びしゃがつく◆石井葉子個展
(グラフィティ・ギャラリー 2月19日)

▼石井葉子さんという人の個展(グラフィティ・ギャラリー)を観に行く。高知新聞の学芸欄に個展の紹介記事が載っていて、タイトルが『びしゃがつく』。
 僕の好きな詩人の一人である
高木秋尾さんの妖怪詩集の中に同じタイトルがあって、なんとなく親近感を覚えたこともあったが、高さ2.6メートル、横幅2.2メートルの木、プラスチック、油彩、アクリルで作った三個の卵が写真入りで紹介されていて、この卵を見たいと、はるばる北高見町まで出かけていった。
 
──テーマは「生死感」で、漠然とした不安の原因を探る試みのひとつだそうで、葬式をイメージした黒白の幕が壁に張られ、囲まれるように、高さ2.6メートル、横幅2.2メートルもある卵が三個立ち並び、卵の断面ごとに、たくさんの幼虫や発芽した種子などの成長の過程が、綿密に描かれている。「葬式が意味する終わりと、卵の持つ生命の始まりを並べてみることで、自分の中でごちゃごちゃしている不安が一つの形にできた」と作者は語り、生と死が同時に存在する空間は重々しく、不思議な感覚に襲われる。タイトルの「びしゃがつく」は、夜中にびしゃびしゃという音を立てながら、後をついてくる妖怪のことで、作者の不安感にぴったりという。1977年広島県福山市生。高知大学大学院美術教育専修に在学中。──というのが新聞記事の紹介だったが、三つの卵は想像以上に美しかった。
 イブ・クラインは「すべての絵画は美術という制度にとらわれている」と言ったが、石井さんの立体を観ていると、美術とはやはり、観客の想像力を勃起させてくれるものだ、と思わずにはいられなかった。

 葬式をイメージした黒白の幕が壁に張られ──
と新聞記事にあったが、それがなかなか一筋縄ではいかないもので、黒の部分は黒だけではなく赤などの色を混ぜ合わせているが、そうすることによって、この幕がたんに葬式用の幕であることを拒否している。血の色が塗り込められることで、儀式としての葬式から、あるいは、制度としての葬式から、個の肉体の痛みとしての葬式、個の葬式へと変容している。それもその赤は真紅ではなく、濁り侵された色をしている。その変色した赤が血の色だとは誰も気づかないほどに。
 大きな三つの卵の中は産卵室のように60個ばかりの房に区切られていた。房の中では、脱皮しようとしている蝉や、胞膜に包まれた芋虫や、透きとおったカエルやカニたちが、今にも生を享受しようという姿で描かれている。
 第一印象は、美しく、繊細で、鮮明で、作者の姿勢が丁寧に表現されている──というようなものだった。一つひとつが丁寧に描かれ、いまにも眠りから醒めようとしているかのように美しい生きものたちの幼虫が、じっとその時をくるのを待っている姿が描かれていた。まるで石井さんが自らの感性が開花する、その時がくるのを胎児の姿勢でじっと待っているかのように。生と死の恐怖をいまだ知らず、不安と怠惰の未来も知らず、幼虫たちは、幼虫たちの姿として眠っている。それはヒトの遺伝子の数が、ショウジョウバエのたった2倍でしかないというヒトのこっけいさを見つめているような気さえした。
 「びしゃがつく」というタイトルからはほど遠い明るくて清潔な「生の予感」が表現されていた。
 だから、生と死が同時に存在する空間は決して重々しくなどなく、不思議な感覚に襲われることもなく、石井さんの意識の中で、「生と死」という抽象が具体に転位する瞬間を力強くとらえているのではないかと思った。



長野恭二のこと

▼2月19日付の高知新聞学芸欄に、長野恭二が「夢のコンセプトバー」というタイトルのエッセイを書いていた。長野恭二を知らない人のためにそのエッセイからプロフィールを。
 
──22歳のとき(1972年〈筆者注〉)東京で「状況劇場」を退団したばかりの舞踏家・俳優の麿赤児(まろあかじ)に出会い、同郷の田村哲郎(後に舞踏グループ・ダンスラブマシーンを主宰)と共に弟子入りして、暗黒舞踏の系譜に加わる。それから関西に移って、1970年代、舞踏、前衛演劇やブルース、ロックなどの先端的な音楽シーンのメッカになっていた「京都大学西部講堂」の事務局長を務めたり、大阪の野外劇の雄といわれる劇団日本維新派(現ISINHA)と共に活動する。──
 その長野が高知に帰ってきたのは20代後半だった。縁があって、1歳年下の彼と知り合い、20代後半から30代初めにかけて、彼が高知で作った劇団に座付き作家として参加し、その始まりから終わりまでを見とどけさせてもらった。
 大きな公演から小さな公演まで、何本の台本を書いたのかは忘れたし、もうそんな台本も残ってはいないのだが、かなりの数の台本を書かせてもらった。
 高校時代から詩しか書いてこなかった僕は、長野という奇妙な人物に出会ったことで、言葉にこだわりつづけていた自分の小ささに気づかせてもらったりして、いまの自分があるのは20代後半に出会った長野という男の清濁併せ持った生き方に多大な影響を受けた。
 初めて書いた台本は『聖刑事』という台本で、3時間にもおよぶもので、「リブロード」というテナントビルの催し物会場で公演した。その公演の稽古のある日、長野が突然、「この幕のセリフは長くて難しいから全部のける」と言い出した。「言葉がなくてもわかる」とばかりにその一幕はセリフのない沈黙劇になってしまった。
 役者のセリフは全体の流れを説明するものであるから、一幕分セリフがなくなれば劇の進行がわからなくなる、と僕は思っていたのだが、稽古を重ねるにつれて、役者の肉体がセリフをカバーしはじめて、公演当日には、セリフのない一幕がいちばん美しかった、とさえ思えた。
 高校時代から詩を書いていて、それなりに自我を持っていた僕だったが、役者の肉体の多弁さを目の前に突きつけられると、いままでこだわってきた言葉への信頼感が無に帰すような錯覚を覚えた。
 その日から、長野が求める肉体と、僕が書きつづける言葉との自己主張の年月がつづいた。言葉が虚しくなればなるほど、言葉への愛着がわいてきたり、あるいはまた、肉体も言葉も共に虚無でしかない、などと思いながら、それまで言葉を使うのは当たり前だと思って生きてきたことを修正する作業が何年かつづいた。
 長野は僕の台本を嫌うかのようにたった一人の沈黙劇を次々に公演し、その沈黙劇を見るたびに僕は感動し、新たな言葉への想像力がわいてくる、といった年月を送った。
 劇団の解散は突然にきた。RKCホールで公演したミュージカルが大きな赤字になり、幹部劇団員だけで借金を払う、というようなことも遠因だったかもしれないが、ある日突然、長野が、「舞台で裸になれる覚悟がない」と劇団員を非難しはじめた。ほとんどの劇団員(20数人いたと思うが)はきょとんとして、長野がまた無茶を言い出した、というような顔をしていたが、彼は本気だった。というより、新劇崩れの芝居を志向している劇団員にたいしてストレスが溜まっていたのだと思う。暗黒舞踏をやってきた男と、高知という地方で新劇崩れの芝居をやりたいという連中が劇団を組んでいるのだ。水と油が手を組んでいたようなものなのだ。
 僕たちの劇団は比較的自由で、劇団としての公演の他、劇団員何人かがユニットを組み自由に公演をしていたが、そのなかには、何の想像力も引き起こすことのない自己充足的な既成劇を公演する者もいた。
 そういうことが長野にはとても腹だたしかったのだと思う。「外国人でもないのに赤毛のカツラをかぶって」やる芝居など徹底的に否定していたのだから。「舞台の上では自分自身をさらけ出せばいい。ありのままを出せばいい」といったところで、所詮それは長野個人のありのままだし、他の劇団員は彼や彼女のありのままがあって、それはとうてい長野が容認できないものであることは当然である。
 何人かの女の劇団員が「舞台では裸になれない」と言い出して、「舞台で裸になる必要があるのか」という意見も出されたが、長野は容赦しなかった。
 自分と価値観を共にできる者──とだけやっていこう、と決意していたように思う。ほとんどの劇団員が去っていった。
 僕個人のことをいうと、舞台の上で裸になり、オチンチまでさらす芝居には興味がなかったので彼のもとから去った。いまから思うと、あのとき長野は「裸になれるかどうか」なんてみみっちいことを言っていたのではなく、自分をさらけ出して観客と共に存在したいという決意があるのかどうかをみんなに問いかけていたのだと思う。きっとそうだと思う。
 長野のもとを去った劇団員が何人か集まって新しい劇団を作り、僕も参加を呼びかけられたが、長野のいない劇団なんかに何の魅力もなかった。
 彼と出会って一緒に暮らして教えてもらったことは数限りないし、いまの僕の何パーセントかを形成していると思う。感謝している。
 で、長野のエッセイだが、二つの話で構成されているが、「秘密の店」の話を紹介する。
 
──その一つは「バーン」というバーです。焼けるの過去完了形「焼けてしまった」お店です。とんでもない非常識を言いますが、「焼け跡は魅力的だと思います」。小学校の時、近所の銘木屋が焼けました。乾燥した木と塗料の置かれていたその火事は炎が高く、赤く、時たまぼわっと広がって、すごく印象に残っています。焼け跡に立つと、子どものころのようにわくわくしてしまう。大阪の下町、環状線のガード沿いの工場の焼け跡で「ゲリラライブ(舞踏)」をしたこともあります。焼けこげた柱と柱を、スズメ追いの金のテープでいくつもいくつもわたし結んで、夕方の時間を待っていました。結局は警察が来て途中で止めましたが、スリリングな空間でした。「バーン」は、そんな焼け跡の、夕焼けの時間を合法的に再現する試み。煉瓦で造った工場を一旦燃やして、樹脂で定着させる。残り火のような暖炉の火で焼く、ストーブ料理が供されます。気持ちが落ち着く、とても懐かしい空間です。──

相沢正一郎詩集
『ミツバチの惑星』を読んで




 
いつものようにシャワーを浴びたあと、ぬれた髪をタオルで拭きながら、ビール片手にテレビのスイッチをいれる。ブラウン管から溢れでる乳白色のひかりは、毎日わたしたちの顔を照らしていた。画面が切り変わるたびに床にこぼれ落ちたひかりが消え、新しいひかりが室内に波うちひろがった。
 とつぜん、テレビに映っていたアスパラガス畑に吹雪がふき込んでくる。──おや、と身をのりだしたとき、画像が一瞬ざわめきだしたとおもったら、緊張が解けたように消えた。
 そういえば、もうだいぶ前から、テレビの調子がわるかった。はじめ、映像が揺れたり、画面が上下に乱れたりしていた。そのたびに、あちこちのスイッチをいじくりまわったり、テレビのほっぺたを叩いたりして、だましだまし使ってきた。
 それから、三日後
──しまった、またやってしまった。ビールをのみながら壊れたテレビの前にすわって、うっかりスイッチをおしてしまう。そんなわたしを、くすんだ鏡が無表情に見ている。
 ……………………………………
 本から顔をあげ、冷蔵庫にたくさんのメモ用紙が、赤や黄色、青の動物の形をした磁石で留められているのを見る。──生協で注文する食べもの、歯科治療のお知らせ、クリーニング屋の領収書、〈子どもの誤飲事故〉に関する新聞の切りぬき、エトセトラ。それから、メモ用紙の重さに磁石が耐えきれなくなって、床に紙片が散らばるのを見る。
 そんな「小さな出来事」が、この宇宙の秩序とどう響きあうのか。深呼吸しようとあけた窓のむこうにひろがっている夜空を見ながら、そんなことを考えたのは、テーブルにひろげていた本に、たまたまアンドロメダ星雲と海辺の巻き貝の渦巻きの照応が書かれていたから。ここで、流れ星でも目撃すればこの話も決まるだろうけど、あいにく黒い空にあいた小さなたくさんの穴はうごかない。
 わたしはいつものように、ガスの点検やら戸締まりをして、ベッドにむかう。


 
引用したのは相沢正一郎さんの詩集『ミツバチの惑星』(書肆山田・刊)から、「ぺちゃんこのチューブをしぼって、ちびた歯ブラシに」の書き出し部分だ。
 
何度か
相沢さんの詩については書かせてもらったことがあるが、今度の、散文で構成された詩集を読んでいると、ジム・ジャームッシュがロード・ムービーではなくて、キッチン・ムービーを撮ったらこんなふうになるのではないか、とそんなことを思ってしまった。
 相沢さんの詩を読んでいつも思うことは、相沢さんが書く言葉には常に相沢さんの息づかいがある、ということだ。このことは僕にとってはとても大事なことで、世の中、いろいろな詩を書く人たちがいて、いろいろな詩を読ませてもらっているが、なかなかこの「自分の息づかい」で詩を書いている人はすくない。
 ジャームッシュが27歳のときにつくった初めての映画『パーマネント・バケーション』(1980年)を見たとき(もちろんビデオでだが)、なんでもない日常が画面の上に展開されているにもかかわらず、若いジャームッシュの孤独や虚無や、多少の希望などが、ジャームッシュの息づかいとともに感じられたし、2作目の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)を見たときは、ジャームッシュの繊細な心の傷痕がフィルムに焼き付けられたのではないか、と思ったほどである。
 いまこうして相沢さんの詩集を読んでいると、相沢さんの孤独や、多少の希望への思いが、相沢さんの息づかいとともに感じられる、とちょっと抽象的な書き方になってしまって、相沢さんの詩の良さをうまく伝えられないかもしれないが、そういうふうに言うしかない。
 ヒトは、単純な日常のなかで何を糧に生きているんだろう? おそらく、孤独や寂寥といった負の感情で生かされていると僕は思っている。もちろん愛や悦楽で生かされているときもあるだろう。体内の快楽物質が激しく活動し、負の世界のことなど考えられないほどの悦楽の世界に陥ることもままある。それはそれでいいことだと思う。だが、その絶頂の世界は長つづきしない。なぜ長つづきしないのかはわからないが、ヒトは、圧倒的に孤独や寂寥と共に生きている時間が長い、と僕は思っている。悦楽のあとにはかならず、とめどもない虚無が訪れる。
 その負の世界でヒトが考えることは、なぜ限られた命のみを生きなければならないのか、あるいは、なぜ生に執着したり死に執着したりするのだろうか、とか、自分はどう生きていきたいと願っているんだろうか、とか、あるいは、かつて味わった悦楽の時間をどうすれば再現できるだろうか、といったように、自分を取り巻く物語を再構築しようと試みている、と僕は思う。そのようにしてヒトは自らのこころぼそい生を確保しようと躍起になっているのだ。
 相沢さんの詩集に話をもどすと、相沢さんは一日のほとんどを台所で過ごしている(ちょっとオーバーな表現だが)。母親やおばあさんとの思い出を思いだしながら、チェーホフやプルーストやヘミングウェイを読んでいる。もちろんマーク・トウェインも読む。
 相沢さんの唯一の頼りは自分の想像力だけだ。自分の想像力だけでどう物語を読み解き、たわいない日常を読み解き、過去を未来を読み解き、自分自身を、自分はなぜこの地表に生かされているのか、を読み解こうとしている。
 相沢さんの特徴は、それらの「謎」を声高に訊ねないことである。自らの哲学を語ったり、他者との幻想を語らないことである。ひたすら、物語を語りつづけるだけである。物語を語ることが生きていることの唯一の証であるかのように。
 相沢さんの物語は、過去と現在と未来と、そして、書物や、相沢さんの頭の中を行き来していて、一筋縄ではいかない物語である。さきに「相沢さんの唯一の頼りは自分の想像力だけだ」と書いたが、相沢さんの物語を解読するには読者も、それぞれ独自の想像力が必要な仕掛けになっている。ヒトとヒトとの在り方は、触媒としての想像力の働きが左右するのでは、と強く思わされた一冊だった。



嵯峨恵子詩集
『愛すべき人びと』
「hotel  2号」(2001年1月15日発行 に発表)            


 
嵯峨恵子さんの詩集『愛すべき人びと』(思潮社)には嵯峨さんを取り巻くいろんな人が出てくる。ざっとあげてみると、年中発情期や頭にスがはいった同僚、病気の母にカレーを作る父、倹約家の上司、詩の教室の木原孝一さんに同人誌の土橋治重さん、結婚してから私達にちょっぴり冷たくなった女友達、サラ金の電話が会社にかかりはじめて退職した元上司、ときどきは、ツバメが飛行訓練をしているのに出会ったりすることもあるが、総じて、会社を中心とする人間関係はアクの強さばかりが目につく。生きていくというのは、そのアクの強い人間関係をどう凌ぐか、ということでもあるかもしれない。
 他者との関係は、近すぎず、遠すぎず、というが、そううまく事は運ばない。適当な距離をとっていたつもりがいつの間にか距離を縮めてしまっていることに気づくことがある。距離を縮めたのは自分か、相手か、あるいは双方からか、わからないが、ある日気がつくと、昨日までそんなに意識しなかった人物が息のかかる位置にいて、ウッとなってしまう、ということがある。あるいは反対に、急に好ましい人物として受け容れている自分を発見して驚いている、というようなこともある。
 嵯峨さんは他者との距離を描くことによって、自分の日常をさりげなく自分に言い聞かせている。「自分はこうして生きているんだ」と。可もなく、不可もなく生きているんだ、と。「流されている」というのは、受動態ではあるが能動態でもあるんだ、とも言い聞かせながら。
 この詩集の出だしの詩は
「愛について」というタイトルだ。いい詩だと思う。

 
雨の続いた十月
 久しぶりに磨かれた青の下を
 流れていくものがある
 ぬけるような空
 とはこのことをいうのか
 この空の下で
 ひとは赤くなっていく紅葉や黄色がかった銀杏に
 気をとられているはず
 それもいい
 それらの間から見える空の色あいが
 何かを思い出させるのもいい
 身近にあって気づかないもの
 気づいているからこそ認めたくないもの
 愛はわからない
 わかったにせよ
 解決などついたためしがない
 破れた空気ドームの端に
 あぶなっかしくも鳥たちは止まり
 もつれた糸の先をひっぱってみせる
 青は自然では一番少ない色
 空を思う時
 一瞬 気が遠くなるのは
 私たちの祖先が空から来たからかもしれない
 どれほどの言葉を尽くしても
 たどりつけない場所
 いつか あなたにも伝えたい
 水に封印された粒子
 とめどなく流れるもの
 私たちの星
 愛について


 
たぶん人は、何事においても「解決」などつかないから、かろうじて「生きている」ことを自分自身に言い聞かせているのではないだろうか。「解決」などついてしまったら、「生きていることの謎」がなくなって、犯人のわかった推理小説を読んでいるような味気ない一生になってしまうだろう。人は「なぜ生きているのか」という手垢のついた謎を、それぞれの人の数だけ用意して死んでいくことを不可避的に負わされている。
 どれほどの言葉を尽くしてもたどりつけない場所──僕たちはそれぞれの「たどりつけない場所」を、誰にもいえず、胸の奥深く、ずっと抱いたまま死んでいくのかもしれない。
 もう1編
「花の在りか」という詩を引用したい。

 
淡い香りが背中を追ってくる
 名ばかりの春
 恋人でも父親でもないひとのことを
 思い出したのは花のせい
 花の名を持つ詩のせい
 月に一度 青山の古ぼけたマンションの事務所に
 私たちが通った一年あまり
 病のために水分を制限されて
 氷をなめながらも先生は雄弁だった
 辛辣な批評と厭世的な世界観を繰り広げながら
 残された時間はわずか
 伝えなければならないことは多すぎた
 優等生にもどん尻にもなれなかった私は
 皮肉な面持ちで話を聞く日々だったが
 鵠沼海岸に座るご機嫌なスナップ・ショットを一枚残してひと月
 あっけなく先生はいってしまった
 愛する家族は遂に
 父親の最後の仕事を理解しなかった
 彼女たちの厳しい視線を私は決して忘れはしない
 詩人はどこまでもひとりなのだ
 というのが先生の持論だったが
 教室がつぶれ
 生徒たちはちりぢりに
 一冊本を出して沈黙を守った者
 地味な社会派の詩を作り続けている者
 勝手気儘にやっている者
 期待した弟子の行方は知れず

 季節の巡りはまた同じ位置に来て
 花は花のまま
 彼が本当に沈丁花が好きだったのか知る術はなく
 私は歩き続ける
 花の在りかを確かめることなく

 
※木原孝一(1922〜1979)は死の直前まで私たちに詩を教えてくれた。





『アンソロジー 山田隆昭』から
風のゆくえ

「SPACE35号」(2001年1月1日発行 に発表)

 
20代後半から30代にかけて、その当時はまだそういう存在が評価されていた「暗黒舞踏」出身の男と、この高知で劇団を運営していたことがある。彼(=)にはいろいろと刺激的な舞台を見せてもらったが、その中に「風の行方」という沈黙劇があった。
 舞台も客席もない板場で、何がはじまるとも知らない観客が板場に座り込んでいるのをかき分けてNが登場すると、観客に取り囲まれたまま、蓄音機から流れてくる音楽に合わせて洗濯をはじめる。(ほんとうの洗濯でなかったのがちょっと残念だったが)洗濯の終わったNは洗濯物を干しはじめる。そのとき、どこからともなく風が起きて、洗濯物が揺れはじめる。ただそれだけのことである。風はどこから起きて、どこへ行くのか。板場に座り込んでいる観客に、洗濯物を揺らす風が感じられるかどうか。あとは観客の想像力である。
 板場に干された洗濯物が、どこからか吹きはじめた風によって揺れはじめるのを「観客」が、「感じはじめる」ことによって、その沈黙劇は新たな展開を、観客の数だけ展開されはじめるのだが、当然、「風」を感じない観客もいて、その場で何が行われているのか分からないまま帰り支度を急ぐ観客もいる。
 それは当然である。というよりもそういう仕掛けによって、「風」は「高低差」を持ち得て、「風」となるのだ。
 なぜこんな昔語りをしたかというと、
『アンソロジー 山田隆昭』(土曜美術社出版販売)のなかの『風のゆくえ』という第一詩集を読んだからである。ここにも「風」が出てくる。
 
 風が吹くと
 海には三角波がたち
 波は舟底をひたひたと打ち
 ついには
 湖底へひき入れてしまうのだ

 西陽を背にうけて
 湖面を見つめていると
 沈んでいった舟と
 風のことを思いだす

 あのとき 確かに
 僕の中を風が吹いていた
 そして転覆し
 ひっそりと沈んでいったものは
 なにだったのか

 止むことのない風のなかで
 深くふかく沈んでゆき
 霧に直立する
 ひとすじの影のような
 生の紋様を
 永遠のなかに刻みつけたものは

             
(風紋)

 
ここには、おびただしい数の牛が
 放牧されている。牛たちは、みな
 一様に風上に尻を向けている。お
 そらく強い雨風を顔に受けないた
 めにそうしているのであろう。し
 かしぼくには、牛は風上に尻を向
 けているのではなく、風下に顔を
 向けて、風の行方を見定めている
 ように思えた。
 作者は忘れたが「風」という小説
 がある。主人公の語るところによ
 れば“パミールの奥地に風の起源
 の谷があり、世界中の風はそこか
 ら吹き出し、そこに向かって流れ
 ている”という。牛たちは、風下
 に顔を向けて、風の起源の谷をさ
 がし求めていたにちがいない。そ
 して、牛やぼくのいのちが、谷か
 ら吹き出た風と同じであるとした
 ら、ぼくのいのちの起源の谷は、
 どこにあるのだろう。多くのひと
 がそれをさがしもとめたにちがい
 ない。だがぼくたちは、それが無
 駄な行為とわかっても、さがしも
 とめることをやめるわけにはいか
 ないのだ。牛たちが、妙にものが
 なしい眼をしていたのもそのため
 だ。

        
(起源─下北半島尻屋崎にて

 
人の存在の不思議──ということをときどき考えることがある。「生」あるものはかならず「死」を迎える。「死」があるから「生」が輝きを持つのか、「生」があるから「死」が尊厳さを持ち得るのかわからないが、「人」は「死」を見据えて生きている。(なんて、そうかっこうよくは毎日を生きていない。その日の快楽を消費して生きている。毎日「死」を見据えてなんかいたら生きていけないのだが)
 すこし斜にかまえてシニカルな物言いをして、「生」を積極的に生きようとしている人たちから反対に冷笑されている僕ですら、「人はなぜ、死ぬために生きているのか」と考えることがある。人はどこから来てどこへ行くのか。そのことは永遠の謎でしかない。
 その謎に対して耳を傾けている山田さんの姿がこの詩集のなかにある。聞こえるものを聞き、聞こえないものを聞こうと山田さんは、注意深く耳を傾けない人々にとってはたんなる自然現象でしかない「風」が孕んでいる初源的な言葉を聞き逃すまいと、「風」に耳を傾ける。
 Nは、実際には吹いていない「風」を観客に想像させることで、観客にも劇への参加を要請し、「風」の由来を観客一人ひとりに訊こうとしたし、山田さんは、風の起源を問うことで、自らの出自を明確にできるのではないかと思っている。「風」の在り様を問うことは自らの在り様も浮き彫りにされる怖さを覚悟している、と言っていいような気がする。 
 「風」は、ある日とつぜん吹いてくる。風は街行く人の頬に吹き、街路樹の枝葉を揺らし、心を揺らし、身体を揺らし、街を揺らし、都市を揺らし、地球を揺らす。宇宙を揺らすほどの風の起源はどこにあるのだろうか。






豊原清明詩集
『夜の人工の木』を読んで
「ミッドナイトプレス9号」 (2000年9月5日 に発表)
  

 
先日TVをみていたら、9歳の少女を9年間も監禁していた男の初公判のレポートをやっていて、そのなかでレポーターと呼ばれる人がしきりに被告人の自分勝手さを指摘し、「被告人は自分勝手な論理を主張して、自分の行為を反省していない」と糾弾していたが、被告人が九歳の少女を誘拐して9年間も監禁し、なおかつ「ずうっと傍にいてほしかった」と言えるのはただただ「自分勝手な論理」でしかないと僕は最初から思っていたので、いま改めてそのことを声高に糾弾しているTV画面をみていて、そんなことは最初からわかっていたことじゃないか、とつい思ってしまった。
「自分勝手な論理」を「健全志向型の社会」の中で求めたから「犯罪者」として糾弾されているのだ。そんなわかりきったことをさも鬼の首でもとったかのように声高に「自分勝手な論理」を糾弾しているレポーターという種族を見ていると、彼らはきっと、他人の気持ちをおもんばかる人たちばかりで、自分のことなど二の次三の次でしかないという謙虚な日常を送っているにちがいないと、頭が下がる思いがした。
 しかし、その「自分勝手な論理」に対する糾弾の激しさを見ていると、その背後には次のようなことが見え隠れしているのではないだろうかという疑問も当然あった。
 この社会は、他人の気持ちをおもんばかる善良な人たちばかりで構成されれば、あらゆる不安や恐怖が解消されて快適な日常を送ることができる。ヒトとして生まれついた以上は70年80年の天寿を全うし、その間、誰もが健康で文化的でかつ安全な生活をおくる権利がある。だから、いずれ他者の身を危険な状態に追い込む危惧のある「自分勝手な論理」を持っている人は、あらかじめこの社会から排除、あるいは、隔離しておいたほうが不幸なことがなくていい。「自分勝手な論理」を糾弾している言葉の裏にはそんな理不尽さが見え隠れしていた。
 しかし、「自分勝手な論理」は誰の心の中にも巣くっているもので、何かきっかけがあれば自分の意志とは無関係に牙をむくものである。自分の心の中を覗き込んでも、いつ牙をむくのかなかなかわからないのでたいていの人は、自分は安全な人間だと錯覚して暮らしているだけのことである。

『詩の現在を私はこう考える』というテーマを与えられたが、『詩の現在』を考えれるほど『詩の現在』に精通していないし、『詩の現在』ということもよくわからない。ただ、たくさんの詩がある、ということだけだ。
 いろんな考えはあるだろうが、たくさんの詩が無防備的に生産され、たくさんの詩集が困惑もなしに生産されている『現在』になんの反論もない。「詩」は一部の選別された人たちの所有物ではないことが証明されている。いい時代だと思う。「個の在り方を提出している」という幻想が持てる時代だ。
 一方で、「詩人」とは常に野にあり、どの団体にも所属しない、というアナクロニズムが流行らない時代でもある。
 文章を書く者なら誰だって、有名になり全国の書店に自分の本が平積みされたい、という欲望を持っている。詩に限らず、自分の作品がたくさんの読者を得たいと願うのは当然の欲望である。そのためには「受賞」が手っ取り早い。だから「賞」がほしくて血眼になっている「詩人」がたくさんいるのも「社会」としては正常に機能していると思う。
『詩の現在』とは何かと問われても何もわからないので、現在注目されている人の作品を読むことでお茶を濁したいと思う。
 18歳で第一回中原中也賞を受賞した豊原清明さんと親交のある年若い友人に
『夜の人工の木』という豊原さんの詩集を借りて読んだ。
 かつて詩は青春の文学とかいわれていたが、現在では(僕の知る限りでは)若者よりも年老いた人たちのほうが詩を書く人口が多い。いつ逆転したかは知らないが、青春まっただ中で書きはじめた僕らの世代が、書きやめることなく年寄りの部類にはいってしまい、若い世代はビジュアルな世界に足を踏みいれてしまった、とかなり前からそんな分析がなされているが、何となく画一的で安易な分析なような気がしているが、それに反論するだけの資料がないので黙ってるしかない。
 若い人たちは読書は嫌いでもインターネットやテレビゲームは夢中になってやっている。たぶんこういうことだと思う。インターネットやテレビゲームは目に見える画面を処理していけば後は機械が勝手に新たな状況を展開してくれる。自分で考えなくても前へ進めるのだ。
 一方、本のなかの活字はインターネットやテレビゲームみたいに勝手に動いてくれない。ときによるとじっと一ヵ所にとどまったりする。すると、そこから先の展開は自分の頭の中で考えなければならない。だからインターネットの活字は平気で読むが、本の中の活字は苦手だという若い人たちが多いように思う。
 年寄りの中にはそのことを嘆く人もいるが、いつも新しい時代は旧い時代を凌駕してきたのだ。いいとか悪いとか、そんな価値判断を越えて。
 僕が昔、ワープロで原稿を書きはじめたとき(その当時ワープロは70万円もしていた)古い世代の人に、「ワープロで原稿を書くと文体が翻訳調になって、詩がだめになる」というような言われなき非難を受けたことがある。(作品が未熟なのは単に僕の資質の問題でしかないはずなのに。)
 いつの時代にも言われなき非難というものはあるもので、若い人はそういう前世代の、いわゆる権威となった人たちに立ち向かっていかなくてはならない。まあ、通過儀礼のようなものだろう、と僕は思っている。常に、後から来る世代は先行する世代の価値観を叩きのめしてからでないと前に進めないのだ。ときどきその自明の理を忘れて、先行する世代におべんちゃらを言ってお愛想笑いをする人もいるが、それもまた「社会」の現実である。
 ビジュアル世代がなぜいけないのか、僕にはわからないが、「ビジュアル世代」だと言われなき非難を受けている世代の人たちの中からときどき、書くことで自己を問い直し、他者との関係性を問おうとする者が現われる。豊原さんもそのひとりだ。(ビジュアル世代の中にも骨のある奴もいる、と年寄りの声が聞こえそうだが。)
 僕は豊原さんのことは何も知らないのだが、この詩集に掲載されている伊勢田史郎という人の跋文を読むと、登校拒否や家庭内暴力という心の闇に侵されていた豊原さんは神戸新聞文化センターの児童詩教室に通い、詩を書くことで、不条理な世界のなかで生きてゆかなければならぬ人間の悲しみが、彼のエンピツの尖端からふつふつと泉のように湧き、原稿用紙の上に溢れてきたように詩を書いたそうである。
 それは、豊原さんと詩との、この上ない至福な出会いである、と僕は思う。人は一生のうち何度かそういう至福な出会いを経験することがある。そのことに気づけるかどうか、そのことを大切に思えるかどうか、それもその人の才能なのかもしれない。
 豊原さんは神戸新聞文化センターの児童詩教室で「詩」と出会ったが、もし、豊原さんが通ったのが、児童詩教室ではなく、絵画教室であったとしても、音楽教室であったとしても、それぞれの場所で豊原さんは心の闇を解きほぐす才能をみせただろう、と思わずにはいられないほどの豊かで開かれた感性がこの詩集で展開されている。
 たくさんのいい詩があるが、ここでは
「低い声」を引用する。

 
恩師と僕は街で久しぶりに出会って
 喫茶店に入った
 二人はアイスコーヒーを注文する
 「おごってもらってすいません」
 「いえいえ」
 店を出て青草のある平原まで
 歩いた
 塾の先生は
 僕のことを感受性が鈍いと
 言った
 コンビニの店長が
 車で僕を追っかけてきて
 カバンを見られた
 恩師は僕の汗をハンカチで拭く
 「そんなに暑いか?」
 「はい…」
 青草に腰を下ろして
 見たものは
 船と波と海と
 季節はずれの冬ミカンだった
 恩師は低い声で言った
 「詩よりも人生が大事なんやで」
 「はい」
 コクリとうなずき
 二人は はなればなれ


 
この詩については改めて僕が言うことは何もない。
 年寄りはさまざまな場数を踏んでいるから、ときどき若い者に人生訓を語ってやろうというような気になるが、たいしたオリジナリティも持ち合わせていないから、つい、「詩よりも人生が大事なんやで」というような手垢のついたことを言ってしまう。
「詩」などというものにうつつをぬかさず、学校へ通って立派な社会人になって世間様に後ろ指をさされないようにするのが人間というものだ。できれば世間様のお役にたつようなことをひとつでもすれば人間としてそこそこの義務が果たせるのじゃないかな、と年寄りはつい言わずもがなのことを口走ったりしてしまう。
 そのことについて豊原さんは「はい」としか応えていないが、「はなればなれ」と書くからにはもしかしたらこう思っていたかもしれない。
 詩よりも人生が大切とは思わないが、人生よりも詩が大切とも思わない。ましてや、詩も人生も大切などというしたり顔もしたくない。「詩も人生も何もわからない」そう言うのが一番だと思うが、そんなあいまいなことで詩を書いたり人生を生きているのかと馬鹿にされたくないからここは一番、「はい」と言ってやり過ごそう。あとは、「はなればなれ」になるんだから。
 あるいは、こう言ってもよかったのだ。

 
僕はしぜんが欲しかった
 やがて革命が起こるだろう
 発狂をしないように
 小さな子供を
 草に転ばせる
 冷たい地獄のこの暑さよ

 僕は色々な旗を持っています

              
(『緑』全篇)

 
たずね人の写真が
 バス停に
 おいてあった

 今、一体どこにいるのやろ
 ぼくが詩を書いている時
 何をしてんのやろ
 もしかして
 人間がイヤになって地面の下にでも
 うまっているのだろうか?
 何やしらんが
 早よ帰って来い
 こちらが迷惑や

 もしも地球にいなかったら
 ぼくもそこに
 入れてくれ!

           
(『たずね人』全篇)

 
思春期の孤独や不安、破壊への欲望、自己肯定と自己否定、生きていることの苛立ち、生きていることの不思議、誰もが通るだろう通過儀礼のような思春期をアップアップしながらも生き抜いている豊原さんの軌跡がこの詩集のあらゆる箇所に表出されている。
 豊原さんは「あとがき」で、《将来、大人になった時、この詩集を読み返し「こんなささいな事を考えていたのか」と、思えるような自分でありたいと願っています。》と書いているが、この詩集に書かれていることがそんな「ささいな事」だとは僕には思えない。
 まぎれもなくこの詩集も『詩の現在』である、と僕は思う。