアメリカ人・全編)

 なにげない詩である。誰にも書けそうな詩である。修辞も比喩もなく、率直に言葉と向かい合う。そのことだけで詩を書いている。絶望と孤独と不安とアルコール依存症を懐にしのばせて。単純でやさしい言葉使いの詩が読者の心をうつのは、その言葉の背後に幾千の眠れぬ夜を抱えているのに他ならない。
 訳者の福間さんは映画が好きで
『ジライヤ』という詩と映画の雑誌を出していて、高知で映像活動をしている大木裕之さんも詩を発表していたが、とうとう自分で映画をつくってしまった。タイトルは「急にたどりついてしまう」。高知で上映されるようなことがあれば観てほしい。その福間さんの詩集『結婚入門』(雀社・刊)から「最新型のきみ」を引用する。

  
ちょっと乗ってけよ
  と不良っぽい女の子を誘った
  海岸沿いの
  カーヴの多い道について
  同僚のカンちゃんが話していた
  野菜をのせたトラックと
  複雑な生き方がすてられて
  「島」が、そこで
  金色の空から
  未知の言葉を受けとっている
  理論的には、それが
  うるさい妹たちの時代の終わりだった
  好奇心から
  閉まりかける自動ドアを
  バン、バンと腕にあてながら
  中を覗きこむような
  スリルの求め方はもうはやらない
  好きなフォームで、というのも
  困ったものだ
  あっというまに
  ぼくは、呑気な兄さんから
  「島」のすみずみに通じた
  すれっからしになって
  最新型のきみを手にいれている

 福間さんは「あとがき」でこう書いている。「駅におりた。ずっと前に通りすぎた駅におりたようで、しかしその周辺の景色は一変している。やはりちがう場所なのだ。そう思いながらさまよいだすときの気分にいまの気分は似ている。」



34)シベリヤ帰り

 昨年の11月28日付けの朝日新聞文芸時評で蓮實重彦(評論家)は次のように書いている。「それを身辺雑記ふうに綴るか、自伝として語るか、大胆に虚構化してみせるかはともかく、誰もがその個人的な体験を小説に書いてみる権利を持っている。だが、才能ある作家の多くは、その権利の行使にきわめて慎重である。語るべき対象との距離の計測やその言語的な形象化に、しかるべき概念装置が必要とされているからだ。それを構築しそびれれば、どれほど真摯な言葉をつらねようと、作品はいうにおよばず、貴重な体験そのものが崩壊してしまうほかはなかろう。」
 延々と引用したが、簡単に言うと、素材をそのまま文章にしても小説にはならない。素材をどう料理するかで良質な小説に変貌する、ということだ。至極当たり前なことではあるが、グルメ志向の現在、料理人の自己主張に食傷してしまい、素材のみの料理を味わいたい、と思っている人が少なくないのではないか。蓮實重彦は小説について語っているのだが、詩の世界でも同じことだ。
 かつて同じ同人誌にいたが、僕が若かったがためにその作品をよく理解できないでいた、という詩人がいる。極寒のシベリヤから帰ってきた
鳴海英吉さん(千葉県・1923年生)だ。いまこうして鳴海さんの古い詩集(『ナホトカ集結地にて』(ワニ・プロダクション・刊)と『銃の来歴』(アート・フカミ・刊))を読み返していると戦争という異常事態を背景に人間の極限を見てきた鳴海さんの、直截的で泥沼のような心、が戦後生まれだが48歳になった僕にもすこしは想像できるようになった。戦争という素材は戦後生まれの団塊の世代には手の届かない素材だし、料理すらできない素材だ。だから料理人・鳴海英吉の手によって差し出された料理を味わうしかない。
 反省の意味をもこめて、
『ナホトカ集結地にて』に収録の「敵」を初出誌(詩誌・開花期27集・1979年2月)から引用する。

  
男と女が一本の細竹に
  ひらめかして 赤ん坊のおしめ 飾り
  かつぎ合いながら終日干している
  おしめは乾いているのに
  男と女は細竹に おしめを干して
  黙って歩るいている
  女の肩中には なにもないのに……

  先頭に立っているおれは ふりかえらない 肩から銃
   をさかさまにおとし
  安全弁をはずしていつでも撃てるように
  弾は装てんしたままだ
  おれは道を間違えてはいないだろうか
  この道はどこで曲ってはいないか
  交差している道を左に折れたのは正しかった
  黄色く枯れた高梁畑のなかで
  この道は消えているかもしれない
  おれの目は 疲れて赤く
  敵だけが この麦畑のなかで息を殺して
  先頭を歩くおれを 標的にしているから
  まずおれは、死ぬだろう

  足手まといでしょう と老人は首を吊り
  敵の足音 思はず腕に力が入って赤子を殺し
  あれは 風の音だったから
  おまえは風に赤子を殺されたことになる
  毎日 誰かが死んでゆくらしいが
  この群れは一人も人員は減ったりしない
  誰も欠けてはいけないのだ
  おれは先頭に立っているので
  数えたりしないし ふりむかないのだが
  人員はいつも欠けてはいけない

  終日 おしめを干して歩るいていた
  男と女
  うすぐらい夜の中で 仄白いものになって 八月の草
   のなかでころげ合っている
  おれは 殺すものを生みたいのか と言うおれはこの
   仄白い夜のなかでの敵
  銃はいつでも撃てるようにしてある
  弾は装てんしてある



35)故郷に残っているもの

 
 
山本かずこさん(東京都)とは彼女が詩を書きはじめた20代の頃、同じ同人雑誌に所属していたことがある。その頃から彼女は「確固たる自我」を持っていた。彼女には他人からなんと言われようと自分の生き方(それは詩作にも繋がる)のスタイルは守り通す、というガンとしたところがあった。そういう性格のせいなのか彼女の詩には若い頃から、「わたしの孤独はわたしが生き抜く」という、甘ったれの僕なんかからしたら、とても耐えられないと思う「孤独」を生きている人だ。会って話すときも、電話で話すときも彼女の声は時として消えいりそうにかぼそい。それなのに「孤独を耐えられる力」を持っている。誤解のないように言っておくと、ここで言っている「孤独」とは、ヒトという種が本来的に持たされている孤独、僕らの祖先が闇と肉食獣の恐怖におののきながら耐えていた長い夜の孤独、愛するものに囲まれていたとしてもヒトは自らの孤独を生きることでしか「わたし」にたどりつけないという孤独、「種」の枠を飛び越えて「自我」を持つようになった「個」としての孤独、のことである。それらの孤独との対話が結実したのが第一詩集『渡月橋まで』である。彼女はたくさんの詩集を出していて、評判になった作品もたくさんあるのだが、彼女の本質と良質な部分は第一詩集に集約されている。第一詩集についてはあちらこちらの雑誌で何度も触れているので、ここではいちばん新しい詩集『故郷』(ミッドナイト・プレス・刊)から「夏の光り」を引用する。

  
この横断歩道を歩いている、
  手をつないだ、ふたりづれ、
  私の母と
  私の恵と
  夏の日の夕暮れどきの、
  この横断歩道を歩いていく、
  私は
  ふたりの後ろ姿をみつめていた。
  私は
  これから仕事に出かけるところだ。
  そのとき 不意に
  恵がふりむくのだ、
  私が横断歩道のこちら側で
  どこにも行かずにみつめているということを、
  ちゃんとわかっているのよ
  お母さん、
  ふりむいて
  それから笑いながら手をふった、
  いってらっしゃい、そう言いながら、
  母もまたふりかえる、
  私は 立ち止まったまま、
  なおもふたりをみつめていた。
  晴れた日の夕暮れどきだったから、
  この日 まだ
  残っていた光りのありったけが、
  ふたりにしゅうちゅうしたみたいになって、

  白い帽子に反射する、
  まぶしかったけれど、
  私はそこから目をそらさなかった。
  この日の ふたりを忘れないこと、
  それがその日の私にできることだった。

 詩集タイトルの「故郷」とは高知のことである。もっと厳密に言えば、子供の頃結核で父親を亡くして、母親と一緒に暮らした弥生町の実家のことである。その母親も7年前に死に、帰るところのなくなった彼女の心に残されている「故郷」のことである。詩中に出てくる「恵」とは訳あって離れて暮らしている彼女の娘の名だ。もう成人に近い年頃だが、彼女の詩には子供の頃の娘しか出てこない。そして母親も生きている。娘と母親と三人で横断歩道を渡っている。娘が振り返る、母もまた振り返る、幸せな家族が夏の日の夕暮れの光の中で、それぞれの事情を抱えて離れ離れになっていく。それでも「私」は光から目をそらさないこと、この日の二人を忘れないこと、を心に刻んで、娘とも母とも違う一歩を踏み出していく。



36)自然のサイクル

 
杉谷昭人さん(宮崎県・1935年生)の詩を読むたびに僕は、内山 節(1950年生)という哲学者のいくつかの著書を重ねあわせてしまう。哲学者といっても内山 節の書くものは小説ともエッセーともつかないやさしい文体で、詩人の自己充足的な文章よりはずっと読みやすい。内山 節の何に魅かれるかというと、現代人は「長い時間(地球の自然のサイクル)」を拒否することによって多くのものを失っている、自然のサイクルに戻ることでしか人間の再生はありえない(そこまできつくは言ってないが)と言っていることだ。人間の生活を自然のサイクルに合わすことなど無理な注文だが、すこしはそういうことについて考えてもいいのではないかと、僕はひそかに思っている。
 杉谷さんの詩集
『村の歴史』(鉱脈社・刊)は『宮崎の地名』『人間の生活』を併せて三部作のようなかたちになっている。『村の歴史』から「鹿野遊(かなすび)」を引用する。

  
鹿が水を飲みにくる
  それだけのところだ
  わたしと妻は日がないちにち畑を打つ
  ただそれだけのところだ
  日暮れの小さな川で鍬を洗っていると
  その親子はきまって朴の木の陰からあらわれる
  尖った鼻先を流れに突込みながら水を飲む 仔鹿のほ
   うはわたしたちを見てから
  素早く首を下げる
  仔鹿の目は優しく青い
  そして深い
  その目の前に朴の葉が落ちてきて
  そこから新しい季節の傷は疼きはじめる
  わたしたちはいつも何かを匿すために畑を打つ
  誰かに何かを引継ぐために
  この土地を耕しつづける
  取入れの仕事はもう終わってしまったのに 今日も飽
   かずに働きつづける
  学校帰りの子どもたちが鹿を追いながら
  川上の村へと帰っていった
  風が吹いて
  朴の葉がまた水の上に落ちて
  日はもう秋に慣れはじめている

 前詩集
『人間の生活』発表後、杉谷さんは次のようないくつかの批判を受けたという。「素朴な自然と祖先を愛し、農村共同体に拘泥した安穏な詩(横木徳久)」「女たち」の生きる現実を「退屈な家事と畑仕事」という枠のなかに閉じこめようとも、もはやそうはいかなくなっている現実がある。そこにことばをとどかせようとしないで閉じられた意識空間のなかで自足している(松原新一)」などという批判がこの詩集の跋文を書いている山本哲也さんによって紹介されている。たしかに批判は批判としてその通りだし、杉谷さんが描いている農村生活は、杉谷さんの精神生活が孕みこんでいる農村生活でしかない。かつて農村は貧困の現場だった。人身売買の現場だった。先の戦争が終わったあと高度経済成長の荒波を受け高生産性、高省力化のはてに経済としての農業しか残らなかった。僕らが記憶に残している良き農村風景は幻想でしかないのだ。森林だって100年先200年先を考えられずに短絡的な伐採が罷り通っている。農村も山村も経済と流通と効率性を抜きに語ることなど不可能である。
 それでも杉谷さんは書く。農耕民族としての僕らの原風景としての農耕生活を。自分の食するものは自分で耕しながら、百年二百年という長い自然のサイクルのなかで人間の生活を考えられないだろうか、と。
 たしかに僕は、ヒトは自らの驕りのために滅んでいくしかない種だと思っているが、内山 節や杉谷さんのように、自然のサイクルで物事を考えようじゃないか、と囁かれると僕のなかの悲観主義、冷笑主義がすこし揺らぎはじめる。



37)発想の定型化

 不意にこの世から消えていった人たちはどれだけの数になるのだろう 通勤電車の中や雑沓のなかで急に消えていく 跳躍する昆虫のようなものが人間の中に存在していて時にはそれははるか彼方に人を連れ去ってしまう そこが何という所なのか本人にもわからないかもしれない しかしある日 昨日と全く違った世界にいると気付いたらよく見まわしてみるがいい そこが街や学校や会社や家庭ではなく 裏街にポッカリと口をあけたような空地や人工池であるかもしれないからだ そして自分の姿が蛙や魚に似ているかもしれない

 私が毎日通る道の途中に釣り堀がある 昼間は釣り人の姿で賑わっているそこも 夜にはひっそりとしている 遅くなった仕事帰りにふと見ると閉ざされた釣り堀の薄暗 い闇の中で何か蠢くものがあった あるはずのない所で何かが動いている 予期しないものに私はおびえた そしてそれが何であるかを理解できてからも微かな震えは去らなかった 空気の泡・泡・泡……釣り上げられるためにだけ生かされる魚がいて それを生かし続けるために休みなく送り出される空気の泡が水面を押し上げていた ああ そこに私がいる 私もいつものように家を出て不意に消えてしまうかもしれない 恋しい女はいつまでも私の帰りを待ちわびるかもしれない 私はいつまでも闇の中の釣り堀を見続けていた
 
 ある朝 父親に連れられて釣り堀にきた少年は 自分の釣り棹の先に今まで見たこともない魚が哀しそうにひっかかっているのを知る

          (釣り堀にて・全編)

 
山下政博さん(東京都)の詩集『寂しい食卓』(レアリテの会・刊)に収録されている「釣り堀にて」という詩は誰もが一度は疑似体験するだろう変身譚を借りて現代人の心の不安定な幻想を過不足無く書きあげている。 デビッド・クローネンバーグの映画に『裸のランチ』という、タイプライターがグロテスクな虫の姿をして喋りつづけたりする猥雑で乱暴な変身譚の映画がある。あまりにもグロテスクすぎて、僕らの穏やかで平凡な日常にはなんの意味もないのではないかと錯覚を起こさせてしまう映画である。ダイナミックなクローネンバーグの映像は観客である僕の想像力など一切受け付けず、これでもかこれでもかと変身譚を押しつけてくる。その力の前では僕の小賢しい想像力なんか日常を維持することを前提とした自己保身を最優先するものでしかないことを思い知らされるだけだ。
 で、山下さんの詩のことだが、いくぶんか理路整然とし、自分の決めた型枠にはめこんでいるきらいはあるが、生存の根拠になるべき基盤を持ち得ない現代人の、自分自身が生存していることへの不安の一典型が過不足なく展開されていて、現代詩に馴染みのない人でも容易に理解が可能な変身譚になっている。
 山下さんは次のような奇抜な詩を書いたりもしている。

 魚の形をした黴が時々闇の中で跳ねたり 石女が赤子の姿をした黴を出産したり 愛という言葉の響きと同じほど孤独な黴が人間の内臓から湧き上がってくる そして一 個の黴そのものとなった男と女はおそるおそる触れ合い抱き合って相手の奇妙な形相を笑いながらなぜか涙がとまらないのだった

             (黴・最終行)

 しかしその奇抜さが、読者の日常をかきまぜて喉元に匕首を突き付けることのないのは、山下さん自身に発想の定型化があるのではないかと思う。




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